全てはマニドゥのために

ハル

第1話

 昇進してささやかながらお給料も上がったので、僕はついに築四十年超、最寄り駅から徒歩十五分(というのは表向きの時間であって実際は二十二、三分)の部屋から引っ越すことにした。


 ただ、僕の部屋探しはひとより大変なのだ。


 床が頑丈で、できれば一階の部屋がよいのである。


 なぜなら、マニドゥがいるからだ。


 独身で親兄弟とも疎遠な僕の、たったひとりの――いや、たった一匹の家族だ。


 マニドゥは犬や猫ではない。トラザメという種類のサメだ。名前は、少年とサメの友情を描いた映画「チコと鮫」に登場するサメから拝借した。


 トラザメは全長五十センチくらいの小型のサメで性格もおとなしいが、金魚や小さな熱帯魚を飼っているのとはわけが違う。水槽も大きいし、そこに入れる水も大量だし、いろいろな設備も必要だ。


 さんざん探し回り、ようやく破格の条件の部屋を見つけた。


 例の二つの条件を満たしているだけではなく、築八年、最寄り駅から徒歩三分(これは表向きではなく実際の時間だ)、最寄り駅には急行が止まり、都内でも有数の大きな駅まで最短十分、それで家賃は四万円。


 間取りはいまの部屋と同じ1DKだが、専有面積はいまの部屋よりやや大きい。


 ――もちろん、事故物件だろうとは思った。


 いわゆる心霊現象が存在するのか、僕にはわからない。実際に遭遇したことがないのだから。ただ、事故物件だからといって心霊現象が起こるとはかぎらないし、起こったとしても些細なものなら我慢できるのではないだろうか。


 そう考えて、


「もう六時近いのに申し訳ありませんが、これから内見できませんか?」


 応対してくれていた不動産屋のスタッフ――井上さんにお願いした。二十代前半の、見るからに新人らしい男性だ。


「そうですねぇ……」


 井上さんは迷っていたが、


「まぁ、パパッと見るだけでよければ」


 しまいにはオーケーしてくれた。一緒に駐車場へ行き、不動産屋の車に乗りこむ。


 十五分くらいで目的地に着いた。外見はごくふつうのマンションで、部屋の中もごくふつうだった。壁にも天井にも床にも不気味な染みや傷はないし、不自然なリフォーム跡もない。禍々まがまがしい雰囲気や冷気も感じられない。コンロは二口あるし(マニドゥの世話にお金がかかるので、僕はなるべく自炊するようにしている)、収納スペースも十分だし、ドアや窓の建てつけも悪くない。


 井上さんはしきりに時間を気にしていた。今日は用事でもあってどうしても定時で上がりたいのだろうか。やはり無理を言ってしまったのかもしれない。


 残業はさせたくないし、もうここに決めてしまおう――と思ったまさにそのとき。


「あやこ! てめぇ!」


 床下から、男の怒鳴り声が聞こえた。――ここは一階なのに。頭から冷水を浴びせかけられたような気分になる。


 ボコッ!


 ドサッ!


 続いて、何かを殴るような音と、何かが倒れるような音。


 ドスッ、ドスッ、ドスッ、ドスッ、ドスッ、ドスッ、ドスッ、ドスッ――。


「よくも、よくもオレを裏切りやがって、騙しやがって……死ね! 死んじまえ!」


「うっ、ううっ……やめて、かずくん、ちがうの!」


 さらに続いて、何かを蹴るような音と、男の罵声と、女性の呻き声や哀願の声。


 些細な心霊現象なら我慢できると思っていたが、これは断じて「些細」なんてレベルじゃない。


「も、もう出ましょう!」


 言ったのは僕ではなく井上さんだ。井上さんにも聞こえているのか、聞こえてはいないが僕には聞こえていることがわかったのか。表情からして後者のように思えた。


 僕たちは部屋を飛び出して車に飛びこみ、井上さんが車を急発進させた。帰り道では二人とも黙りこくっていた。



 不動産屋に戻ると、


「お客様……」


 五十歳前後の恰幅かつぷくのいい男性が、心配そうな顔で近づいてきた。名札には〈店長 山崎〉と書かれている。山崎さんは一瞬井上さんを睨み、井上さんは気まずそうに頭を下げた。


「あの部屋って……」


 口から出たのは我ながらとげとげしい声だった。僕は短気なほうではないと思っているが、このときは結構怒っていたのだ。山崎さんはほかの客に目をやり、


「すみません、ちょっとほかのところで……」


 僕を近くのカフェに引っ張っていった。お互いコーヒーを一口啜ったところで、


「お察しのとおり、あそこはいわゆる事故物件なんです……」


 山崎さんが切り出す。


「あそこには以前一軒家が建っていて、若い夫婦が住んでいたんですが、地下室で夫が妻に……殴る蹴るの暴行を加えたあげく絞殺しましてね。病的に嫉妬深い男で、妻が浮気していると思いこんだらしくて……。その後一軒家は取り壊されてあのマンションが建ったんですが、地下室があった場所の真上にあるあの部屋では、毎日午後六時二十一分になると、床下から怒鳴り声や暴行の音や呻き声が聞こえるんです。ほんの七、八分のことですし、誰にでも聞こえるわけじゃないんですが……」


 ――そんなことだろうと思った。


 とにかくどんなに好条件でも、あんな部屋に住むわけにはいかない。


「正直に打ち明けてくださってありがとうございます。もう閉店時間ですよね? また改めてお伺いします」


 僕は社交辞令を言ってコーヒーを飲み干し、席を立った。



 家に帰ると、何も知らないマニドゥが水槽の底でくつろいでいた。


 愛嬌たっぷりの顔、大きなオリーブ色の目、縞とも斑点ともつかない模様のある優美な体――。眺めていると、恐怖も怒りも嘘のように消えていく。


 あの部屋に住むわけにはいかないと思ったのは、自分のためというよりマニドゥのためだ。


 一日に七、八分とはいえあんな声や音がするのでは、マニドゥにどんな悪影響があるかわかったものではない。


 サメは聴覚が鋭いのだ。


     ***


 翌月、僕は再び破格の条件の部屋を見つけて引っ越した。


 床が頑丈で一階で、築十二年、最寄り駅から徒歩五分(これも表向きではなく実際の時間だ)、最寄り駅には急行が止まり、都内でも有数の大きな駅まで最短七分、それで家賃は四万五千円。


 間取りは2DKで、専有面積は前の部屋の一・五倍くらいある。


 もっとも、ここも事故物件である。


 以前住んでいた高齢女性が、波音のCDを聴いているときに転倒して亡くなったそうで、ときどき波音が聞こえるのだ。


 だが、こういう心霊現象なら別にかまわない。むしろ歓迎だ。波音が聞こえているあいだ、マニドゥがいつもより生き生きしているように見えるからである。


 なお、ほかの波音を聞かせてもいつもと同じように見える。あの波音は、マニドゥの故郷の海のものなのかもしれない。

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