猫と卵
江東うゆう
第1話 猫と卵
「シュレーディンガーの猫って知っているか? 猫の入っている箱には青酸ガスの入っているビンがある。ある条件でビンが割れるんだけど、割れている可能性は半々。割れていれば猫は死んでしまうし、割れていなければ、まだ無事だ」
僕はクーラーボックスに腰掛けたまま、
「いいかい、悠真。猫の入っている箱が、このクーラーボックスだとしよう。僕らは蓋を開けるまで、猫がどうなっているかわからない。ビンを割るスイッチは入ったのか、入っていないのか。猫が生きている状態と、死んでしまった状態、二つがまだ、重ね合わせで存在するというわけだよ」
両手を広げ、僕はキャンプ場の大きな木々から漏れる光と体一杯に浴びる。木漏れ日はチラチラして、目には痛い。
「話はそれだけか。
刃の背を叩く動きが止まり、包丁が握り直される。悠真は緩めていた姿勢を正し、まっすぐに包丁を僕に突きつけた。
「そこをどけ。俺は卵が割れているかどうか確認しなくちゃならないんだ」
僕はのけぞって、クーラーボックスの端に手を突く。
「ま、まてって。だからさ、蓋を開けるまでは卵が割れている状態と、割れていない状態が重ね合わせであるのであって……うかつに開けるのはよそう、よ」
「ふざけるな。部員プラスOB合わせて三十人分のお好み焼きを焼くための卵が、その中に入っているんだよ。おまえが、疲れたとか何とか言って、投げるように置いたそのクーラーボックスの中にな!」
「なんでもう怒っているんだよ。割れたかどうかわからないのに、僕を責めているだろう?」
「蓋を開ければわかるんだろ! とっとと開けろ! 割れていたら、今から伊吹が車を飛ばして麓のスーパーで卵を六十個買ってくるんだよ!」
「だから、割れているかどうかは」
「割れてなかったらそんなに開けるのをためらうかよ!」
僕は内心舌打ちをする。その通りだ。確かに、地面に勢いよく置いたとき、ガシャッと嫌な音がした。だからたぶん……割れている。
割ったのは僕だから、卵を弁償することになるだろう。ところが、家に財布を忘れてきてしまったのだ。電子マネーも使っていないから、無一文。車で来ているからどうにか帰ることはできるだろうけれど、途中でガソリン切れでも起こしたら目も当てられない。
ほかの部員が来るまでの一時間をやり過ごして、助けを求めるしかない。
こうなったきっかけは、僕と悠真がジャンケンで負けたことだ。
僕らは大学の文芸部に所属している。学部ではなく、部活だ。OBに何人か作家がいて、彼ら彼女らも部誌を見てくれるし、たまに小説の書き方講座もオンラインでしてくれるのが受けているおかげで、結構な人数が集まっている。
文芸部では、毎年夏にキャンプをする。通っている海辺の大学から山一つ越えたところにあるキャンプ場で、近くに温泉があるのがポイントだった。
キャンプではカレー、お好み焼き、たこ焼きのどれかを作る。去年はカレーだったから、今年はお好み焼き。準備は、部員の中でジャンケンをして、負けた二人が担当するのだ。
「時間がないんだよ。開けろ。生地をつくらなきゃならないだろ。キャベツも千切りしなきゃならないし」
「そのへんは、僕がやるからさ」
「一人ではできない量だろうが。開けろ」
悠真が僕を突き飛ばそうとする。僕は、クーラーボックスにしがみつく。肩を押されて無理な格好に押し倒されそうになる。足を跳ね上げ、悠真を蹴り飛ばす。悠真が土の上に転がり、僕はクーラーボックスに突っ伏す。
「いい加減にしろよ、伊吹」
悠真は僕ごと、クーラーボックスを持ち上げようとした。いくらなんでも無理だ。でも、悠真は僕の腰を離さない。
このままでは、悠真が腕か腰を痛めてしまう。
僕が力を抜いた途端、クーラーボックスから手が離れ、悠真もろとも後ろに転がった。僕の足が当たってクーラーボックスが転がり、ガシャッと音がした。
「あ」
僕らは同時に声を上げ、クーラーボックスに駆け寄る。
「やばいやばい」
言いながら、悠真がロックを外す。
「うわ、やめろ。たぶんぐちゃぐちゃに……なっているか、なっていないか、見るまではわからないから開けるな!」
「うるさい! 伊吹は財布の中身でも確認していろ!」
「いやだ、あのな、悠真。実は僕」
「黙れ! 神はサイコロを振らなーいッ!」
クーラーボックスの蓋が開けられた。
僕は手で顔を覆う。もうだめだ。
「……」
だが、悠真の怒号は飛んで来なかった。
目を開けると、悠真は呆然とクーラーボックスの中を覗き込んでいる。
見ると、卵はケースに収まったまま……割れていない。
「え、一個も?」
「……無事だ。全部」
僕らは顔を見合わせ、同時にめまいを起こし、土の上に大の字に転がった。
〈おわり〉
猫と卵 江東うゆう @etou-uyu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます