カミナ(下)
「こんな嵐になって、あんなふうに海が荒れる夜には、いいかい、気を付けなければいけないよ。宿を失くして困ったカミナが、表の戸を叩くから。分かったね、コノメ?」
この御宿でコノメが働くようになってから、まだ間も無い頃のこと。
やはりこんな嵐の夜に、荒れた黒い海を指差しながら、旦那がコノメにそう話したのです。
旦那はいつものように優しく微笑んでいましたが、その声にはからかうような響きがありませんでした。
それが一体なんなのかコノメが尋ねれば、旦那は人差し指を立てて声を落とし、含めるように言うのです。
「
それを聞いたコノメは、それは気の毒だ、ヤドカリでも泊めてあげればいいではないかと、子どもながらに抗議をしました。けれど、旦那は困った顔をして、首を横に振るばかり。
「カミナをただ泊めるだけならば、いいよ。けれどね、そのあとが問題なんだ。もし、カミナがその宿のことを気に入ってしまったとしたら、どうなると思う?」
試すように旦那が言い、コノメは正直に「分かりません」と答えました。
「貝を失くしたヤドカリが、素敵な貝を見つけたらどうするか。それと同じだよ。カミナはね、気に入った宿を乗っ取って、自分のものにしてしまうんだ」
それを聞いて、コノメは小さく悲鳴を上げました。旦那はコノメの頭を優しく撫でてやりながら言い聞かせます。
「だからね、もしもカミナがこの宿を訪れても、決して泊めちゃあならないんだ。気に入られてはならないんだよ。私はね、コノメ。カミナが怖いんだ……」
旦那は、どこか情けなさそうに苦笑していました。
コノメはその話を深く心に刻みました。けれど、慣れない奉公の忙しさに振り回されるうちに、いつしかすっかり忘れてしまっていたのです。
カミナが寝床の中に収まります。コノメに背中を向けて丸くなり、そのうちに静かな寝息を立て始めました。
コノメは冷たい板張りの上に正座して、膝の上で拳を握り、じっと固まってしまいます。
カミナは、「
例え玄関先とはいえ、大きなこの御宿ですから、気に入られてもおかしくはありません。そもそも、ヤドカリが宿を気に入る基準などというものが、コノメにはまるで分からないのです。
もし、気に入られてしまったら、この御宿は乗っ取られてしまうのでしょうか。
そうさせないためには、カミナを早々にここから追い出さなければならないでしょう。カミナをみすみす招き入れてしまったコノメには、その責任があるのです。
口唇をぎゅっと一文字に結んで、コノメはカミナの背中を見つめます。小さく上下する細い肩と、湿った黒髪。雨の音が強くなった気がしました。
コノメは静かに首を振ります。
できません。いくら御宿に害を為すとしても、こんな小さな子どもを追い出すなんて。
懐かしくてたまらないコノメの実家には、カミナと同じ年頃の弟や妹がいます。悪戯好きで、生意気で、でも、可愛くて仕方がない大切な家族です。カミナの小さく無防備な背中に、弟たちが重なって見えました。
――朝になったら、出て行ってもらおう。
けれど、せめて朝までは――この嵐が止むまでは、ここで眠らせてあげよう、と。
それまでは、カミナが何も悪さをしないよう、自分がここでずっと見張っていようと、コノメは決意しました。
激しい雨音と仄かな灯火の中に、コノメは佇み続けます。睡魔が容赦なく襲いかかり、目蓋はずしりと重く、何度も船を漕ぎそうになります。
それでも、コノメは起きていました。
いつしか蝋燭が燃え尽き、嵐が去って夜がゆっくりと白み始めても、コノメはずっとカミナの背中を眺め続けていました。
雨が上がりました。美しい
そろそろ奉公人たちが起きてくるのではないかと、コノメがひやひやし始めた頃。カミナは目を覚ましました。
寝惚けた様子もなく、筵から這い出て着替えると、徐に土間へと降り、小さな足に草履を履かせます。振り返ってコノメの顔を見ると、小さく呟きました。
「いい宿だ」
その言葉に、コノメはびくりと身構えます。どうやって宿を乗っ取るのか見当も付きませんが、それでもどうにかしなければと腹を括りました。
カミナが、自分の懐をごそごそとまさぐり、何やら小さなものを取り出します。コノメに近寄ってその右手を取り、取り出した何かをコノメの手に握らせました。
「世話になった。ありがとう、コノメ」
当惑しながら、コノメは掌の中をそっと覗きます。
それは、白く輝く大粒の真珠でした。
「え――」
驚きのあまり、コノメは弾かれたように顔を上げました。見れば、カミナは早くも閂を外し、引き戸を開けているのです。
雨上がりの、澄んだ冷たい空気が肌を刺します。朝の日が満ちる外の空が眩しく、正面に光を受けたカミナは、まるでその身が輝いているようでした。
「カミナ!」
今にも外へ出ていこうとしているカミナの背に、コノメは呼びかけます。カミナはぴたりと足を止めて、首だけをコノメの方へ回しました。
「カミナは……カミナ、なのよね?」
混乱したコノメの問いに、カミナは苦笑しました。
「僕がそう名乗ったから、コノメは僕をカミナと呼ぶんだろ」
「違うの、そうじゃなくて。あなたは、ヤドカリなんでしょう?」
カミナは笑いを収めます。引き戸に手を掛け、コノメから顔を背けました。
「てっきり、知らないのだと思っていた」
「最初は気が付かなかったけど、思い出したの」
「へえ」
どこか面白そうに呟くカミナ。コノメは思わず立ち上がります。
「あなたが本当にカミナなら、どうして何もしないの? カミナは、気にいった御宿を乗っ取ってしまうのだって」
「コノメは、僕に宿を乗っ取ってほしいの?」
「そんなわけがないわ! けれど――」
そこで、コノメは言葉に詰まってしまいました。
カミナが、今度は体ごと振り返って、皮肉っぽく微笑みます。
「拍子抜けしたんだね」
助け船に、こくりと、コノメは黙って首肯しました。
表からは、穏やかな潮騒とともに海鳥の声が聞こえてきます。もう、すぐにでも奉公人たちが起きてくるでしょう。
カミナは、どこへともなく視線を送り、静かな口調で言いました。
「僕は、争いごとが好きじゃない」
今度こそコノメにくるりと背を向けて、彼は続けます。
「貝を失くしたヤドカリが素敵な貝を見つけたら、当然、自分のものにしたがる。けれど、その貝にはすでに先客がいたとしたら? その貝を手に入れるためには、先客と戦わなければならないとしたら?」
コノメはぽかんと口を開けます。カミナが何を言っているのか、さっぱり分かりません。
「そういうことさ」
カミナは呟き、そしてそのまま、ひょいと玄関から出て行ってしまったのです。
「待……っ!」
コノメは慌てて土間へ飛び降り、裸足のまま表へと飛び出しました。
けれど、そこには眩しい朝の海を望むいつもの風景があるだけで、カミナの姿など、もうどこにもありはしませんでした。
コノメは、どうしようもなくその場に立ち尽くします。
軒から滴った雨垂れがコノメの鼻先を掠めて、足下の石畳で弾けました。
コノメの掌に握られた真珠のように、きらきらと輝いていました。
すっかり日も昇り、雨戸を開け放った宿の中では、起き出してきた奉公人たちが忙しく働いています。晴れ渡った青空が清々しく、絶好の洗濯日和になりそうです。
必死に欠伸を噛み殺しながら、コノメも懸命に仕事をこなします。釈然としないものはありましたが、気を取られて間違いをしてもいけません。土間を箒でせっせと掃いていると、不意に、後ろから頭をぽんと叩かれます。
驚いたコノメが振り向くと、そこには、いつの間にか帰ってきたらしい旦那の姿がありました。
「おはよう、コノメ。朝からよく頑張るね」
半月の眼鏡の奥に優しい笑みを浮かべて、旦那はコノメを労います。
二十代にも四十代にも見えるような不思議な雰囲気を持ったこの旦那は、どの奉公人の名もしっかりと覚えていて、誰にも隔たりなく優しいのです。御宿がここまで繁盛しているのも、旦那の手腕に寄るところが大きいでしょう。
コノメは顔を輝かせ、勢いよく頭を下げました。
「お帰りなさいませ! 雨には降られませんでしたか?」
「少しだけ濡れてしまったよ。昨夜の嵐はすごかったけど――カミナは来なかったろうね?」
冗談交じりに旦那は言いました。コノメの心臓がどきりと跳ねましたが、言いつけを守らなかったことを怒られたくもなければ、心配を掛けたくもありませんでした。
「……はい。来ませんでした」
旦那はコノメの瞳をじっと見つめます。そうして、やはり静かに微笑んで「そうかい」と呟くと、コノメに背を向け去っていきました。
追及されなかったことに胸を撫で下ろし、コノメはそっと息をつきました。廊下の向こうに消えていく旦那の背中を見送ります。
――その時。
コノメは、ようやく気がつきました。
何故、カミナがこの御宿を乗っ取ろうとはしなかったのか。
何故、カミナは去り際にあんなことを言ったのか。
その本当の理由が。
玄関から差し込む白い光が、宿の長い廊下をずっと奥まで照らしていました。
板張りの床には、旦那の長い影法師が伸びていました。
それは、昨夜コノメが見たあの影と同じに、虫のような形をしていたのです。
――カミナはね、気に入った宿を乗っ取って、自分のものにしてしまうんだ。
私はね、コノメ。カミナが怖いんだ。
怖くて仕方がないんだよ――
了
カミナ 秋待諷月 @akimachi_f
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます