未消毒の物件

七国山

ぼくは、引っ越し先の内見の予定があったことを思い出した。

 いつから忘れていたのだろう。

 

 手帳を見てもスマホを見ても。きちんと予定は書きこまれていたハズなのに。今の今になるまで、そのこと自体がすっかり頭から抜け落ちていた。

 新生活を始めるにあたって、浮ついていたことは否めない。だがそれにしたって、こんな大事な予定をすっぽかすなんてありえないではないか。


 まずい。まずい。

 もう約束の時間は過ぎている。今から行っても普通に遅刻だ。

 だが逆を言えば、今からならまだ『遅刻』として言い訳が立つということでもある。不動産会社の人は先に現地に行って待っている予定だから、今ならまだ、なんとか。帰らずに留まってくれているかもしれない。


 というわけでぼくは、手足をできる限りの速度で振り回し、走っているわけだ。

 何年ぶりだろう。全力で走ったのは。

 子供の頃は毎日走ってた気がする。走っても走っても、なおも世界は果てが無く、どこまでも続いていると思っていたから。


 別に。大人になった今だって、世界が特別小さくなったわけじゃない。ただ、肉体の限界を感じるだけだ。走ると息が上がり、鼓動が高まり、つらい気持ちがこみあげてくる。

 このまま行っても無駄なんじゃないかとか。そういう。弱い気持ち。


 いいや。ダメだ。ダメだろそれは。

 生ぬるいことを言っていてはいけない。ぼくはこれから、ぼくは今から、そんな自分を変えるためにも。新生活を始めなければいけないのだ。

 これまでのダラダラした生き方を見つめ直し、変わるのだ。しっかり働いて、しっかり休む。オモチャとかフィギュアとかで遊んでばかりいないで、メリハリの利いた生活を心がけるのだ。


 遅刻については良くないことだ。約束を破るのは良くないことだ。そこは申し訳ないし、謝らなければいけない。

 だからこそ、見せるべき誠意というものがある。

 今からでも、少しでも急いで、早く辿り着かなくては。


 めげそうになる気持ちを力ずくで押さえつけて、一心に両足をばたつかせて。

 そうして現地に辿り着くと、そこには。

 提灯を携えた、スーツ姿の女性がいた。

 提灯。である。多分中身は電球か何かだろう。やわらかい黄色い光で、表面に書かれた『おむに不動産』の文字が浮かび上がっているのが見て取れる。


「こんばんは。わが社の物件の内件をご希望されていた方でしょうか?」


 不動産会社の女性が、軽く会釈をしつつ、息も切れ切れなぼくに尋ねてくる。 

 周囲は静かで、星明りすらもわずかだ。女性が手にする提灯だけがほとんど唯一の光源であり、それに照らされた彼女の表情も、やわらかいものだった。

 

 なるほど。事前にどんな人が待っているかの情報は聞いていなかったけど、これなら多少暗くても一目瞭然だ。風変りにも見えるが、広告も兼ねていると考えれば実際有効な手かもしれない。


「あ、はい。ぼくです。すみません。予定の時間より遅れてしまって……」


 もう少し。ちゃんと謝ろうと思ったけど。

 ぼくは結局中途半端に笑って、なんとなく誤魔化してしまった。きっちりしたスーツに身を包んだ彼女に比べ、ぼくは安物のジーンズだしスカジャンだ。向こうは気にしてないしその必要もないとは思っていても、なんとなくぎこちない対応をしてしまう。


「良いんですよ。この辺りは入り組んでいて複雑ですから」


 にこり。と。不動産の女性は目を細めて笑ってくれた。

 確かにここは入り組んでいて迷いやすくはあるけど、遅れた理由はそうじゃないんです――とは言えなかった。


「では、ご案内しますね」


 女性はそう言って振り返り、すたすたと歩き始めた。

 ああ、目的の物件はここではなく、少し離れた場所にあるのか。迷ってるぼくが見つけやすいように、わかりやすいところで提灯を下げて待っていてくれたんだな。

 その気遣いに感謝しながら、ぼくも女性の後をついていく。


「こちらの物件。日当たりが丁度いいと評判なんです。暑すぎず寒すぎずで、広さも十分。水回りも整っているんですよ」

「へえ……」


 歩きながら、不動産店の女性がぽつりぽつりと話し始める。

 ぼくにとってはあらかじめ調べて知っていた情報ではあるけど。セールストークあるいは間を持たせるつもりで、適当な話題を切り出してくれたのだろう。


「前の入居者が退去されてからは、空きのまま少々間が空いてしまっていますが……」

「あれ? そうなんですか? てっきり人気の物件かと……」

「ええ、そうですね。内見にいらした方にはお話しすることになっているのですが……」


 出るんですよ。この物件。


 提灯を下げて、顔を下方向から照らした女性が、ぼくに振り向いてくる。

 古典的な演出だった。

 逆に噴き出してしまいそうになるくらいに。


「出るって……まさか。幽霊じゃないでしょ?」

「はい。そのう……口では言い難いのですが……黒光りしてたり、地べたをカサカサ這いまわったりする、あの……」

「あ、はい。わかりましたわかりました。アレですね」


 まあまあ。ある程度以上あたたかい所にはありがちな、アレだろう。

 ぼく自身アレに特別な嫌悪感はないし、名前を口にすることに躊躇はないのだけど。この人は女性だし、ひょっとしたら彼女は苦手かもしれないから、このままアレだということで話を進めてみる。


「けどそれくらい、わざわざ言うほどのことではないのでは?」

「そうなのですが、通常の対応ですと……物件は『消毒』してからお客様にお渡しする手筈になっているので……」

「ふむ? ならやればいいんじゃないですか? 消毒」

「それが、その……はい……」


 不動産会社の女性は、そこに至ってどうにも歯切れが悪い。

 言いたくないとか、言いにくいとかではなく。どう説明すればこちらが理解してくれるのかを思案している感じだ。


「とりあえず。話せるところから話してみてくださいよ。住むかどうか決めるのはぼくなんで」


 というわけで。ぼくもとりあえず協力的な姿勢を見せてみることにした。

 あるいはここで不寛容を決め込み、ゴネてみたりした方が。敷金礼金とか、家賃の値下げ交渉などに持ち込めたかもしれないけど。それはそれ。今回は素直なぼくで行くことにする。


「……はい。では前の入居者のお話なんですが……彼は、好きだったみたいです」

「何を?」

「アレを」

「アレを?」


 マジか。

 嫌悪感はないと言ったばかりだけど。そんな僕ですらアレを『好き』とまでは思っていない。基本的には、好き好んで共存したいとまでは思っていないのだ。


「で、増やしちゃったそうです」

「増やしちゃったの!?」

「産めよ。増やせよ。地に満ちよと」

「地に満ちちゃったの!?」


 ずいぶんとエッジな趣味嗜好を持っていたようだ。

 ほっといても増えたりするものを、わざわざ飼育して繁殖させてしまうとは。それを自分の居住スペースでやってしまうとは。前入居者はかなり愉快な人だったらしい。


「それだけならまだ良かったのですが……どうやら増えたアレは、耐性を持ってしまったらしくて……通常の方法では消毒しにくくなってしまったのです……」

「ああ……だからぼくが来るまでに消毒できなかった……そういう話なんですね」


 なるほど。理解した。

 つまりぼくがこれから引っ越す物件は、アレの巣窟、あるいは宮殿、あるいは楽園となっているというわけなのか。

 さすがに、想像したら背筋に怖気が走る。


「で、ですが! もう少しお時間をいただければ! 必ず消毒できるので! 薬とか毒は無理だとしても! 水で丸ごと洗うとか、凍らせてしまうとか、逆に熱するとか方法はありますので……!」

「あー……」

 

 多分。効果は完全ではないだろう。

 ぼく自身そこまで詳しいわけではないが、アレの生命力はなかなかだと聞く。ついでに頭も良く、一度隠れてしまえば根絶は難しいとも。方法がいくらあっても、時間をかけても、いずれ復活して、繁殖してしまう可能性が高い。


「けどなー……ううん……」


 アレが棲みついている。

 冷静に考えてみれば。問題はその一点だけなのだ。他の条件は極めて良好であり、日当たりも良いし、水回りも整っている。ついでに言えば職場にも近いし、周りは静かで治安も良い。


「……まあ、ぼくならなんとかなると思います。消毒をするってなら、ツテがあるんで頼んでいいですか? アレを専門的に消毒してる業者なんですよ。あの青白い馬の……」

「そうなのですか!? 助かります! ウチでもいろいろ方法を探したのですが、どうにもダメだったみたいで……」


 不動産会社の女性の顔が、ぱあっと明るくなる。

 あるいは提灯の灯りの電池の接触が良くなるとかして、輝度が上がったのかもしれない。

 いずれにせよ彼女の、不動産会社の懸念の一つが解消されたわけだ。

 

 うん。実際悪くない。

 誰かの役に立つのは、いいことだ。

 こんなぼくでも、たまには勇気を出してみるものだ。


「それでは……と。着きましたね」


 女性が立ち止まり。提灯を掲げた。

 その黄色い明かりが照らす先。

 目的の物件。


 ある恒星から三番目の惑星。

 青い青い。水の星。

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