三丁目の泥濘

かわしマン

三丁目の泥濘

 S区K町。築三十五年。木造アパート。1DK。告知事項あり。賃貸物件の仲介をしている俺は、とにかく事故物件を探しているという男を、そのアパートへと連れてきた。内見だ。

 男は四十代か五十代の、いかにもうだつが上がらないといった様子の冴えない男だった。清潔感がまるでない出で立ちで喋り方も陰鬱だった。

 

 ここへと向かう営業車の中での男の様子がおかしかった。後部座席で虚ろな目をしてぼうっと助手席のヘッドレストあたりを眺めているのがバックミラー越しに見えた。話しかけても気のない相槌が返ってくるだけだった。かと思えば突然「早く帰りたい」という独り言を、時折口に出していた。

 

「あぁ。ここじゃないなぁ。ここじゃない。ここじゃないです」

 

 アパートに着き部屋へと入るなり、寝癖を直していない頭頂部あたりを手でかきむしりながらぼそぼそと男はそう言った。

 男の頭からパラパラと白いフケが溢れ肩に落ちた。

 俺は胃の中で込み上げた不快感に気づかないふりをしながら「うちで紹介している物件で事故物件ってここしかないんですけどね」と、努めて明るく柔和な声を作って男の後ろ姿に話し掛けた。

 

「いやぁこの辺りのはずなんですよ。僕が死んだアパート」

 

 男が冗談を言っていると察知した俺はわざと声を出して笑った。

「やめてくださいよ。変な冗談は」

「冗談なんて僕が言うわけない。僕はね。僕が首を吊ったアパートを探しているんです」


 突然腐臭が部屋中に漂った。今までに嗅いだ事のない臭い。本能的な恐怖を感じさせる凄惨な臭い。

 男が振り向く。男の顔が見えた。男は泣いていた。ぼろぼろと大粒の涙が頬をつたっていた。


「僕はね。ずっとずっと僕が首を吊ったアパートを探しているです!もうかれこれ五年になります!」


 切迫した声色でそう言った男の足元でドロドロした茶色い液体が水溜まりを作っていた。どこから飛んできたのか大量の蝿がその茶色い液体に群がっている。

 茶色い液体はどこから湧いてきたのか。

 男の足元をじっと眺めて俺は気づいた。男の足が溶けていた。茶色い液体は男の足が溶け出した物だった。


「五年も探して見つからないなんておかしい!どう考えてもおかしい!わざと隠してるんですよね?」


 気づくと男の足は腿のあたりまで溶けていた。腰から上が宙に浮いているみたいだった。

 茶色い液体が流れ出して俺の足元まで到達していた。


「変だ!変だ!変だ!変じゃないですか!なんで見つからないんですか!隠してるんでしょ?隠してないで早く僕が首を吊ったアパートに連れていってくださいよう!」


 泣き叫ぶ男の体がどんどんと溶けていく。上半身が溶け出し始めていた。茶色い液体が俺の足元を通過して玄関の方へと流れていく。


「分かってるんです!僕はもう分かってるんです!あなたたちが僕を陥れようとしているのを!わざと隠して僕があのアパートに帰れないようにしてるんですよね?不動産屋同士裏でほくそ笑みながら結託して、団結して、スクラムを組んで、僕をあのアパートに帰れないようにしているんだ!」


 男は胸まで溶けていた。あと残っているのは首から上だけだ。茶色い液体が部屋中の床に行き渡っていた。泥濘に立っているようだった。


「ああああ!なんてことだ!僕は永遠にホームシックだ!悲劇だ!惨劇だ!首を吊らせてくれもう一度!あの部屋で!あのふぇばぁでえええええ!」


 男な完全に溶けた。茶色い液体は玄関から外へと漏れ出していた。

 

 俺はどうしようかと途方にくれた。とりあえず部屋を出て営業車に乗り込んだ。

 とりあえず店に戻ろうとエンジンを掛けた瞬間に、部屋を間違えた事に気づいた。

 ここは事故物件のアパートじゃない。事故物件は二丁目。ここは三丁目だ。似たような古い木造アパートだから勘違いしていたようだった。

 

 あの男には悪いことをしたなと思いながら俺は車を発進させた。足元から鼻をつく腐臭が漂ってくる。

 男が座っていた後部座席をバックミラー越しに見た。

 シートには黄色いロープの束がぽつんと置かれていた。

 


 

 

 


 


 

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三丁目の泥濘 かわしマン @bossykyk

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