夜に海を渡る蛇

カッコー

第1話【10代の最後の頃に失った愛の様なものの記憶が途切れたその日を、ちょっと脚色して、書いてみました。】

いったい僕は今、何処に来ているのだろう?。僕が費やしたはずの時間はどうしたのだろう……。

1979年の夏、僕は確かにあの場所にいたのだ。噎せ返るような暑い夏の午後に、何ひとつ音もしない、死んだような海辺の町のバス停で、僕はずっと西に続く道の先を見続けていたのだ。もしかしたら、鴉が鳴いたのかも知れない。鳶が空を舞ったかも知れない。だが時間は、音のない世界の音ででもあるようにその影を、僕の身体から滲み出す汗にしてベンチに落とし続けていた。僕はずっと、君を待ち続けていた。

やがて、僕の周りに帳が降り、1日に4本しかない最後のバスが行ってから、僕はゆっくりとベンチを立った。これからずっとこの夜が続いて行くような気分だった。まだ汗が体中に纏わりついていた。僕の後ろで、少し波の打ち寄せる音がしていた。振り向くと暗い闇のずっと奥の方で幾つかの赤い光が見えた。

《時は滲み落ちる汗となり、影は闇となって行った。》

夜の暗い道は、まるで叢の中を進むように、僕の歩みを押さえつけた。月の無い新月の闇は何処までも深く、僕の行く手を紛らわせた。それでも海はそこにあった。僕はずっとその海の弱々しいざわめきを聞き取りながら、西に続いているはずの道を歩いた。その先には、ずっと先には、君がいる。僕はその灯に向かって歩き続けていた。しかしその灯の灯る場所は僕の場所ではなかったのだ。

そこには彼女のための言葉が用意され、明るい笑い声が紛れもなくあるはずだった。まるで冬の日の陽だまり中に身を寄せ合うように。それは深い信頼と尊敬と、そして限りない愛を含んでいるのだ。間違いようもなく。そしてそれを彼女は選んだ。否、選んだと言うよりはおそらく、それははじめから決まっていた事だったのだろう。僕は立ち止まってそして西ヘ向かうその先を見た。その時、何処かでギイーッと鳥が鳴いた。その声は幾千の矢が舞うように、夜の中をもがりをあげて翔け巡っていった。そこには果てしもない深い闇があるばかりだった。

僕は道路を横切り、海岸沿いにあるガードレールまで近づいた。そして身を乗り出すようにして下を見た。暗闇に少し目が慣れたのか、白っぽく波の筋が続いているのが見えた。そこは思いのほか下の方にあった。白い波の筋は海の触手のように蠢いていた。それは〈夜に海を渡る蛇〉を思い起こさせた。彼女が言ったのだ。

(蛇が夜光虫に恋をしたの。ほら、夜光虫って蒼白く光って綺麗でしょ。それでね。、、でも蛇は自分の姿が醜いのを知っていたから、だから夜にね、会いに行ったのよ。)

波の砕ける音が少し大きくなっていた。風が吹いてきていたのだ。遠くに目を凝らすと、幾つかの小さな白い明かりが見えた。その小さな明かりは暗い闇の中を揺らいでいるようだった。

(でも、その夜は海が荒れていたの。それで夜光虫は散り散りになってしまって。それでも蛇は探したの。荒れた海に潜ったのね。それで溺れてしまった。)

暗い闇の中に揺らぐ明かりに手を伸ばせば届きそうだった。

(もういいよ)

それは僕が言った言葉だ。そうだ、確かに僕はそう言ったのだ。

海風は急ぐように強く僕の体を叩いた。僕はもうどうでもよかった。飲み込まなければならない言葉さえどうでもよかった。

何処か後ろの森の方で、枝を叩いて飛び立つ鳥の羽音がしたようだった。

僕はガードレールに手を付いて暫く目を閉じていた。おかしみが体の奥の方からこみ上げてきた。笑っていたのかも知れない。声を出して、僕はいったいどうしていたのだろう。

やがて僕は手を垂れて、ひとりぽっちでまた西に向けて歩き出した。歩き出さずにはいられなかったからだ。


その小さな辺境の町は、町と言うほど大きくはなかった。集落と言った方が似合っていた。僕の知るかぎり、ホテルや、旅館も無く、民宿が数件あるだけだった。深い入江の、先端の岬に取り残されたようにそこはあった。

僕らはその場所で会うようにしていたのだ。

東伊豆の国道に出るのには、細いくねった山道を回って、古びたトンネルを潜る必要があった。

処々に街灯がくぐもって灯っていた。そのどれもが蜘蛛の巣だらけで、何かしらの虫が纏わりついていた。森が不気味な生き物のように、街灯に飛び交う虫たちの羽音を取り込んで唸っているようだった。

海岸線の道が終わると曲がりくねった登り坂が、何処へとも判らない暗い上空へと伸びているみたいだった。街灯の間隔は遠くなり、黒く塗りつぶされた絵の具の中に、処々塗り忘れられた白い点が、気休めのように続いていた。僕はその中を歩いていた。風の音は低い幽霊の悲鳴のように、ゆらぐ木々のざわめきは、過去からの亡霊の笑い声のように思えた。

(待っていてくれたんだ。

ねえ、、いつからいたの?)

何時からだろう……。

ずっと前から。何年かな、10年それとももっと前から……。

君と向かい合って座ったパブの二階の席の向こうに、夜の町が見えていた。そのときは、僕はその町を見ていた。ふと気付くと、その時、君の肌が、僕の頬に、触れそうになっていた。

カルク、ホントウニカルク、クチビルガフレアッタ。

君はかすかに微笑んでいて、それは誰にも分らない微笑みのようで、それは僕だけのものだった。起こったことは、まるで深い呼吸のように、僕の体の隅々にまで染みわたった。僕はカルク君の手に触れたかも知れない。

(もう、君のところには行けないね)

(これから私が、あなたのところへ行く。)

この道を歩き続ければ国道に出る。国道に出てまた暫く歩けば駅に着く。電車があれば電車に乗る。終わっていれば、明日の朝まで待てばいい。だが、電車に乗って何処へ行けと言うのだろう。どうして僕は帰れるというのか。君の思い出がいっぱい詰まったあの部屋へ、僕はもう帰れない。


だが、僕は部屋へ帰った。

アパート全体が僕から遠く、隔てられた物のように思えた。できるなら、此処にはいたくなかった。

僕はゆっくりと階段を上がって、ゆっくりと部屋のドアの鍵を回した。

もちろん部屋の中は静まり返っていた。でも、そこには確かな気配が感じ取れた。君の声がしていたし、君の笑顔が見えていたのだ。

僕の腕の中に、君はおだやかに体をあずけ、眠そうにおとがいを寄せた。

(ねえ、夜に海を渡る蛇の話知ってる?)

(私見つけたのよ、そのお話の舞台になった場所を。)

僕たちは、外で会う事は殆どできなかった。ひと目を避けなければならなかったからだ。

この部屋の何処にでも、僕は彼女を見つける事ができた。こうしている今も、彼女の匂いを感じる事ができた。

それはまるで一瞬の夢ででもあるように、現実との境がぼやけていた。僕は部屋の中で君の名前を、声を出して呼んでみた。いつも呼ぶように。

僕は部屋の窓を明け、ソファーに腰を下ろし、サイドボードの上に部屋の鍵を置いた。その時僕はサイドボードの上に置かれている雑誌に挟まれた白い紙を見つけた。そのページには、僕たちが過ごした海辺の町が簡単に紹介されていた。そこに「夜に海を渡る蛇」という詩集を書いた詩人の名前があった。

最後に、そこはその詩人の地元で、その詩集は其処で執筆されたと書いてあった。

でも、今となってはそれはドウデモイイコトだ。僕はただうなだれて、時間が過ぎるのをじっと待っていた。誰かが外の階段を上がって来る足音がした。その足音が僕の部屋のドアの前で止まった。僕は耳を澄ませた。僕の呼吸は止まり、全神経がドアに集中した。空白のとてつもない長い時間が過ぎて行った。やがてドアノブの回る音がした。部屋の窓のカーテンがゆらいで、誰かが部屋に入ってくる気配がした。



【※カッコーです。いつもだいたい、出だしが決まった後、何処へ行くか解りません。自分でも、あ、こんなところに行き着いた、と思ってしまいます。(短編)】






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