「箱」の方法について

清瀬 六朗

「箱」の方法は有用か?

 「大箱」・「小箱」ということばに出会ったのは、まだ私が若かったころのことだ。

 地域の図書館で、本棚のあいだをふらふらと歩いているときに見つけた「シナリオの書きかた」のような本でだった。

 そのころの私は、本業の仕事に熱意が持てず、なんとなく「もの書き」の仕事ができればいいな、と思っていた。それでその本を借りてきた。

 ある脚本家が書いた、実践的な内容の本だった。

 その著者は、錚々そうそうたる大家ではないけれど、「中堅」ということにはなるのだろう。そのひとが脚本を担当した作品というのを、私は何本か見ていた。まだネット検索などというものがない時代、プロフィール欄に出ている作品名だけで、「ああ、あの作品もこのひとか」と思うものがいくつもあった。

 ただ、困ったことに、その作品のどれも、私は好きではなかった。

 「なぜ、この素材でこんなつまらないものしか作れないんだろう」、「このプロットならばもっとおもしろい展開ができるはずなのに」と思う作品ばかりだった。

 当時はものを知らないくせになまいき盛りだったから、いま同じ作品を見れば、また別の見方ができるのかも知れないけれど。

 その本に書いてあったのが、「シナリオを書くにはテーマが何よりも重要です」、「テーマとあらすじは違います」というようなことだった。

 つまり「こういうあらすじの物語はおもしろそう」という思いだけで物語を書いてはダメで、「そのテーマは何か」をきちんと考えなさい、ということだ。

 その先に、あらすじを「箱」へと落とし込んで物語に仕上げていく方法が書いてあった。

 テーマをあらすじに落とし込む。そのあらすじがうまく展開するように、まず大ざっぱに場面分けをする。これを「大箱(大バコ)」という。その「大箱」の内部を細分化して、細かい場面を決めていく。これを「小箱(小バコ)」という。

 「大箱」から「小箱」へ、小箱から具体的なセリフや動きへと進めていくことで、無理なく一回分のドラマができあがるんだ。

 そういう内容だった。


 納得はした。

 でも、同時に思ったのが、大学入試の前にやった「小論文対策」と同じだな、ということだった。

 小論文は字数が限られている。だから、答案では、言いたいことの根拠を挙げていき、「それだからこうなんだ」ということを明確に主張する。そのすべての部分が論理的につながっていなければならない。その流れができたら、それぞれの部分で使える字数を割り当て、表現を工夫し、内容を取捨選択する。それで、指定された字数の九割以上十割以下の字数になるように文章を書く。

 小論文は、答案なので、「論理的にできていること」や「わかりやすいこと」が求められる。

 それは、わかる。

 それに、答案なので、文章としてのおもしろさなんかよりも、まず採点者に高い点をもらえる文章を書かなければいけない。

 でも、ドラマのシナリオを作るのに、同じように「論理的でわかりやすい構成」が必要なのだろうか、と思った。

 そして、なまいきにも、このひとが脚本を書いた作品が私の心に響かなかったのは、こういう作りかたをしているからではないか、と思ってしまった。

 ドラマならば、考えたこともないような展開や飛躍があっていいはずなのに、それがないから。ないというより、そういう「意外さ」すら設計されたものであるということがわかってしまうから。

 それが「このひとが脚本を書いたドラマはおもしろくない」という感覚の正体だったのではないか、と思ったのだ。

 ほんとうは、その「設計した意外さ」が「設計した」と見抜かれないサプライズになることが必要なのだろうし、それをどうするかは、たぶん、だれにも公開しない脚本家の「秘伝」のようなもの、または、脚本家自身も意識していない暗黙の技巧なのかも知れない。だいたい、一般向けのシナリオ作法の本で、自分の「秘伝」を公開するなんて奇特な脚本家はいないだろう。

 また、その本を書いた脚本家さんにしても、そのころの私には「何の意外性もない」と思えても、ほかのひとには「意外で、おもしろい」と思える脚本を書いていたのかも知れない。

 文芸とか芸術とかでは、そういう受け手による差が大きいと思うので。


 ともかく、それ以来、私は「テーマからあらすじを考え、あらすじを箱に落とし込む」という方法で物語を書いたことはほとんどない。

 仕事で作る文書ですら、「小論文対策」の形式で書くのがよい、というより、それが必須、とわかっていても、その形式を守らない。

 プレゼン用の投影資料を作るときにも、最初に設定したところからどんどん話が逸れていって、まずいな、と思うこともある。思うけど、ここでいちばん強調したいのはその逸れて行った先の話なんだから、いいか、と修正しない。ほんとうは、そこまで書いたら、最初に戻って問題提起の部分を修正することが必要なのだろうけど、だいたい締切ぎりぎりで作っているので、たいていのばあい、そんな余裕はない。

 若いころはそれで「おまえの書くものはわけがわからない」と言われた。いまは私が歳を取ってしまったので、遠慮して言わないのだろうけど、たぶんみんな「こいつのプレゼンわけわからんな」というようなことを感じているだろう。

 まして、物語を書くときには、「大箱から小箱へ」という「箱」の方法をとることはめったにない。


 物語を、テーマからあらすじへ、大箱から小箱へと細かくして落とし込んでいく方法は、たぶん有用なのだろうと思う。

 ただ、私には向いていないだけ、あるいは、私の好みの問題なのだ。

 これから物語を書こうとしているが、どう書いたらいいかわからない人たちについて言えば、「箱」の方法を知るのはやっぱりいいことだと思う。少なくとも「なんでもいいんだよ、自分の思ったように書けばいいんだ」といきなり言うよりは、「箱」の方法を教えるほうが親切で生産的というものだ。

 だから、最初から「そんな方法はやめておけ」と言うつもりはない。ないどころか、初心者はやっぱり一度はその方法でやってみたほうがいいのではないか。

 ただ、そういうのが向いていない物語作者もたしかにいるのだから、万人にそれを正しい方法として押しつけるのはよくないのでは、というだけのことだ。


(終)

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