第3話

【揺れは続いていた。揺れるたびに図書館の本棚から本が落ち続けた。テーブルに捕まっていたけれど、そのテーブルもガタガタと揺れて、床からズレ出していた。腕はふるえ、バランスは崩れ、もう立ってはいられなかった。窓ガラスが固定された窓際の机の上に落ちてガラスの砕ける音があちこちでしていた。妻の方を振り返ると、妻は床に踞っていた。妻の上に本棚から本が落ちて来ていた。妻の叫び声が恐怖に震える建物内に響いた。私を呼ぶ妻の声が断続して聞こえた。辺りはもう見る影もない有り様だった。慄えて踞る人、よろけながら立ち上がろうとしている人、よろめきながら出口から一階へ降りて行く人。天井からモルタルの天板が落ち出して来ていた。此処にはいられないと思った。早く外に出なければ落下物にやられてしまう。私は転びながら、なんとか妻の傍に行き、妻の手を取り、体を抱きかかえながら、今にも倒れそうな本棚伝いに二階の入口まで出た。

下へ降りる階段の手摺りが折れ曲がっているのが見えた。天井の板が剥がれて、所々ぶら下がっていた。それでも私は妻を抱えたまま揺れる階段を降りようとした。

その時、足元から階段が崩れて行った。私があと一歩踏み出していたら階段と共に落ちていた。そして階段の崩落と共に、揺れが止まった。

私たちと他の何人かが二階に取り残されてしまっていた。


※※消防士たちは(まだ、警察や救急隊員は来ていなかった)、崩落した瓦礫の山の中を捜してた。だが、辺りは暗くなり始めていて、思うように作業は進んではいないようだった。地震の被害はあちらこちらに見受けられたけれど、此の場所だけがとりわけ酷かった。

図書館が略崩れてしまったのだ。

被害が知らされてから1時間程経つていた。近くに住んでいる人や、町の消防士たちが来ていた。まだ瓦礫の下には人が取り残されていて、懸命に救出作業がされていた※※


彼はそこまで言うと、急に話をやめた。もう、これ以上、話すことはできないと彼は言った。ボランティアの青年は優しく彼の肩に手を掛けた。彼は泣いていた。

体を奮わせながら、声をあげて泣いた。暖を取るための焚き火が夜を照らし出していた。周りには、無残な瓦礫の山ばかりが見えていた。

ボランティアの青年は彼の体に自分の上着を掛けた。その時ようやく警察と救急隊員たちが来た。怪我はしていないようだった。彼はずっと項垂れたまま泣いていた。水と着替えと温かい食べ物が届いたが、彼は食べ物を取らなかった。そして救護所へ行く事を激しく拒んだ。絶対に行かないと叫んだ。まだ、妻がいるんだ、妻が助けを待っているんだ。彼はそう叫んだ。その拒み方は絶対的なものだった。救急隊員たちにはどうしようもなかった。ボランティアの青年は彼に寄り添っていた。

暗い中でのライトだけの手作業はなかなか進まなかった。地震が起きた時間がわるかったのだ。

消防隊員が来て今日の作業はここまでしかできないと言って来た。夜の10時を過ぎていた。明日は重機が来る。そうすれば効率良く作業が進むからと。だが彼は明日までここにいると言ってきかなかった。それを聞いたボランティアの青年は、自分がここにいて、彼を見ているから大丈夫だ、自分はボーイスカウトに所属しているからと言った。それからボランティアの青年は救急隊員から寝袋を二つ借りてきた。火に気を付けてくださいと言って彼らは帰って行った。

最後に警官が帰ったあとは、もどかしい静寂が辺りをつつんでいた。瓦礫の上にはブルーシートが掛けられていた。それは暗い夜の中で異様な輝きを見せていた。

焚火の焰が赤黒く夜の闇に染まりながら、燃え立っていた。その傍で、踞った二人の男の体に火の影が、呟かれる言葉のように映り込んでいた。しかしそれは、瞬く間に暗い闇に溶け込んでいった。

ボランティアの青年は憔悴した彼に温かい食べ物を勧めた。これからを乗り切るために何か食べないと、と。

明日になれば、本格的に捜索ができます。その為に食べましょう、と。

彼は青年に促されるようにして、ようやく食べ物を口にした。

·····ありがとう·····彼はそう呟いた。

明日、一緒に奥さんを探しましょう。

他のご家族に連絡は?

連絡はしたと、彼は言った。そして明日こっちに来ると言った。

時々、焚き木のはぜる音がした。その音はまるで爆竹のように聞こえた。そのたびに、火の粉が舞った。その火の粉は短く、蛍火のように夜に灯り、闇の中に消えていった。何処までも深く闇はその小さな光を吸い込んでいた。まるで彼らを包んで、何処か別の世界へと運んで行くように。

ボランティアの青年の気持ちに和まされたのか、彼は少しづつ話し始めた。

私と妻はどうにか二階の踊り場まで来たのです。でも、その時階段が直ぐ目の前で崩れて行き、私たちはそこに取り残されてしまいました。他にも数人の人がいたと思います。それは揺れが収まった時でした。私のほんの少し先でした。1メートルも無い所の床が崩れたのです。運悪くそこには妻がいたのです。私はとっさに妻の腕を掴みました。二の腕辺りを掴んだのです。私は必死に彼女を持ち上げようとしました。彼女も片方の手を床につき、力いっぱいしがみつこうとしました。

でも、しがみついた床が崩れて行きました。私は力の限り引っ張りました。でも、私の手がずれてゆき、彼女の肘に、そして彼女の手首に、とうとう彼女の手を握っていました。その時聞こえたのです。彼女の声が、子供を頼むと言うのを。それは想像した事も無い長い時間の様であり、あっと言う間の様でもありました。時間と言うものが存在していないみたいに。

妻の手が離れてから、また天井が落ちて来て、私たちは後ろの壁に身を寄せる他ありませんでした。

まだ、しっかりとあの時の妻の手の力が、私のこの手に残っているのです。しだいにずれて行く手の感触、妻の腕の肉の感じ、そしてその下の骨の硬さまで。彼女の指の細さ、皮膚の滑らかさ、その指先、そして私と離れるその一瞬。そのほんの僅かな一瞬にあった妻の思い。彼は泣きながら、時に噎びながら、慟哭の中でそう語った。語らなければいられなかったのだ。

私は、私から遠ざかって行く妻の姿が見えています。そしてそれは私が手を伸ばしても、決して届かない。

(あなたには、娘さんがいるのですね)

(はい。5歳になります。やっとできた娘なんです)

二人が眠りについたのは、夜半を過ぎた頃だった。焚火は燃え続けていた。

焰は揺らめきながら、闇の中へ昇って行き、ひとつの夜がそこを覆っていた。でも焚火の焰に映し出される闇は彼らの上で、少し色を変えているように見えた。】



鐘ヶ島は観光施設が多くあり、1年を通して観光客で賑わうような町だった。結局僕は、賑わいを避けて、鐘ヶ島の南側にある、ひとつ先の秋香と言う町に部屋を見つけた。そこは山裾の開けた高台にあるマンションの一階だった。マンションの屋上からは港が見えたけれど、一階の僕の部屋のベランダからは見えなかった。その代わりに、小さいけれど、小綺麗な公園が目の前に見えた。ベンチが4つ置かれ、鉄棒と、滑り台と、ブランコがあった。新しいトイレもあった。とても立派なトイレだった。僕の部屋には以前の部屋にあった物がそのまま継承された。ネット関係も、マンションに来ているものを使った。僕は、2·3日で殆ど以前の生活を取り戻した。全てそのままで、場所だけが移動したみたいだった。顔を会わせた人にはちゃんと挨拶をしたし、とりあえず僕の両隣の人たちには、挨拶に行った。

そうしてから、僕は町の中を歩いてみた。

町はふたつに分かれるようにしてあった。漁港は山が迫り出した丁度先端にあって、そこを境に右手と左手に分かれているのだ。方角で言えば南側と北側である。僕のマンションは北側になる。南側は比較的に質素な感じの建物が多く、庶民的で下町的な様子だった。それに対して北側にはけっして多くはないけれど、アパートやマンションがあって、役場や消防施設等があり、飲食店も南側よりは多くあった。

小さいけれど新築されたばかりの図書館まであった。まだ、開館されてはいないようだった。住宅も比較的新しい感じがした。古本屋が1軒あったけれど、その古本屋は本当に古そうな古本屋だった。店の前には本が山積みされていて、今日は天気がよかったけれど、もし雨が降ってきたらとても大変そうに思えた。

町の通りはどこも狭くて、車がすれ違うのには苦労しそうだった。電車が通ってはいないので、国道が重要な位置にあった。そのせいか、海の方角へ向かえば何処からも、けっこう簡単に国道に出る事ができた。

漁港には海産物の販売所があり、岬に向かってずっと遊歩道が続いていた。

海も静かだった。岬と岬の間に、先端から堤防が延びていて、ちょうど両手のように見えた。その隙間から海はその向こうへ、限りなく広がっていた。

僕は仕事の時間を朝9時から午後3時頃迄とした。略1日をパソコンの前に座って過ごすことになる。

最初の1週間は、頻繁に会社に行かなければならない作業があったけれど、いろんな手続きの準備が済んでしまえば、出勤する必要は粗無くなった。

週に一回程の出勤を予定すればよかった。そのようにして、3週間程が過ぎた頃、図書館の開館を知らせるチラシが郵便ポストにはいっていた。そして、もう一つそこに、慰霊祭の知らせが短く書いてあった。同日の8時から行われるらしい。図書館は9時30分開館とだけあった。なんの慰霊祭か書かれていなかったので、僕には解らなかったけれど、今週の日曜日に、何かの慰霊祭が行われるのだ。

その日は朝から曇り空で、厚い雲が空を覆い、風は無かったけれど、そのうち雨が降ってもおかしくはなかった。ただその雲は比較的明るく、雨を含んだ灰色の重く暗い雲ではなかった。

日曜日で、とりあえず僕にはする事がなかったので、図書館へ行ってみようと思い立ち、9時半過ぎに部屋を出た。

図書館まではゆっくり歩いて20分位かかった。僕は脇道を通らず、1度国道へ出てから図書館へ回った。国道のバス停を迂回する感じになる。

そのバス停が見えた時、そこに1台のマイクロバスが停まっていて、そのバスに何人かの喪服を着た人たちが乗り込んでいるのを見た。5·6歳の少女が乗り込むのも見えた。

そう言えば今日、何かの慰霊祭が行われると書いてあった事を思い出した。

僕が国道に出たとき、マイクロバスは僕の横を通り過ぎて、鐘ヶ島方面へ向かって走り去って行った。窓際にさっきの少女が座っているのが見えた。それは僕の目の隅を掠ったくらいだったけれど、美しい少女だった気がした。きっと、彼女の身近な誰かが亡くなったのかも知れないと思った。

図書館は二階建で、外階段がふたつ付いていた。東側と西側にひとつづつあった。二階には広いベランダが一周まわっていて、建物の大きさからしては随分ひろいベランダだった。ベランダには何も置いて無かったけれど、椅子やテーブルを置いても充分広かった。

受付は一階で、階段を3つ上がると広くおおきな手動のガラス扉があり、そこを入った左手にあった。利用に関しては、登録制になっており、住所と名前と、電話番号が必要だった。僕は用紙に書き込んで、登録書を貰った。

受付は図書室の一部になっていて、直ぐ横から本が並んでいた。驚いたことに、受付を含め、四方にドアがひとつづつ、計4つあった。そのせいか、本は思ったよりも少なかった。

受付の女性が、本のリストが有りますので、そこから選ぶ事も出来ますと言った。本が並んでいるのは一階だけで、二階は本の倉庫になっているという事だった。

僕は本を見て廻った。

本は、書店と同じ様に、ジャンル別に区別されて並んでいた。けっこう細かくジャンルがあったけれど、、そのジャンル別の本は多かったり、少なかったりしていた。補修された本が処々に目立ってあった。図書館の匂いはとても新鮮で、静謐な真空地帯のように感じられた。四方の壁のドア以外の壁面は全て本が並べられていて、中央に2重になった円形のテーブルがあった。数人の閲覧者がその円形のテーブルに、コアラが木にしがみついてでもいるように座っていた。如何にも図書室のイメージに思えた。

考えてみたら僕は、図書館へ来たのはたぶん中学生以来だろう。夏休みとか冬休みとかの宿題で来たのだ、たぶん。

それ以外で本に接した覚えは無かった。文芸書の類はとくに読まなかったと思う。僕はその時、ふと彼女のことが頭に浮かんだ。それは何処か別の世界から迷い込んで来たものであるかのように。外界から隔てられた静寂の中で、僕の足音だけが微かな静けさを知らせる空間で、僕はあえかなる一瞬に触れていたのだ。

僕は忙しさの中に彼女を紛れ込ませて忘れていようとさえ思っていた。

そうだ、彼女がよく本を読んでいたことだって知っていたのだ。

溺れてしまいそうな程の思い出が、僕の全身に突き刺さった。

僕はそのひとつひとつに語りかけていた。それはもう僕の触れられない君の血の一滴だ。どうしようもない絶望が沈黙の中で襲いかかって来る。あの日断ち切れた、沈黙よりも微かな言葉たちを引き摺りながら。それから僕は身動きもできぬまま、眠りのなかに身を倒すのだ。そうするしかなかった。

過去に向かって体が収縮していくような感じだった。それが行き着く先は僕には解っていた。あの日流した汗の雫が僕の影の中に落ちていったように、あの日の影の中に今僕は落ち続けているのだ。

「そうよ、私たちは、もう、もどれない」

「あなただって、解っていたのよ」

僕たちは生まれる前の虚無の時間からずっと求め合ってきたんだよ。

そしてもし、どちらかが先に死んでも僕たちは死んでからの無限の時間と共に求め合って行くんだよ。

「私の中には、あなたの知らない私がいる」

「私が、ほんとうに、求めていたのは……」

僕の中に、彼女の幻影が浮き沈みしていた。僕がどれほど叫んでみても、彼女は振り返らなかった。それでも僕は彼女の方に手を伸ばした。意識の深い闇の中へ僕は手を伸ばし続けたけれど、彼女は僕の指先のほんの数センチ先を、通り過ぎて行った。

彼女は僕を置き去りにしたまま、あの日のあの場所に残したまま、何処かへ消えていったのだ。

「ねえ、明日の朝、あなたの部屋へ行く」

「え、どうしたの?こんなところで

僕は待っていたんだ。昨夜から眠れなくて。夜明けと共に起き出して、君に少しでも早く逢いたくて。僕はアパートの階段を駆け下りて、駅まで走って来たんだよ。2時間以上も待ってしまったけれど、部屋で待っているなんてできなかった。

「そう、、寒くなかったの」

「はやく、行きましょう」

でも、僕たちの過ごした日々は、もう帰らない。

僕は何処か広い場所に行きたかった。その広い場所の空気を胸いっぱいに吸いたかった。僕は図書館を出た。そして狭い道を海の方へ下っていった。10分程で国道に出た。あのマイクロバスが止まっていたバス停から国道を渡ろうとした時、バス停の名前が目に入った。二四七小学校前と書いてあった。

秋香ではなかった。小学校があるのかと思った。僕はそのまま横断歩道を渡り海辺の広い場所を探した。僕は遊歩道に入り、岬の森林地帯を抜けて、先端のなだらかな岩場へ出た。

其処には注意書きの看板があった。

波が這い上がるため下には下りないでくださいとあった。

でも、そこから見渡す景色は広かった。とてつもなく広い景色だった。遠く雲は水平線に切れて、青空が幾つかの筋のように見えていた。僕は胸いっぱいに空気を吸った。そしてゆっくりと吐いた。もちろん、海の匂いがぼくの内臓にまで滲んで染みていった。海の波の音はいつまでも繰り返し、乱れる事は無かった。風は頬に優しく触れていた。ここでは声を出しても、きっと何処にも届かないだろう。

全て海が消してくれるのだ。

朝には群れている海鳥たちは何処にいるのだろう。目を閉じても、ここでは何の気配もしない。僕は傍の石に座った。時間は僕の知らないうちに過ぎてゆく。僕とは何の関係も無くに。でも、ここでは僕はその時間に包まれているのを感じる。運ばれているのをだ。

「さよならを言いたくないのよ」

「・・・わかってくれるね」

僕はその時何も言わなかった。

ただ、彼女が席を立ち、僕はレシートを握って、少し遅れて席を立ち、彼女は出口の方に歩き、僕はレシートを握りしめたまま、ゆっくりと座席を抜けて、通路に立った。彼女は一息つくように僕を見て、微笑んだ。その微笑みはもうもどれないと言う微笑みだった。僕はレジの方へ近づいて行き、会計を済ませ、彼女を見た。彼女もずっと僕をみている。ぼくも目を離しはしない。外へ出た。ドアが音をたてて閉まった。通りは人で溢れていた。僕はその中で立ち止まっていた。彼女は見知らぬ人々の流れに少し戸惑いながら僕をみていたが、やがて横顔になり、発せられない言葉が口もとに見える。

『さよなら』

さよならと僕も言ったのかも知れない。

僕は夕方近くに立ち上がって、そこを後にした。

その帰り道に、不思議な事があった。

僕は以前通った、あの古本屋の前に積み上げられていた本をたまたま手に取ってみたのだ。

別に買う積りも無かったのだけれども、その本を開いた時、最後のページに、秋香図書館所蔵品との印が押してあるのに気付いた、その積み上げられた本は全部秋香図書館の所蔵品のようだった。そしてどれもが何かしら汚れていたのだ。僕は古本屋の中に入ってみた。店内も、ぎっしりと古本で埋め尽くされていた。僕は何気なく、ゆっくりと、目を移動させていった。上から、下へ、そして横へ、ゆっくりと撫でるように、すると目が止まった。

『夜に海を渡る蛇』

僕は気が付くと、その詩集を手に取っていた。そして、ページをめくってゆくと、詩織が挟んであった。でも、それは詩織ではなく、詩織の代わりにした三つ折りの白い紙片だった。そして僕はそれに、見覚えがあったのだ。

僕は少し手が震えるのを感じた。

心臓が速く鼓動を打ち出していた。

気持ちが焦るような感覚を覚えた。

僕はレジへ行き、それを買った。

その時に、表に積んである本が以前あった図書館の物である事を知った。

その図書館が地震で潰れた事も、5人の人が亡くなった事も、そして、積まれた本の収益が、新しい図書館の新しい本になる事も、その時知ったのだ。

僕は、言い知れぬ思いを胸に仕舞って、マンションへ帰った。


ニ四七小学校は僕のマンションから2ブロック(その家並がブロックと呼べるなら)先の道を山側に登った開墾地にあった。広くはない道だったが、舗装された真っ直ぐな道が小学校まで続いていた。僕がその辺りを歩いてみた時は、学校はちょうど休みの期間で、子供たちの姿は見なかったが、児童数は多く、まわりの地域から通って来る子供たちも多くいるらしかった。

何年か前に、3つの小学校が統合して今の二四七小学校となっていた。

その小学校に通う子供たちを、学校が終わった後預かってくれる児童館が、僕のマンションの前の公園の上の方にあった。

北側の町も南側の町もおおよその様子は分かった。僕はあれからずっと歩いていた。あの詩集を買ってしまった日から、僕はそこら中を歩き回っていた。おかげで町の大半を把握できた。

おまけに山に入る小道を幾つか知ったが、そこには、たいがい、イノシシに注意だとか、クマに注意だとかの立札があった。だから僕は直ぐ引き返す事になった。

学校が始まると、たまに、子供たちの声が聞こえてきた。サイレンや、放送の音も聞こえた。子供たちの姿を公園に見る事が多くなった。

そんなある日の午後、僕は仕舞ったままの詩集を思い出した。僕はそっと詩集を取り出した。そしてなんとなく公園に行ってみようと思った。僕の気持ちの中に、硬い石のような塊がずっとあり続けていたのだ。

何かが僕に近付こうとしている、または僕の体の中の僕の知らないところから、何かが這い出て来ようとしている。そんな感じだった。それが僕にははっきりと解った。だが、それが何なのか全く解らなかった。

僕は公園へ行くと4つあるベンチのひとつに座った。僕は詩集を膝の上に置いて公園を見渡してみた。二組の母親と子供がいて、ブランコで遊んでいた。僕は持って来た詩集のページを開いてみた。子供たちの元気な話し声がしていた。母親たちは声を秘そめて何やら真剣に話し合っていた。

詩集など、僕は読んだこともなかった。ページをめくっていくと、あの白い紙切れが挟んであった。僕はその紙切れを開いてみた。それは、ただの白い紙だった。メモ用紙だ。だが、あの時見た白い紙切れと同じ物だ。たぶん同じメモ帳から切り取られたものだろう。そしてたぶん、それを挟んだのは彼女で、この詩集は彼女の物なのだ。正確には彼女の物だったのだ。

初めに思った疑問は、何故秋香の古本屋にこの詩集があったのか、と言う事だった。


僕は暫くその白い紙片を見詰めていた。しかし、紙は紙であり、そこからは何も得られない。この詩集を見つけた時に、詩集を売りに来た人の事を、古書店の主人に聞いてみたが覚えてないと言われた。

そしてそれ以上考えてもそれでどうなる事でも無かったのだ。僕は紙の挟んであったページの詩に目を通してみた。


ーーその辺りに 暗い帳が降りて

影が陰に溶ける時に

ーーまた夜が 海の波を

恍惚の中に誘うときに

夜に這う蛇のため息が

遠くざわめきの中に

白き泡のような嘆きをささやく

ーーそれは長く長く繰り返され

ーーそれは低く低く歌われてゆく

まるで 夜光虫の嘆きのように


それは、海を渡る蛇と言う題がつけられてあった。何時か、彼女から聞いた事があった。

僕はあの日の夜に、見下ろした海を思った。夜光の中でみた海岸線の白い泡が続いて、闇の中へ消えて行くのを思い出した。

あの町の入り口のレストランで、鐘ヶ島のポスターを見なければ、僕は西伊豆に住む事は無かっただろう。あの町と此処とはそんなに遠くはない。結局僕は何からも離れられないのだ。

(ねえ、そこまで行けるかしら)

(足が濡れてしまうわ)

不思議だ。僕は随分彼女の事を忘れてきたような気がする。

7年程の時間は、僕の意識を少しづつ削りながら、短くなっているのだろう。だが、それは消える事は無い。ある事は、火傷の様に記憶に刻み込まれるのだから。

僕は本を閉じて、ベンチから立ち上がろうとした時、一人の少女が僕をじっと見ているのに気が付いた。

5·6才の少女だった。ショートカットでランドセルを背負っている。

僕の前5メートル程先で、じっと動かない。正確に言うと、僕の持っている詩集を見ているようだった。

でも、僕には見覚えがあった。

秋香図書館の開館の日、ニ四七バス停でマイクロバスに乗っていた女の子だ。たぶん慰霊祭に来ていた。

その時、母親らしい女性がやった来て、少女に声を掛けた。そして僕の方を見て軽く会釈をした。女性は子供のランドセルを持ってやりながら、急かすように車が止めてあるから、と言った。その時少女がおばちゃん、あれママの本だよと言ったように聞こえたのだ。少女は女性に手を引かれながら公園から出て行った。出て行く前に、その女性はもう一度僕に会釈をした。僕も会釈を返した。

僕はその女性の顔立ちがどこか彼女に似ているように感じた。ただ、そう感じただけだった。

その女性は、少女の母親では無かった。話では叔母なのだろう。母親の代わりに迎えに来たのかも知れない。

僕はその叔母である女性と、美しい少女が見えなくなってから、本を持ってベンチを立った。

その時、詩集から白い紙片が落ちたのを、僕は気付かなかった。

『完結済み』

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夜に海を渡る蛇 カッコー @nemurukame

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