シュレディンガーの箱

秋待諷月

シュレディンガーの箱

 彼のシャツの左胸のポケットが、不自然に四角く膨らんでいる。

 推定では縦横とも五、六センチ程度の正方形で、立方体よりはやや平たい。

 シャツの布地が厚いため色までは透け見えないが、ぼこりとみっともなく突き出しているため非常に目立つ。今朝、彼が私のアパートまで車で迎えに来て、丸一日を一緒に過ごして夜を迎えた今の今まで、それはもう、気になって気になって仕方がない。


 これは「アレ」か。「アレ」に違いない。


 今日は私と彼が付き合い始めてからぴったり十年目で、私はいつしか三十ピー歳に到達しており、なんなら彼と本屋に入る度にこれ見よがしにゼク○イにちらちらと視線を走らせており、そのタイミングでの今日のデートとなれば、つまりはそういうアレだろう。そうでなかったら私はキレる。

 夕食を終えて店を出たのち、「寄りたいところがある」と彼が唐突に車を走らせた先は、綺麗な夜景を望む高台の駐車場。夜風に当たらないか、などと言われるがままに車外に誘い出され、現在二人で並んで座るのは、街明かりがよく見える小さなベンチ。


 ここまでのシチュエーションを設定しておきながら「アレ」が出てこなければ、彼はチキン確定だ。

 ――というか、まごうことなきチキン野郎なのだ。十年以上の長い付き合いで、嫌というほど知っている。


 もしもこの雰囲気が少しでも壊れようものなら、途端に彼の決心はガラス細工のように粉々に砕けてしまい、気まずい空気のまま今日のデートを終え、当面はくじけたままでいることだろう。

 だからこそ私は、今朝も開口一番で「そのポケットどうした?」と指摘しそうになったところをすんでのところで堪え、四角く膨らんだ左胸を見ないように必死で視線を逸らして丸一日を過ごしたのだ。


 だから早く「アレ」を出してほしい。もはや見ないフリも限界だ。


 彼はと言えば、先から私の顔をちらちらと覗き見ては、落ち着かなく貧乏揺すりをする有様である。尻を蹴り飛ばしてやりたい気持ちを殺して優しく微笑み、私は視線だけで「どうかした?」と問う。赤面して顔を背けた彼が、しどろもどろに言うことには。


「いや、その……月が綺麗だね?」


 漱石気取りか。そんな柄か。そして発するべきは「Will you marry me?」であり、「I love you」は不適当ではないのか。

 口から迸りそうになるツッコミを全て丸呑みし、私は神がかった演技力で「うん、綺麗だね」と空惚ける。彼もぎこちなく笑い、そして再びそわそわと視線を彷徨わせ始める。

 胸の中で嘆息すると同時に、私は徐々に不安に駆られ始めた。そもそも、あの四角い膨らみは、本当に「アレ」なのだろうか?

 彼は嫌煙家であり、煙草やライターがポケットに入っていることはない。スマホやキーケースの形状でもない。ワイヤレスイヤホンのケースやコインケースならばあり得るが、どちらも彼は所持していないはずだ。だからと言って、「アレ」と決めつけるのは短絡に過ぎる。

 さらに言うなら、箱であるという保証も無い。実際に観測しない限り、ポケットの中の箱は、存在すると同時に存在しないのだから。

 なんという曖昧模糊な状況。彼の意気地の無さ以上に、宙ぶらりんな箱の存在に苛立ちが募る。


 早く出せ。観測させろ。覚悟を証明してみせろ。


 私の脅迫めいた念波が届いたのか、彼は意を決したように息を吐きながら大きく肩を上下させ、真っ直ぐに私の顔を見て、私の名を呼んだ。

 そして、に手を突っ込んだかと思うと。


「俺と結婚してください……!」


 バッグから取り出され、彼が両手で開いた箱の中には、きらりと輝くダイヤのリング。

 彼の左胸のポケットは、依然、不自然に四角く膨らんだまま。

 きっかり五秒間固まったのち、未観測の箱を指差し、私は言った。




「そっちの箱は!?」

 





 Fin.

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シュレディンガーの箱 秋待諷月 @akimachi_f

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