カミナ
秋待諷月
カミナ(上)
――こんな嵐になって、あんなふうに海が荒れる夜には、いいかい、気を付けなければいけないよ。
宿を失くして困ったカミナが、表の戸を叩くから。
濡れそぼって、今にも泣きそうな顔をして、泊めてくれろと頼むから。
ある早春の、嵐の夜のことでした。
刻限も遅くなり、屋根の下の人々もすっかり寝静まった中、ただ、瓦や雨戸を打つ激しい雨の音だけが止めどなく響いています。
山と積まれていた繕い物をようやく終わらせ、端切れと針山を片付けながら、少女はひとつ、大きな欠伸をしました。
海にほど近い、この大きな御宿で奉公人として働く、十五にも満たない少女です。肩より少し長い黒髪を首の後ろで束ね、褪せた蘇芳の着物に、うす色の前掛けという出で立ち。はっとするような美貌の持ち主ではありませんが、素朴な面立ちと優しい瞳は、見る人をほっと和ませるものがあります。
少女は名を、コノメといいました。
コノメはこの御宿で一番の新米ですから、他の奉公人たちからは、当然のようにたくさんの雑用を押しつけられてしまいます。今夜も皆が寝る頃に仕事を頼まれ、今の今まで弱音も吐かずに黙々と働き続けていたのです。
繕い終えた旦那の羽織をきちんと畳んで箪笥に収めてから、コノメは傍らにあった燭台を手に立ち上がりました。寝間へ向かおうと、冷え冷えとした板張りの廊下へ足を踏み入れます。
すると、そのとき。
「御免ください」
とんとん、という戸を叩く音とともに、小さな声が聞こえてきたのです。
コノメは音が聞こえた玄関のほうを見やって、ゆっくり目を瞬かせました。
「御免ください」
また同じ声。遠慮がちな声量で、どこか、震えているようにも聞こえました。
すっかり目が覚めたコノメは慌てて「はい」と応じ、足音をさせないように気をつけながら玄関へと向かいます。重い閂を外して戸を滑らせれば、潮の香のする冷やりとした外の空気と、激しい雨と風の音とが、忍び込むように宿の中へと入ってきました。表に半分だけ顔を覗かせて、コノメは尋ねます。
「どちらさまでしょう?」
訊いてしまってから、コノメはぎょっとしました。軒下で棒立ちになっている人物が、あまりにも酷く濡れていたからです。
外はこんな大雨だというのに、蓑も笠もかぶっておらず、藍の着物や茶の袴が黒く見えてしまうほどに全身が水浸しでした。衣服の裾からも、烏の濡れ羽色の髪からも、ぽたぽたとひっきりなしに水が滴っています。荷物の類は見当たりません。
「今夜の宿が無くて、弱っているんだ。泊めてはいただけないだろうか」
堂々とした口ぶりで、予期せぬ客は言いました。しかしその声に、コノメは目を丸くして、不躾も忘れて相手の顔を覗き込みます。
それは童でした。コノメよりも三つ四つ下の年頃と思われる、まだ幼い男の子です。
なぜこんな夜更けに童がこの宿を訪ねてくるのか、どうしてこんな大人びた物言いをするのか――コノメの頭にいくつも疑問が浮かんだものの、それどころではありません。
「可哀想に、こんなに濡れてしまって。早く中に入って、これで体をお拭きなさいな」
コノメは大慌てで男の子を招き入れ、懐から出した手ぬぐいを渡してやります。表の雨足が激しくなっていることを肌で感じ、急いで引き戸を閉めました。
雨と風の音が、すうっと小さくなります。コノメは燭台を掲げて土間を仄かに照らすと、改めて男の子の様子をまじまじと見つめました。
よく整った、色白の愛らしい顔をしています。大きな瞳が印象的で、その黒色の深さに吸い込まれてしまいそうでした。
「返答を、まだもらっていない」
凜と澄み切ったその声に、コノメは我に返ります。男の子は下から覗き込むようにして、コノメの顔を眺めていました。
「あ、ええと」
小さく狼狽えながら、コノメは考えます。今夜は予期せぬ嵐の所為で飛び込みの客が多く、空部屋はありません。夜も遅いので、眠っている客を起こして相部屋を頼むわけにもいかないでしょう。
けれど冷たい雨の中、こんな子どもをむざむざ追い出すことなどできるはずがあるでしょうか。
幸い、旦那は近くの村へ出かけていて留守です。他の奉公人は寝ていますし、仮に起きたとしても、便所は玄関と逆方向なので、ここに顔を出すことはないでしょう。
コノメは一つ、頷きました。
「御免なさい、今夜はお部屋が一杯なの。ただ、玄関でよければ屋根を貸せるし、温かいものくらいなら出してあげられるわ。お代はいらないから」
そう、申し訳なさそうにコノメが告げると、男の子はきょとんとした顔でコノメを見つめました。
やがて、口元を綻ばせて美しい微笑を浮かべ、こう返します。
「ありがとう。世話になる」
くるくると、コノメはよく働きます。大きな手ぬぐいと替えの着物を用意し、桶一杯の湯を沸かし、男の子が体を拭くのを手伝ってやります。
布団部屋は奉公人達の寝所になっているため、布団の用意はできません。その代わりに、コノメはよく乾いた筵を幾枚も重ねて、玄関脇の床上に簡素な寝床をこしらえてやりました。
そんなコノメの様子を、男の子は土間の端に腰掛けたまま、じっと静観しています。
一通りの仕事を終えたコノメが白湯と漬け物を持ってくるのを待って、彼は口を開きました。
「君の名前は?」
思いがけない問いに少しばかり瞠目し、はにかみながらコノメは答えます。
「コノメ。私はコノメよ。あなたは?」
当然のような問い返しに、しかし男の子は、ふと困ったような表情を浮かべました。しばらくの黙考のあと。
「カミナ。そう呼ばれている」
「カミナ……?」
告げられた名を繰り返しながら、口元に手を当て、コノメは小さく首を傾げました。
――何故でしょう。コノメは、その名前に聞き覚えがある気がするのです。
知り合いには思い当たりません。けれども妙に、コノメの胸に引っかかります。魚の骨が喉に刺さっているような、そんなもどかしい心持ちでした。
しかしやはり、どこでその名を聞いたのか、思い出すことができないのです。
「この名が、何か?」
カミナと名乗った男の子が尋ねます。不愉快な様子ではありませんでしたが、コノメは首を勢いよく横に振りました。
「いいえ。変わった名前だけど、素敵な響きね」
そのコノメの言葉に、カミナはまた微笑みを浮かべます。
コノメもにっこりと笑い返し、それきり、コノメはその名前について考えることを止めました。
漬け物を囓るカミナの横に座り、コノメはしきりに質問を浴びせます。
実のところ、丑の刻も過ぎた現在、コノメは眠くて仕方がありません。けれども幼い子どもを、こんな寒々しい玄関に一人きりにするのは気が引けます。コノメが喋り続けるのは、この睡魔を誤魔化すためでもありました。
歳は幾つなのか、どこから来たのか、生まれ育ちはどこか。好きな食べ物は、字は読めるのか、読めるのならば書けるのか。コノメは一方的に問いを重ねます。
しかしカミナは、「分からない」「忘れた」などと、どんな質問に対しても曖昧な返答しか寄越しません。
コノメはこっそりと溜息をつきました。半ば意地になって、新たな質問をひねり出します。
「どうしてカミナは泊まるところが無いの? 家はどこ?」
これまでで一番長い沈黙が、二人の間に落ちました。
雨が、しきりに戸を叩きます。ざあざあという重い響きが、耳の奥まで染み入ります。
静かに箸を置き、白湯をすすってから、カミナはゆっくりと口を開きました。
「この嵐で、流されてしまったから。それで途方に暮れていた」
その言葉で、コノメの眠気が一瞬で吹き飛びます。
「そんな、それは大変だわ! 家が波にさらわれたということよね? お父さんやお母さんはどこにいるの? 近所の人は?」
コノメは青い顔で矢継ぎ早に尋ねますが、カミナはただ、静かに首を振りました。
「父も母も、もういない。他に仲間もいない。ずっと前から僕一人だ」
カミナの口元に浮かんだ微笑に、コノメは返す言葉を失います。居たたまれずに目を逸らし、手持ち無沙汰に、空になった湯飲みと皿をお盆に載せました。
「僕はもう寝るよ。おやすみ、コノメ」
沈黙に耐えかねたのか、カミナは淡々とそう言って立ち上がり、筵の寝床へ足を向けます。
「おやすみなさい、カミナ……」
伏せていた顔を上げ、そう告げたところで――コノメは凍り付きました。
燭台の炎がカミナを照らし、壁に大きな影法師を作っています。
それは人の形ではなく、何やら多くの脚が生えた、虫のような奇妙な姿をしていました。本来、腕の影があるべきところには、糸切り鋏のような二股の影が蠢いています。
コノメはぞっと悪寒を覚えました。
そして同時に、先ほどは思い出せなかった「カミナ」という名前のことが、唐突に思い出されたのです。
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