第2話

夕方、僕は部屋を出た。

自分が何処へ行こうとしているのか判らなかったけれど、目に付いた(おそらくは)暫くの生活のための物をナップザックに詰めて、そして忘れてはならないものと共に、、僕は車のドアを閉めた。

それはずっとあり続けていた。まるで

体の中に、石を飲み込んだみたいに。固く錆びついたネジのように重く固定されているようだった。しかし、それは気付かぬうちに動き出していたのだ。僕の知らぬ間に、時が行くに連れてゆっくりと締め続けていた。僕にはもう、成すすべがなかった。そうしてようやく気付いた。

向き合う事しかないことにを。

あれからもう、5年が過ぎていた。

彼女が去って1年後くらいに、僕は彼女に電話を掛けたのだ。

不思議な電話だった。

僕たちは、まるで何ごともなかったかのように話をした。僕たちのあの日々についての話も、今、心のなかでどう思っているのかも、そして君が去ったわけも、僕たちは話さなかった。

(子供ができたの)

(昨日、退院してきたばかりなのよ。)

その時僕はどう応えたのだろう。

ずっと彼女たちには子供がいなかった。

子供を作らない訳では無く、できなかったのだ。僕といる時は、それほど欲しがっている様子もみせなかった。でも、何時かその話題が出た時、彼女が深く息を付いた事があった。その時、僕は余り気に止めずにいたけれど、あの時の電話の彼女は、本当に嬉しそうだった。普通に話はしていたけれど、僕には良く解った。その嬉しさが、もう僕を必要としていない事も、僕は良く解った。おめでとう、良かったねと、僕は言ったのだろう。たぶん。

今日まで僕を受け入れてくれたこの町。そして僕を支えてくれた部屋。語り尽くせない思いを共にしてくれたのだ。でも、あの現実に起こったはずの思い出は、ほんとうに起こった事だったのだろうか。この5年と言う時間が僕に残したものは、過ぎゆく時間の中に消えてゆく微かな思い出と、切り取られてゆく彼女の姿だった。

言葉は虚無の内に消え、追憶は無惨で、やりきれぬ思いは暗い深淵の縁をさ迷うばかりだった。それでも僕はかろうじて息をしている。

9月がもう終わろうとしていた。

僕は左手に海を見ながら幾つかの町を過ぎた。空は蒼く、処々に真っ白な雲を配置し、日々高く遠ざかっていた。

目に映る町の光景は、何処も同じように見えた。新しいビルが立ち並び、町の中心に近づくに連れ、人の数は多くなっていた。でもそれらの陰には、取り残された古い遣物が場違いな様子で立ち竦んでいた。それらもやがて取り除かれるのだろう。そしてその後には新しいビルが建つのだ。

僕はエアコンのスイッチを切り、窓を半分あけた。風が強く吹き込んできたけれど、その風は太陽の匂いを含んでいて温かだった。僕は窓を全開にして、肘を乗せた。風の叫び声で車内が埋まった。

僕はその時、自分が何処へ行こうとしているのか気付いた。

僕は、あの町へ向かっている。それはまるで磁石に吸い寄せられる金属片のように、僕を引き寄せていたのだ。

僕はアクセルを踏み込んだ。不思議に風は止んでいた。そして僕は、アクセルを踏み続けた。

僕がその町の入口に着いた時にはもう辺りは薄暗くなっていた。僕はガソリンスタンドを見つけて、ガソリンを入れてから、近くのレストランに入った。

前方には東伊豆の海がひろがり、夕闇の影の中で最後の煌を見せていた。それは夜光虫の輝きを思い起こさせた。

店内は、客は疎らで空いていた。小さな音で音楽が流れていた。僕は直ぐ分かった。CSNYのデジャ·ゥ゙だ。

《※もし、前にここにいたならば、きっとどうしたらいいかわかるはず、

君もそうじゃないかな?····················

············そう、前に僕はここにいたような感じがする·············それで僕は思うんだ、いったい地下では何が起きているんだろう

君は知ってるかい?不思議に思わないかい?·················································※》

綺麗なハーモニーだ。曲は “僕たちの家”から“ 4+20 ”になり、僕がその店を出るころには、“エブリバディ·アイ・ラブ・ユー ”が終り、“キャリー·オン”が始まっていた。キャリーオンと僕は呟いた。

レジを出ようとした時、横の壁に美しいポスターが貼ってあるのを見つけた。それは西伊豆、鐘ヶ島の夕暮れの海の写真だった。海の中に立つ魅力的な姿の岩山の間に沈みゆく夕陽が映っていた。

店を出ると、東伊豆の海の波音が夜の中に静かさを寄せていた。僕は暫くの間車に寄りかかり、その潮騒を聞いていた。

あの場所へ行ったとしても、それからいったいどうしようと言うのだろう。

あの道の角を曲がったとしても、其処はもう僕の場所ではないのだ。其処の何処を探しても彼女はいない。僕は車のドアを開けて、シートに座った。真っ暗な海に、白銀に輝く小さな光がそこら中に散らばって見えた。

赤や青の様々な色の光が、海岸線から燃え上がるように、焰のように煌めいて夜の中で揺れていた。

僕は車のエンジンを掛けて、ドアを閉めた。


3週間後、僕は部屋を引き払った。もっと早く出たかったのだけれど、契約上の問題があったし、揉め事は避けたかったからだ。それに、鐘ヶ島に部屋を見つける必要があった。3週間あれば充分だった。仕事はスマホとPCがあればほぼ足りたし、どうしても必要なら、車でいけば用は済むのだ。

僕は10年以上いた町から西伊豆の町へ引越す事にした。決断は急だったけれど、僕は殆ど迷わなかった。そして3週間はあっと言う間に過ぎた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る