光降り注ぐ部屋
良前 収
ベリーとオレンジ
ミラベルは朝日の
こしこしと目をこすり、ううーんとお布団の中で伸びをしてから、その小さな女の子は起き上がった。
「おはようございます、ミラベル様」
既に控えていた侍女たちが微笑みとともに声をかけてくれる。
「うん、おはよう」
ミラベルも笑顔で
朝の支度の前に必ずするのは、侍女たちが用意するお茶をベッドの上で飲むことだった。
「わぁ、いい香り」
「アルビヌス様が新しくご用意された紅茶でございますわ」
一口、飲んでみる。レモンやオレンジなどの果実、その爽やかな香りと味がミラベルの中に広がった。
「私、これ好き!」
「まあ、それは大変よろしゅうございました」
侍女たちもすっかり満面の笑みで、互いに視線を交わしている。その間、女の子はちょうど良い温度の紅茶をこくこく飲んだ。
飲み終わって満足の息をついたところで「お支度をなさいますか」と問われ「うん!」と元気よく返事をする。さっと侍女たち全員が動き出した。
軽く身を清めたり淡い茶色の髪を
「どれも見たことがないドレス?」
「はい、アルビヌス様が新しくお仕立てになりました」
ミラベルはちょっと困った。
「まだ着たことがないドレスもいっぱいあったよね?」
「まあ、ミラベル様は八才になられて、これから一番背の伸びる時期でございますもの」
「新しいドレスはどんどん必要になるのが、普通で自然なことですのよ」
彼女はますます困って、小さな眉間に
「他のドレスも、今のうちにちゃんと着ておこう……」
「まあまあ、そのような」
「ミラベル様は、お召しになりたいドレスをどうぞお召しになってくださいませ」
「そうなさっていただけると、私どももミラベル様のお好みを知ることができます」
「それをアルビヌス様にお伝えすれば……」
「……私どもも、とっておきのお菓子をアルビヌス様からいただけるのですよ」
ぱちぱちぱち。しきりに目を瞬かせてから、小さな女の子は笑い声を上げた。
「ふふっ、そうなのね?」
「はい、ですからミラベル様は是非とも、一番お召しになりたいドレスをお教えくださいませ」
「私どものお菓子のために!」
侍女たちさえ笑い声を上げて、ミラベルもますます笑う。
「じゃあ、これ!」
「はい、かしこまりました」
遠慮のなくなった女の子が指差したドレスに、侍女たちの笑みがさらに深まる。
愛らしいドレスは明るい黄。それは侍女たちの主の髪と瞳を思わせる色だったから。
小さな女の子の着替えと髪結いがすっかり終わったちょうどその時、
「やあ、ミラ! これはまた可愛らしいね!」
「アル様!」
ぱあっと小さな女の子は表情を輝かせ、青年のもとへ駆けていく。
「新しいドレス、ありがとうございます!」
「あぁ本当に似合っている。私の見立ては正しかった」
金の髪と瞳、抜けるような白い肌、人ならざる者であるかのような美しい容姿。そんな青年が、いかにも
ここが王都の夜会会場なら、複数の令嬢や若い夫人が失神していただろう。ミラベル付き侍女のうち、もう長くアルビヌスに仕え続けている三名はそう思った。何しろ社交に全く興味のない彼がごく
この場に居合わせることを許されている侍女でも、まだ年若い者一名がはっきり頬を染めている。他の若いあるいは熟練の侍女たちはほぼ表情を変えていない。だがその実、彼女たちこそが
主は侍女たちを一切見ていないが、確実にあの若い侍女に気付いている。彼女を守るためには、即時の配置換えと徹底した再教育、そして今後は絶対に主の視界に入らないようにすることが必須。この後の主の機嫌によっては、屋敷からも出す。
そんな侍女たちの様子もアルビヌスの体で隠され、小さなミラベルは無邪気に片足のつま先で立ちくるりと回った。彼が
「どうですか?」
ほんの少しだけ頬を染めて見上げてくる小さな女の子に、青年はこれまたはっきり喜色を浮かべた。
「まるで妖精のお姫様のようだよ!」
熟練の侍女たちはその妖精の姫君へ内心で深い感謝を捧げた。そんな使用人たちをよそに、主は
「お姫様、どうか私と一緒に朝食を取っていただけませんか?」
ミラベルもはしゃいで笑って、大きく
「はい、喜んで!」
大きく顔を
◇
ソファに座ってクッキーを食べながら、ミラベルは彼女の部屋を囲む庭を眺めていた。黄色や橙色の生気
真四角のとても広い部屋は、壁が透明だ。まだ住み始めて間もない頃は、彼女もたまにぶつかりかけた。けれどそういうときにだけ、ぱっと色が付いて当たっても柔らかくなる、不思議な壁。
周囲全ての壁が透明だから、ミラベルはどこに座って何をしていても、美しく咲き誇る花々やその上を舞う蝶を見ることができる。部屋からの方向によって花の種類や庭の趣向が変えられていて、毎日見ていても飽きない。
もっと近くで庭を見たいと言うと、アルビヌスとともに散策する運びとなる。手をつないで歩くこともあるし、彼に抱き上げられて進むこともある。そうやって部屋から離れた場所へ行くと、一層大輪の花や美味しそうな実のなった木があって、いつもミラベルは夢中になる。アルビヌスも笑って、その花や果実を取って渡してくれる。弾んだ気持ちで彼女は部屋にそれらを持ち帰るのだ。
また一枚クッキーをかじり、ミラベルは顔を上げて庭を見た。花や数本の果樹より遠くには、生け垣のような物がある。うっすらとしか見えないが、濃い緑の
たまに彼女も気になって、そこまで行ってみたいと思うのだが、歩いていくと途中にある物にもっと気を引かれて夢中になる。アルビヌスもあそこには特に何もないと言って苦笑しているので、彼女もそれほどは気にしていない。
そのままミラベルは顔を上げていって、天井の向こうの空を仰いだ。天井も床と同じく透明で、晴れ渡った青空がよく見えた。
この部屋で暮らすようになってから、天気は快晴や白い雲がちらほら浮かぶ気持ちのいい晴れであることが多い。時折雨が降り、透明な壁や天井越しに大きな虹が見える機会もある。
ごくたまに嵐が来る。雷が光り
翌朝目覚めて最初に目に入るのはいつだって、一面広がる青い空と太陽のように輝く青年の笑顔。だから実は、彼女は嵐が来るのも嫌いではなかった。
今度は手をカップに伸ばし、ほどよく冷めた紅茶を飲む。レモンやオレンジを思わせる味と香りに心が浮き立った。
オレンジやレモンをミラベルが
好みが変わったのかなと首を傾げたら、きっとそれは大人への第一歩だろうと侍女たちから言われた。なんだか嬉しくなって、オレンジのケーキやレモンティーにも挑戦してみたらやっぱり気に入って、侍女たちもそういったお菓子や飲み物をテーブルに並べてくれるようになった。
甘いベリーのジャムが好きだった頃のことを、ミラベルはあまり覚えていない。
ぼんやりと、何かとても怖いことがあったのは、記憶している。怖くて怖くて
そして急に抱き上げられた。驚いてぎゅっと体を縮めたけれど、温かい胸にぎゅっと抱き寄せられた。それで少し安心して、次に目を開けたらこの真四角で透明な部屋にいた。抱きしめてくれていたのは金の瞳と髪の青年、アルビヌスだった。
その経験より前のことは本当に
「……よしっと」
おやつの時間を終えたミラベルは気合いを入れ直す。
「
「はい、かしこまりました」
最も刺繍が得意だという若い侍女がきりっとした真剣な顔になって、棚に仕舞われた道具を取りにいく。他の侍女たちはそんな後輩に笑みを向けながら茶器や菓子の皿を片付けた。
「アル様のお誕生日までに、ハンカチに刺繍、できるようになるかな?」
「もちろんです、ミラベル様はとても上達がお早いですもの」
「黄色いお花を刺繍したいの」
「まあ、それは素敵ですわ!」
「きっとお喜びになります。アルビヌス様のお色であり、ミラベル様のお瞳の色でもありますもの」
小さな女の子は恥ずかしがって、だが笑う。
「私、瞳の色がアル様と一緒になって、良かったって思うの!」
◇
雪混じりの冷気とともに玄関をくぐった主を執事は出迎えた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ。今日のミラの様子は?」
魔塔の筆頭魔術師の衣装である漆黒と金のローブをさっさと脱ぎ、執事へ押しつけながらアルビヌスが真っ先にこの質問をするという流れは、まだ一年足らずでも毎日の当然と化していた。
「変わらず、お健やかに過ごしておられると報告を受けております」
ひとまず着替えと屋敷の雑事を済ませるため自室へ向かう主を追いつつ、執事は続ける。
「今日も熱心に刺繍の練習に励まれ、夏の庭を眺めておられたとのことです」
「うん」
主は思案するように
「一度詳しい報告を直接聞いたほうが良さそうだな。ミラが眠ったら私のところへ来るよう、侍女長へ伝えておいてくれ」
執事がそっと問いかける視線を投げかけたのへ、主はさらりと答える。
「今朝のあの侍女についても話したいからな」
執事は内心の緊張を表に出さぬよう気を張りながら、慎重に口を開いた。
「大変勝手ながら、一応の処分を既に下しております」
問う目を今度向けられたのは執事のほう。言葉を選び、説明していく。
「ハーブティーの調合が得意との売り込みでしたので、キッチンメイドへの配置換えとしました。職務はハーブティーの調合のみとし、それを飲むのは使用人たちに限定します。もしもミラベル様が好まれそうな物があった場合は、調合レシピを彼女から提出させ、他の使用人が調合した物を
侍女とは花形職、主人やその家族の身の周りを直接世話する上級使用人だ。それに対してキッチンメイドはコックの下に置かれる下級使用人であり、主人たちに接する機会がないどころか主人たちの目に触れてはいけない。給与などの待遇も大きく違う。
「ふぅん……まあ、妥当かな」
執事は
まだ幼いミラベルは濃い紅茶を多く飲み過ぎるべきではないとアルビヌスが考え、他の飲み物の候補を探していた。そこで名乗りを上げたのがあの元侍女だ。実際、彼女が調合するハーブティーは専門職並みで、ならば直接ミラベルとやり取りさせるのがよいとあの部屋付きになった。
それだけに、アルビヌスとしても元侍女の使用価値は依然として存在し、邪魔や害になる可能性がかなり低いのであれば屋敷に置いておきたいだろう。執事と侍女長とメイド長は合議の上でそう予想して、このように差配した。むしろ屋敷から出さないほうが安全だと執事は主張したぐらいだった。
予想は正しかったらしく、主はそれでもう元侍女への興味を失ったらしい。
「ミラの家庭教師の候補はどの程度見つかった?」
「作法、古典文学、語学、財政についてはそれぞれ二人ずつ。ただ、歴史、諸貴族知識、諸外国知識につきましては難航しております。申し訳ありません」
そこで主の私室に着き、中へ入るやさっさと服を脱ぎ捨て始めた彼の着替えを執事は急いで用意する。その間も会話は続いた。
「王家の横やりがあったんだろう? どうせ」
「はい。おそらく関連して、王家より書状が届いております」
「読む気はない」
「……私が確認してもよろしいでしょうか?」
「そうだな。『王城へ戻せ』以外のことが書いてあったら報告してくれ」
「かしこまりました」
執事は他にも二、三の報告と指示願いを行い、アルビヌスから回答を得た。そこでちょうど青年の身支度はすっかり整う。
「もう行くよ、いいね?」
「はい、いってらっしゃいませ」
一礼した執事が頭を上げた時には主は転移魔法によって消えていた。彼が作った箱へ行ったのだ。
思わず大きな溜め息が執事の口から漏れた。部屋の窓へ目を遣れば、雪が激しくなっていた。
だがあの部屋には冬は来ない。春と夏と秋が共存し、ひたすらに小さな女の子に優しい、青年が彼女をただ可愛がるための世界。
本当のミラベルは八才ではない。十六才だ。
だが十五才の時に壊れかけ、寸前でアルビヌスが彼女を救った。そして彼女が直ることができるよう、優しい世界に閉じ込めた。
箱の中の小さな女の子は、外から見れば目まぐるしく成長している。けれど青年にとっては。
本当なら既に、彼女を妻に迎えていたはずなのに。王女の降嫁を願う、それだけのために魔塔の頂点にまで上りつめてみせたのに。
『この箱を作るために、魔法を極めた、ということなのかもな』
そう言った、あの時の主の顔を、執事は忘れられない。
昔も今も妖精のようなあの姫君が、どうか変わらず主を慕ってくれますように。主は変わらず姫君を愛しているのだから、どうか。
長くあの孤独な青年に仕え続けている執事は、雪降らせる天に
光降り注ぐ部屋 良前 収 @rasaki
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