第6話 終止符

 ――意識を取り戻した筑後川は、後頭部に鈍い痛みの名残を感じながら薄らと目を開けた。


 一体どれくらい眠っていたのか分からない。ただ外がすっかり暗くなっているところを見るに、ある程度の時間が経過しているようだった。


 開け放たれた扉の向こうから差し込むエントランスの照明を頼りに、筑後川は部屋の電気を点けた。


 目の前には、めった刺しにされた尋常寺セレナの死体が転がっていた。


 犯行を止められなかった。その事実に形容しがたい苦しみを感じ沈痛の面持ちをたたえながら筑後川は部屋を出る。ふらついた足取りで、彼が向かったのは尋常寺マリアの部屋だった。

 扉を開け、室内の照明を点ける。


 マリアの傍らには、ズタズタに切り裂かれた尋常寺悠人の死体が転がっていた。


 もはや瞳を虚ろとさせながら、また筑後川は歩き始める。手摺りに掴まりながら中央階段を下り、裏手にある細い階段へと向かう。闇へと潜るような細い階段を下り、地下室に辿り着く。薄ぼんやりした照明の下で血溜まりに沈む小森田繁の死体を避けながら、筑後川はさらに奥へと進んでいく。


 やがて突き当たりに至ると、目の前に鈍色の扉が現れる。かつてセフィリアという名の女性が囚われていたに違いない、牢獄の扉。


 そして今、その扉を守護するかのように、左右に佇む少女ふたりの姿があった。


「リオ、レア……」


 双子姉妹のメイド。筑後川がその名を口にすると、どちらからともなく姉妹は小さく頭を下げた。


「もう、すべてが終わりました」

「もう、すべてが終わりました」


 それは探偵にとって敗北を認めざるを得ない、試合終了の宣言にほかならなかった。


 無言のまま歩みを進める筑後川。双子姉妹は静かに傍観する。ドアノブに手をかけて、そこで筑後川はひとつだけ訊ねた。


「……教えてくれ。セフィリアの本当の苗字は何と言うんだ」


 双子姉妹は小さく息を吸った。


「セフィリア様の本当のお名前は」

「セフィリア・エイレーン様でございます」


 ……そういうことだったのか。ようやく真相を理解した探偵は、諦めきったような表情で、あるいは自身の愚かさを哀れむような顔つきで、ゆっくりとドアノブを回した。


 扉を手前に引くと、鉄の板はギィ……と鳴き声を上げてゆっくりと開いた。


 中に入る。最低限の家具すらもない、薄襤褸の寝床が床の上に直に敷かれただけの殺風景な部屋だった。

 長年にわたって放置されていたであろう牢獄の中に漂う蓄積した黴と埃の臭いに混じって、むっと立ち込める鉄の臭いが筑後川の鼻を突いた。


 目の前には、全身をめった刺しにされて苦悶の表情を浮かべながら事切れた尋常寺大伍の亡骸が転がっていた。


 そして、その傍らに立つ彼女こそ。


「君が本当の犯人だったんだな――


 二十代もまだ折り返さないほどうら若く、そして西洋人形のごとく美しいブロンド髪の女性。かつての筑後川の助手、リオレア・エイレーンが血塗れのナイフを手にして立っていた。


「ええ、すべて私がやりました。すべては母への仕打ちに報いるために」


 殺人鬼と成り果てた助手の表情には、微塵の罪悪感も見受けられなかった。


「私の母は尋常寺大伍の愛人でした。私は母と大伍のあいだに生まれた妾の子です。かつては母と一緒にこの屋敷に住んでいました。……この家の人間は、私たちに対してとても冷たかった。特に母に対しては。こんな場所に私たちを閉じ込めて、ろくな食事も与えず、ちょっとしたことに目くじらを立てては容赦なく暴力を振るう……。そして何よりも、あの男は一切母を守ってくれなかった……。母が必死に庇ってくれたおかげで、私はどうにか生き延びることができました。しかしそんな日々の中で次第に母は衰弱していき、やがて四十を迎える前に亡くなりました。……私は許せなかった。母を殺したこの家の人間たちがどうしても許せなかったんです」


 筑後川は、今まで知り得なかった助手の過去を、胸が締めつけられるような気持ちを抱きながら聞き続ける。


「母の死後この家を出た私は、いつか再び戻る日を窺っていました。理由はもちろん復讐のためです。そして先日、ついに私は母を殺した人間共の根城へと舞い戻りました。私ひとりでは全員を殺すことは難しかったかも知れません。ですが私には協力者がいました。まだこの家に住んでいた頃、ほかの人間とは違って優しくしてくれたあの子たちが、私に力を貸すと言ってくれたんです」


「……それがリオとレアだったわけか」


 筑後川の言葉にリオレアは首肯した。


「はい。奇しくも私の名前を分かち合った双子の子。あの子たちのおかげで私は目的を為すことができました。まずは執事の小森田を殺しました。そこでまさかあなたがこの家を訪ねてきたのは予想外でしたが……けれどあの子たちのおかげで上手く立ち回ることができました」


「どうして最初に私が疑われたとき、レアは私を擁護したんだ」

 筑後川は静かに訊ねた。

「いっそのこと私を有力容疑者のままにしておけば、君にとってはそっちの方が好都合だったんじゃないか」


「あれは……私のわがままです。あなたが私たちに背中を向けているときに、私が目配せでレアに指示を出しました。あの時点であなたにはとんでもなく迷惑をかけることが分かっていたのに、それでも私は少しでもあなたが不利益を被らないようにと、そう考えてしまった。そんな勝手なわがままですよ」


 筑後川は問うたことを半ば悔いた。胸の奥がちくりと痛んだからだ。きっとこの針のような切なさは、当分のあいだ抜けることはない。

 リオレアの告白は続く。


「その後、あなたがレアと地下室に向かっているあいだに自室に引き上げた丈言と元々寝ていた貴芙を殺し、続けてマリアの部屋に向かい、リオに捕らえさせていた彼女を殺しました。手際が悪くマリアに悲鳴を上げられてしまった際、リオは私に自分の腕を切りつけてくれと頼んできました。私は彼女の指示に従い、そしてクローゼットの中に隠れました」


 思わず筑後川は奥歯を噛んだ。あの腕の怪我は自作自演だったのだ。


「おかげであの子は疑いを免れ、あなたは部屋を出て行きました。それから油断している悠人を背後から襲って殺し、私はリオと丈言の部屋に向かいました。するとそこにあなたがいたので、心苦しくはありましたが、リオにあなたを気絶させてもらったのです。その後、セレナはその場で殺し、大伍だけはここまで引き摺ってきました。こいつだけは、こいつだけはどうしてもここで殺してやりたかったのです。私が、母が、日々の苦しみと憎悪を募らせたこの場所で、そして母が命を終えたこの場所で、自身の行ないを悔いさせながら、ありったけの苦痛を与えながら、こいつを殺してやりたかった」


 ゴミを見るような表情で、リオレアは尋常寺大伍の死に顔を踏み躙った。

 やがて足を退けた筑後川の助手は、どこか哀しげな微笑をたたえて探偵を見た。


「筑後川さん。あなたの前から勝手にいなくなってごめんなさい。……本当は復讐をやめようと思ったこともあったんです。あなたのそばでずっと、あなたという探偵の助手として生きていこう。そう思ったこともあったんです。……でもダメでした。私はどうしても、自分の中に潜む殺意を抑え込むことができなかった。私には、あなたの助手になる資格はなかったんです」


「リオレア……」


 筑後川は喉が震えて上手く声が出せなかった。目の奥が熱い。それはきっと、自分が想っていた以上に彼女が自分のことを想ってくれていたのだという喜びよりも、この先に何が起こるか予想できてしまったがための悲愴ゆえの情動だった。


「これで私の復讐は為し遂げられました。ですが大量に人を殺した殺人犯と、その殺人犯に敗北を喫しながらも最後の最後には追い詰めた探偵の図が、今まさにここに出来上がっていますね、筑後川さん。ミステリ小説なんかでよくある構図です。あなたなら、この後犯人がどういった行動を取るか分かりますよね。そしてその場合、探偵がどういった行動を取るのかも、あなたはすっかり承知しているはずです」


 筑後川の心を見透かしたようにリオレアが言う。それが彼にとってはこの上なく辛かった。


「リオレア、私は……」


「言わないでください」

 リオレアは筑後川の言葉を制した。

「どうか言わないで。私に後悔させないで。私はあなたの助手でも何でもない、ただの最低で最悪な人殺しです」


 そう言い放ったリオレアの頬を、一筋の透明な滴が伝った。それはきっと、冷酷な殺戮魔となった彼女の心が流した、人間らしい温かみの籠もったひとしずくの血液だった。


 筑後川も涙を零し、けれど彼女の気持ちを汲んで懸命に唇を噛み締め、それ以上の言葉を飲み込んだ。


 そんな筑後川を愛おしそうに見つめて、リオレア・エイレーンは最期にもう一度微笑んだ。


「ありがとう、優しい探偵さん」


 そして手に持ったナイフを掲げ……勢いよくそれを振り下ろす。


 その瞬間、探偵・筑後川令星は、大切な助手と愛する女性を失った――。

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リオとレア 夜方宵 @yakatayoi

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