燐光

黒いたち

燐光

 祖父から相続そうぞくしたアトリエには、「黒い箱」があった。

 おとなの腕で、ひとかかえ。フタは無く、のぞきこめば底板が見えそうなものだが、なぜかどこまでも落ちていきそうな感覚しかない。

 素材は不明。自然物のようで、人工物のようでもある。


 祖父は「天才」と呼ばれる彫刻家だった。

 数日、長くて数週間もアトリエにこもり、出てきた時には斬新かつ美しい作品が仕上がっている。

 体への負担が大きいのか、祖父はたびたび体調をくずし、入退院をくりかえした。


 アトリエが遊び場だった僕は、祖父が「黒い箱」に話しかけているのを、何度も見た。

 ふしぎに思い、僕はたびたび箱をのぞきこむが、いつでもそこには闇しかない。

 「誰としゃっべているの?」と祖父に問えば、「見えない方がいい」と、ごつごつした手で、頭を撫でられた。

 

 いまではその意味が、はっきりとわかる。

 祖父が亡くなった日から、「黒い箱」は僕の目にだけ「悪魔像」として映るようになった。

 

 角が三本のヤギ頭。額におおきな五芒星ごぼうせい。女性の体に翼を持ち、球体にあぐらをかいている。

 

 最初は、誰かのいたずらだと思った。しかし周囲は「黒い箱」しか見えないと言い、僕の頭がおかしいと言う。


 そうなのかもしれない。

 なにせ僕には、悪魔像の声まで聞こえているのだから。 

 

「願いは決まったか、羽玖はく


 どういう原理か、口すら動かない像がしゃべる。

 僕は今日も、ためいきと共に返す。


「毎日しつこいな」

「願えば終わるぞ」

「僕の人生がね」


 心療内科を受診したら、まだ24才なのに、と同情された。

 そのうえ現状は変わらない。どんな願いもかなえてやると、押し売りされる毎日だ。


 仕方がないので、斬新な会話ロボットだと思うことにした。


 3Dプリンタの扉をあけ、猫の樹脂像じゅしぞうを取り出す。

 バリ取り、磨き、塗装をして、依頼主へ配送。

 代り映えのしない毎日。

 誰かが愛して死んだペットを、樹脂で再現する。そこに動物彫刻家としての、独自性や個性はいらない。

 

 ペット産業は儲かる。

 いくら崇高な主題テーマを掲げたところで、売れなければ生きてはいけない。「天才彫刻家の孫」というネームバリューは、とっくに残ってなどいない。


 日常に忙殺され、金の燐光りんこうを放つ創作意欲は、あっけなく消えた。

 絶滅危惧種の姿を後世に残すのは、他の誰かがやるだろう。


 僕の存在意義は、行き場をなくした飼い主の愛を受け止める、八万円の代替品を作ることだ。

 魂と引き換えに、叶える願いなどない。

 死者を生者に戻せないなら、なおさら。


 祖父の声で、羽玖とよばれた。

 とっさに顔をあげる。正面には悪魔像。


「どうだ。かなり似ていただろう」


 つかんだカナヅチを振りおろす。悪魔の角が折れた。

 耳をつんざく悪魔の悲鳴は、金の燐光を放つ。

 腕がしびれて、背筋せすじが震えた。


「……今、動物彫刻家ぼくが見えた」

「なんてことを!」

 

 その嘆きは喪失感。代替品に注ぐ愛の原料。失うことでしか得られない感情。

 愛も動物も、消失の危機にひんして、はじめて生まれる価値がある。


 創作意欲をかきたてる悪魔は、僕が渇望した存在。

 情熱と殺傷欲。傲慢ごうまんな愛に溺れて、息ができない。

 喘ぎながら悪魔に懇願する。


「君を失う僕が見たい」


 僕は彫刻家で、崇高な主題テーマを極めるための、多彩な技術を持っている。

 彫刻刀を選んでにぎる。

 悪魔はわめき、僕はこたえる。


「死ぬほど、愛させて」


 動かぬ悪魔の右目めがけて、彫刻刀を突き立てた。

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燐光 黒いたち @kuro_itati

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