あなたの名前で私を呼んで

山田とり

煙草の香りの海風が


 オレンジの瓦が映える白壁の街を訪れ、ディルヤは階段ばかりの小径を海に向かって下りていた。観光客がぶらぶらと散策する人気のエリアだ。

 治安は悪くなく、女一人旅でもなんら問題はなかった。初めての街にディルヤの心はそれなりに浮き立っている。


 家々の窓辺には強い陽射しに抗うブーゲンビリアの紫や、ゼラニウムの緑とピンク。そして土産物屋の軒先では所狭しと提げられたランプの青、赤、橙、黄が鮮やかだった。

 ガラスのモザイクランプはとりどりに陽光をきらめかせ、坂の街を吹き上がる乾いた風に色を添えている。

 店頭にはランプと同じガラスモザイクの小箱が積み上げられていて、それを見たとたんディルヤは同じ箱を贈られたことがあったのを思い出した。あれをくれたのはこの街の男だった。

 あの時の小箱の中身は確か、砂糖菓子。舌の上でほろりと甘く溶けたような気がする。ディルヤが好むと思ったのだろうか、この街の民芸品に菓子を詰めてくれたのかもしれない。店先の小箱を手に取れば、それはもちろんからだった。


「今なら――葉巻でも詰まってれば喜ぶかもね」


 小箱を戻したディルヤは口寂しくて呟いた。

 今時はどこへ行っても愛煙家は肩身が狭い。葉巻など、同好の士が集うシガーバーにでも行かなければお目にかかることもなかった。そしてディルヤはそんな場所が好きではない。従って自室で独りくゆらすことになる。

 旅の途上にある今はそんなこともしない。ニコチンが恋しくなれば行く先で見慣れぬ銘柄の煙草を試してみ、合わなかったら強い蒸留酒のワンショットで洗い流す。旅の醍醐味だ。気ままに生きてきて、己の好みを貫ける身になったのはありがたいことだった。


 母も好きに生きた人だった、とディルヤは海を見下ろした。

 ゆるやかにカーブする小径の向こうに、きらめく波頭がちらりと見えたところだった。ふわりと吹いてきた風がディルヤの赤毛を無造作に乱し、母の手を思い出した。

 幼いディルヤの赤毛をくしゃくしゃとかき回しては嬉しそうな笑い声をあげる。そんな記憶ばかりが鮮明で、こちらが大人になってみれば母は娘で遊んでいたのかもしれない。あるいは猫でもじゃらしている気分だったのか。

 それも嫌ではなかった。勝手に生きる母は、娘に何も求めなかった。

 わりと早い頃から対等の女同士だったディルヤと母は、似たところも違いもたくさんあって衝突が絶えなかったが気安く喧嘩できる間柄でもあった。

 その喪失はそれなりにディルヤに物を思わせ、大人しく母の遺言通りにこの街を訪ねようと決めさせた。


「あの人でも、死んだことを報せたい相手がいるんだな――」


 縛られることを拒み、するりと逃げた女の死。そんなことを知って男はどうするのだろう。それにディルヤはその男の居場所を教えられていなかった。


「ディルヤなら見つけられるんじゃない?」


 母はのたまったが、そんなわけあるか。ディルヤは彼の顔も憶えていない。


「もし居たらでいいわ。会って話しておいで」

「むちゃくちゃ言うね」


 ディルヤは苦笑いした。もう好きにさせていいと医者も匙を投げた病人を否定するほど子どもではない。ただ、一生涯好きにしてきた母がこれ以上好きにするとはどうすればいいのかわからなかった。母は煙草をふかしながら不満げだった。


「あまり美味しく感じない」


 ならばもういつ死んでもいいか、とつまらなそうにされた。

 そんな最期の日々を伝えたとして、聞かされた方はどうなのだろう。母のことを懐かしむのか、笑うのか。


「まだこの街に住んでいればいいけど」


 それすらわからないのに来てみたディルヤも大概だ。だけどそんな酔狂もせずに何の人生か。その点ディルヤは確かに母の娘だった。


 細くうねる階段は唐突に広場につながっていた。

 踊り場めいた小さなスペースだが、市が立つ日なのかたくさんの露店がひしめき合っている。どこの国からともわからない風貌の観光客もひしめいていた。

 その中の一人になって、ディルヤは強い孤独に立ちすくんだ。

 いつもは世界のあちらこちらで生きている彼らが、今この街で肩をぶつけんばかりにしているのはどれほどの確率だろう。だが彼らもディルヤも互いにぶつかることはせず、互いを認識することもなく、すれ違って離れていく。ここでこうしていることには何の意味もないのだった。


「……吐きそうだ」


 のどの奥で呟いた。言葉にしないと自分が消えてしまいそうな気がした。

 寄る辺などあまり持たずに生きてきたディルヤだったが、ここに来てそんな風に思うのは母を喪ったせいだろうか。それともここがそういう街なのか。母だってこの街を訪れて一時の縁を結んでしまったのだ、そうさせる何かがここにはあるのかもしれない。

 だけど単に受け継いだディルヤの血が騒いでいる可能性もあった。この街にはディルヤに半身をくれた男がいるはずだ。

 眩暈のするような人混みから身を離し、白い壁に寄り掛かったディルヤは呻いた。


「見つかるわけがないでしょう、母さん」


 その人が何をしているのかも知らない。遺伝子のみでつながる男など探し当てる気は元々なかった。それでも来てしまったのはどうしてなのか。自分がわからなかった。


 広場の端からさらに下に、海が光っていた。あの時もらったモザイクの小箱は海のような濃淡の青いガラスだったなと思い出したら、ふと息が楽になった。


「娘の名前、知っていたのね」


 ディルヤ

 赤毛なのにと子どもの時分にはからかわれたものだ。じゃあ青い髪の人なんているのかと言い返した記憶がある。それでも黙らない馬鹿は殴り飛ばした。

 父親とは無関係の名だとばかり思っていたが、意外とそうでもないのだろうか。


「この街にも海はあるんだ――」


 光る波を目指してディルヤは階段を下り始めた。気分はまだすぐれない。苛立ったが、そこに煙草屋を見つけた。一服つけて験直しだ。

 開きっ放しのドアからフラリと店に入ると、屋内の暗さにしばらく目が見えなくなった。暗闇から声がした。


「――メルテム?」


 それは母の名だった。声のした方を向いて目を慣らすと、そこにいる男が見えるようになった。初老の男はディルヤと同じ赤毛だった。

 ――まさか、見つかるのか。ディルヤなら見つけられるとは、そういうことか。ディルヤなら煙草屋に立ち寄るだろうから。

 母の名で、ディルヤに呼び掛けるその人。きっと彼がディルヤに砂糖菓子の小箱をくれた人。ディルヤの父親。


「いや、その赤毛――ディルヤなのか」

「会えるとは思わなかった、父さん」


 ディルヤは微笑みを浮かべ、何でもなさそうに言った。二十年ほども音信不通でいきなり現れた娘の軽い調子に男は呆れ顔だ。


「そういうところはメルテムそっくりだな」

「その母さんが死んだんでね、報せに来た」

「――そうか」


 一目でディルヤに母の面影を見た父は、長年母子の名を忘れることもなかった父は、一瞬黙り込んだ後にそれを受け入れて目を伏せ、だけど一言文句を言った。


「まだ早いだろうが、あいつは」

「好き勝手してたから」


 それは言い訳だ。病に蝕まれるのはただの運。不摂生ばかりとは限らない。

 だが思うままに生きたのは本当のことで、おかげでこの男は愛した女とも娘とも共に生きられなかったのだろうから少しばかり同情してもいい。


「死んだら父さんに報せに行けって、母さんが」


 その母の気持ちは何なのか。贖罪なのかもしれないし、愛なのかもしれない。

 何にせよ、過ぎた時間が再び父母の間に流れることはなく、ディルヤが両親に囲まれて育つことなどなく、それが不幸だとも思えなかった。ディルヤは過去のディルヤも今のディルヤもそれなりに気に入っていた。


「――来てくれて嬉しいよ、ディルヤ」


 愛した女の訃報を聞かされた男は、すっかり大人になってしまった娘に目を細める。


「メルテムに良く似ているが、その赤毛だけは俺ゆずりだな」

「たぶんそうなんだろうと思ってた」

「おい、俺のこと憶えてなかったのか」

「憶えてるわけないでしょう」


 男は肩をすくめると店の戸を閉めた。ごそごそ引き出しから取り出したのは売り物の葉巻だ。


「今日は店じまいだ。おまえは吸うか、ディルヤ」

「――葉巻は母さんから習ったよ」

「相変わらずだな」


 手招きする男について奥に行くと、眩しい光があふれるテラスがあった。


「うわ――」


 海が見えた。小径からでは建物に邪魔されていた海が、視界いっぱいに広がっている。眼下にはオレンジ色の瓦の波だ。

 娘の反応を満足げに見た家主は椅子を一つディルヤに押しやった。


「メルテムはここで煙草を吸うのが好きだった」

「母さんっぽいね」


 この海風に吹かれて目を細め、煙草をうまそうに吸い込む若かりし母の姿が容易に想像できる。

 今日は煙草ではなく贅沢に葉巻を持ち出した父と娘は、その端を切ると火をつけた。深々と味わって、男は煙とともに愚痴を吐き出した。


「またいつでも来いと言ったのに、来やしない。連絡してみたら娘が小さいから今は遠出はしないんだときた。誰の娘って俺のに決まってるだろうと言われた男の気持ち、おまえにはわからんだろ」

「何、母さん黙って産んでたの」


 ディルヤはあははと高らかに笑った。それは傑作だ。


「笑い事じゃないぞ……」


 遠くを思いながら、男も笑った。


「あいつはロクに俺のことを教えてないんだな。どれ、メルテムとの昔話をしてやろう、泊まってけ」

「お酒もつけてくれる?」

「俺の娘は父親に似て酒も煙草もいけるクチか」

「母親も同じでしょ」


 昔、見知らぬ娘に会うために、男は砂糖菓子をモザイクの小箱に詰めたのだろう。大人になった今の娘と語るには、葉巻と酒だ。それは小箱に詰まっていなくても父娘が時を埋めるに相応しいものだった。ディルヤは低く笑った。


 母の名前で呼ばれることが嬉しいとは思わなかった。それだけでこの街を訪れた甲斐があるというものだ。

 メルテムという名の女と過ごした短い時間を胸に抱えた男がこの街にはずっと暮らしていた。そして良く似た娘を見るなり、メルテムの名を口にする。

 思い出は今も生きていた。それは、ディルヤが愛されて産まれた証だった。ディルヤは今さら自分を知った気がした。


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