夜を捕まえた
@kumehara
第1話
今から数年前か、十数年前か、数十年前の、過去のお話です。
まだ幼いあなたは、内緒で入り込んだお父さんの書斎で、小さな箱を見つけました。
なんの飾り気もない、薄水色の小さな紙の箱。小児のあなたが、片手で軽々と持ち上げられる重さです。
軽く振ってみると、カサカサ……と中身が揺れる音が聴こえました。紙のような物が入っているのでしょうか?
あなたが好奇心に任せて箱を開こうとした、その時。後ろからお父さんがやって来て、箱を優しく取り上げられてしまいました。
「こら。勝手に入ったら、駄目だろう?」
あなたは素直に謝罪しましたが、箱の中身が気になって仕方がありません。うずうずしながら尋ねてみました。
「これかい? これはね……夜を捕まえたんだ」
お父さんが、少し寂しそうに笑います。
夜、というのは、外が暗くて寒くなる、あの、夜のことでしょうか? いつの間にかやって来て、いつの間にか居なくなっている、あの、夜?
「そう。その、夜を、この箱の中に閉じ込めたんだ。開けると逃げてしまうから、決して開けてはいけないよ」
そう言って、お父さんはその箱を、あなたの手が届かない高い所へ隠してしまったのでした。
時が流れ、あなたは大人になりました。
そして今日は、一世一代の晴れ舞台。あなたの結婚式の日です。
何度も何度もパートナーと話し合い、時間をかけて準備を進め、ようやくこの日がやってきました。段取りは頭に入っているし、リハーサルも済ませていますが、やはり緊張してしまいます。
ふう、と深呼吸をした時、あなたの居る控室の扉がノックされ、遠慮気味に開かれました。入ってきたのは、お父さんです。
「立派に成長してくれて、嬉しいよ。今日は最高の日になるだろう。緊張し過ぎて、変な失敗するなよ? ……それと、これ」
そう言って、お父さんは小さな箱を差し出してきました。幼かったあの日、書斎で見つけた薄水色の小さな箱です。あなたはこれまで、お父さんとの約束をきちんと守ってきたので、この箱の中身を知りません。
様子を窺うように視線を上げると、お父さんは寂しそうに笑います。
「お前の母さんから預かっていたんだ。大人になったら渡してほしい、ってね。今日しかないなと思ってさ。ほら」
困惑しながら受け取ったあなたは、恐る恐る、その箱を開きました。
中に入っていたのは、小さな紙切れ一枚だけです。
少し黄ばんだ小さな紙に、たった一言、「ずっと大好きだよ」と書かれています。
「それを見ると、思い出すんだ。お前宛てにそのメモを書いていた夜のこと。……そして数日後、お前が産まれて、お前の母さんが亡くなってしまった夜のこと」
あなたのお母さんは、あなたを産んだ直後に亡くなってしまいました。出産時の脳出血によるものだったと聞いています。あなたはもちろん、お母さんに会った記憶がありません。
ただ、お父さんが今でも変わらずお母さんを深く愛していることだけは、知っています。毎年、あなたの誕生日を笑顔で祝ったあと、お母さんの写真を見て涙を流す姿を、ずっと見てきたのですから。
そのお母さんが、出産時のリスクについての説明を改めて聞いた日の夜に、この書き置きを残したのだと、お父さんは言います。念の為だよ、と冗談っぽく笑いながら書いたそれが、遺書になってしまうとは、二人とも思ってはいなかったでしょう。
「人間、いつ何が起きるか分からない。お前もいつか、パートナーと離れる時が来るのかもしれない。覚悟しておけ、とは言わないけれど、せめて、後悔が少なく済むように、精一杯生きて、精一杯愛し続けるんだぞ」
柔らかい筆跡の文字を指でなぞり、あなたは深く頷きました。
夜を捕まえた @kumehara
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