そうして箱は、開かれた

飯田太朗

そうして箱は、開かれた

 それはある嵐の夜だった。

 ユタ州にある田舎町で暮らしていた夫婦の元に、来訪者があった。大雨、いや嵐の晩のことで、最初家のドアがノックされた時、妻は何かが飛んできて家の戸に当たったのだと思った。だが続く第二撃で今度は夫の方が反応し、来訪者だということで夫が対応した。ドアを開けると、そこには男が……奇怪な、不気味な、男がいた。

 革でできた帽子を目深に被っている。やがてその帽子のつばが持ち上がり、隠れていた部分が軒先のランプの下に照らされると、そこにいたのは顔の半分が焼けてただれた目つきの悪い男だった。気味の悪いことに、頰の一箇所が焼け落ちて穴が空いており、歯と頬骨の一部が綺麗に覗いていた。目を見張るほど真っ白なそれは時折涎を啜る音とともに小さく動き、夫はその穴の空いた頰の持ち主がちゃんと生きているのだと改めて認識した。

「お晩です」

 男はつぶやいた。

「わたくしはゲハイネスボルト・シュンペーターという者で……」

「……何だって?」

 夫が聞き慣れない言葉……察するにドイツ語らしき言葉に眉を顰めると、男は再び穴の空いた頬で涎を啜り、「シュンペーターという者です。配達人だと思ってくだすって結構」とつぶやいた。この時夫は気づいたのだが、やはり露出した頬骨と歯の間でチロチロと赤黒い舌が、彼の妙な発音とともに動いていた。

「配達人?」

 夫は首を傾げて振り返る。背後にいた妻は、枯れ枝の先の葉っぱほどに残っていた礼節の心で配達人の顔を見て悲鳴を上げこそしなかったが、やはり気味悪そうに来訪者を見つめていた。が、やがて夫の言葉に応じた。

「いいえ、何も頼んでないわ。何かが来る予定もないし」

 しかし配達人は告げた。

「いえ、これはわたくしども……スボイルティ財団からの、ある種のプレゼント、そして試験でございまして」

 スボイルティ財団なんて聞いたこともないぞ。夫はそうつぶやきそうになったが遠慮して言わなかった。すると配達人は続けた。

「我々スボイルティ財団は、人生における選択の大切さ、そして命の尊さについて市民の幸福という観点から研究を続けている機関でございます」

「はぁ」

 夫は配達人が何を言っているのか分からなかった。

「で、試験とは?」

 夫の問いに配達人は答えた。

「簡単なことでございます」

 配達人は手にしていた大きなカバンを広げた。

「ここに箱があります」

 と、男は夫に、木製の、ニスが丁寧に塗られた工具箱ほどもある大きな箱を手渡した。

「この中には百万ドルがある可能性があります」

「可能性?」

 妻が訊き返した。

「何ですの、可能性って」

「この箱の中身は三パターンありまして」

 配達人は続けた。

「一パターン目は、中に百万ドルのみが入っています」

「二パターン目は?」

 夫が訊くと男は涎を啜り、答えた。

「ゲベが入っとります」

「ゲベ?」

 妻がまた、訊き返した。

「何ですの、ゲベって」

「ペットのようなものです。小さな命、とでも言いますか」

 配達人は続けた。

「続く三パターン目は、百万ドルとゲベの両方が入っているというものです」

「なるほど」

 夫はつぶやいた。

「三回中二回は百万ドルが入ってるんだな」

 すると配達人はつぶやいた。

「箱を開けられるのは一回のみです」

 それからさらに続けた。

「ゲベは命です。箱の中にゲベがいた場合は、ゲベが死ぬ最後の時まできちんと養育してもらう義務が発生します。これに違反した場合は然るべき手続きののち、一千万ドル程度の罰金を課すことになります。しかし中に百万ドルが入っていた場合は一括して、しかも非課税での入手が可能です」

「非課税で百万ドル」

 夫は目を向いた。それだけあれば、自宅の一室を使って保管しているマグカップのコレクションもさらに充実させられる。

 配達人は夫の方にいい感触があると分かるや笑った。

「悪い話じゃないでしょう」

 だがその後ろにいる妻の顔色を見てから、配達人はさらに続けた。

「いきなり引き受けろと言われても難しい話でしょう。ゲベも命ですからね。明朝また来ます。その頃までに、開けるか、それとも箱を返すか、選んでください。開けた場合は空の箱を玄関先に置いておいていただければ回収いたします。しかし開けなかった場合は、大事な命ですので、手渡しでわたくしに返してください」

 と、男はひょいと革の帽子を持ち上げた。するとやはり、焼け爛れて穴の空いた頬がギラリと露出し、軒先のランプに照らされたそれは、歯と歯の間にある薄汚れた舌を、ちろちろと覗かせた。配達人は告げた。

「それでは失礼」

 男は暗い雨の中を歩いて去っていった。



「何だったの、今の」

 妻が夫のたくましい腕を掴む。週末を暖かく過ごすべく金曜日の夜になると薪割りに勤しむ夫の腕は、家の近くにある柳の木の瘤よりも太くて立派だった。夫は告げた。

「百万ドルをもらったぞ」

「ゲベも一緒よ」

 妻は気味悪そうにつぶやいた。

「何よ、ゲベって」

「察するにネズミか何かだろう」

 夫は箱を揺すった。

「音はしないな。鳴き声もしない」

 さぁ、開けるぞ、そう言った夫の腕を妻は掴んだ。

「ダメよ。ゲベがいる可能性があるわ」

「百万ドルが入ってる可能性もあるんだぞ。それも六十パーセント以上の確率で」

 夫は箱を撫でると開け口を探した。それは側面に簡単に見つかった。それは開帳する方式の蓋だった。

「ゲベがいる確率も同じくらいよ」

 妻は反対した。

「嫌だわ、私。得体の知れない生き物の世話なんて」

「なぁ、ハニー」

 夫は妻の顎に手を当てた。

「百万ドルだ。百万ドルだぞ」

 夫はさらに続けた。

「君も豊かになるんだ。きっと最高の気分さ」

 妻は困った。

「ええ、でもゲベが……」

「分かった分かった。分かったよレディ」

 夫は手を広げた。

「箱を開ける前にもう一度振ってみよう。乾いた音がすれば、きっと札束に違いない。逆に大きい音がすれば、中身はきっとゲベか、ゲベと札束の両方だ。その場合は開けない」

 妻は沈黙する。

「さぁ、振るぞ」

 夫は箱を掲げた。妻は躊躇った。

「確かに百万ドルがあれば幸せだけど……」

 妻は恐れていた。

「ゲベは怖いわ」

「いいから」

 夫は強引だった。

「振るぞ」

 そうして箱は振られた。中からは音がした。妻がつぶやいた。

「重たそうな音」

「そうか?」

 夫は妻の顔を見た。

「軽い音だったと思うが」

 妻は困った顔をした。

「もう一度、しっかり振って」

 夫は箱を振った。やはり音はしたが、どんな音かはよく分からなかった。

「大丈夫だよ、ハニー」

 夫は笑顔を見せた。

「生き物の気配はない」

 夫はさらに箱を振った。それから、決心したようにつぶやいた。

「開けるぞ」

 そうして箱は、開かれた。

「キェ」

 中から声がした。

「キェ」

「まぁ!」

 妻が夫の腕を殴った。

「ゲベよ!」

 夫は興味深そうにそれを見た。

 何だかまるでネズミのようだった。濃いグレーの毛色をし、薄汚れたそいつは粘膜に包まれていて、まぶしいのだろうか、ねとねとした大きな目をぱちくりさせていた。目玉は小さな顔の割には大きく、顔の七十パーセントほどを占めていた。口は人の鼻の穴ほどしかなかったが、その口を一生懸命に開いて「キェ」と鳴いた。夫はつぶやいた。

「なんだこいつは」

 妻は応じた。

「ゲベよ」

 当たり前のことだった。

「まぁ、なんてかわいらしい……」

 夫は妻の神経を疑った。しかし妻は続けた。

「かわいいわ、ねぇ?」

 妻はすぐさまタオルとお湯の入ったポットと水差しを持ってくると、ぬるま湯を作りゲベを浸し、粘膜を拭った。ゲベは嬉しそうに「キェ」と鳴いた。

「百万ドルはない」

 夫は箱を持ったまま腕をぶら下げた。

「ハズレだ」

「なんてことを言うの」

 妻はゲベを手の中に包みながら応じた。

「開けてみればかわいい命じゃない」

 夫は少し考えた。

 最初は百万ドルの可能性に妙な生き物がくっつくだけ、しかも妙な生き物だけのリスクも三十パーセント程度だと思っていた。しかし今こうして、ハズレを引いても妻が喜んでくれるなら、それはアタリのような気もしてきた。とにかく夫は、妻とゲベの元へ寄った。

「ああ、かわいいな」

 不思議なものだ。

 さっきまでネズミみたいだと思っていたそいつは、妙にかわいく見えた。



「おい、ゲベをしっかり見ていろと言っただろ!」

 数年後のある日。

 夫は自慢のマグカップのコレクションがゲベにめちゃくちゃにされたのを見て怒鳴った。妻が台所から姿を現した。

「そんなところに広げておくあなたが悪いのよ」

 妻は悪びれない。

「べべーちゃんは悪くないわ」

 妻はゲベが来て三日も経つとゲベに「べべー」と名付けて可愛がった。夫は未だにその神経が分からなかった。いや、分かりかけてはいたが、命を預かる面倒臭さの方が勝っていた。夫は足元でよちよち這いずり回るゲベを見た。

「こいつは悪魔だ」

 すると妻が鋭い目で夫を睨んだ。

「なんてことを言うの!」

 しかし夫は負けない。

「こいつは悪魔だ! 俺の大事なものを壊した挙句、俺の時間……君の時間まで!」

「仕方ないでしょう!」

 妻も叫び返した。

「この子には世話が必要なの」

「だからってこの子につきっきりになることはないだろう!」

「ダメよ。いただいた命は最後まで面倒を見ないと。その義務があると、あの配達人もそう言ってたでしょう?」

 夫は言葉に困った。だが、すぐにこれをいい機会だと捉え、日頃の不満をぶちまけた。

「……なぁ、ハニー。俺たち最後にセックスしたのはいつか知ってるか?」

「さぁ?」

 妻は足元のゲベを抱き上げた。

「いつだったかしら」

「一年と十ヶ月前だ。あと二ヶ月で俺は二年も君のおっぱいに触れてない」

「この子の前で気持ち悪いことを言わないで」

 妻はゲベの頰に口元を寄せつぶやいた。

「穢らわしいわ」

 夫は頭を抱えた。

「俺はどうすりゃいいんだ? 好きなものは壊され時間も奪われ、挙句君まで……」

「箱を開けたのはあなたよ」

 妻はゲベを抱いたまま夫を睨んだ。

「こうなることは分かっていたはずだわ」

 さぁ、行きましょう。

 妻はゲベを抱いたまま寝室の方へと向かっていった。夫は項垂れてソファに座った。このところ妻に触れられていないどころか、妻はゲベ用のベッドを寝室に持ち込むようになった。しかも俺と妻の間に、そのベッドを置いている始末だ。

 こんなはずじゃなかった。

 夫は後悔する。

 そうして、思い返す。

 百万ドル。百万ドルがあったから何だって言うんだ。ゲベがいたらいずれにせよ妻はこうなっていたんだ。あの箱は六十パーセント以上のアタリじゃない。六十パーセント以上のハズレだったんだ。

 夫は後悔した。

 あの男。

 シュンペーターとかいう配達人。

 スボイルティ財団。

 人生における選択と命の尊さについて。

 夫は後悔する。

 一時の快楽に任せるんじゃなかった。

 夫は後悔した。

 ゲベはもう、箱の中には戻せない。


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