モフモフセラピー
黒いたち
モフモフセラピー
「古い部屋ねぇ」
築35年ですから、という言葉を飲み込み、私は営業スマイルを維持する。
神田という高齢女性は、緑色のジャケットを撫でつけながら、窓枠のよごれに顔をしかめた。
「老い先が短いなりに、すこしでも暮らしを充実させたいじゃない。年金暮らしだからって、何もかも諦めるのはねぇ」
神田が喋っているときは、黙って成り行きを見守るのが最善だ。
初対面だが、三時間も付き添っていれば、だいたいの人となりは把握できる。
神田の口は不平不満しか生みださず、周囲を下げて自分を上げることが習慣になっている。自分ほど良識のある人間はいない。本気でそう思い込んでいるため、自分の意に沿わない意見は「悪」であり、全否定するのが「正しい」。
神田はわざとらしくため息をついた。
「ダメね。次に行きましょ」
「……神田さま。こちらが最後でございます」
柔らかい声音で断言すると、神田は眉根を寄せた。
「最後って、どういうこと」
「神田さまのご予算で、2LDK以上のお部屋は、これ以上
「んまあ! そういって予算を上げさせる魂胆でしょ。私が物を知らない老人だと決めつけて、その手には、乗・り・ま・せ・ん!」
神田は、真っ赤に塗りたくった唇をすぼめる。
私は頬が引きつらないように最新の注意を払いながら、神田に微笑む。
「時期の問題でございます。春に新生活をはじめる方は、冬にご契約されることが多く、3月はもっとも物件が限られてしまいますので」
もうしわけございません、と殊勝な態度をとれば、神田は鼻をならした。
「もういちど、ちゃんと調べて。こういうのは、調べ方の問題なのよ」
「神田さま。
「けっこうです! これ以上見に行ったら、疲れちゃう。……ちょっと古いけど、まあ、工夫して住むしかないわね。ここでいいわ」
「ありがとうございます。では、これから事務所にもどり、詳細をご説明をさせていただきますね」
神田の気が変わらないうちに、先回りをして居間の扉をあける。築35年の板の扉は、耳障りな軋み音を立てた。
神田は「説明がわかりにくい」とか「契約書の書き方がわるい」とか、散々文句を言い散らしながら、ようやく判をついて帰っていった。
その緑色のジャケットが見えなくなるまでお見送りをした直後、私は契約書をつかんで所長室へと走った。
ノックをすると、「お~」と間延びした声。
「失礼します! 所長、月間契約30本、達成しました!」
勇み飛び込んだ所長室で、私はぎくりと動きを止めた。
「おお、
いつもどおり笑顔で出迎えてくれた所長。そのとなりに立つスーツの男が、ゆったりとこちらを向き、見せつけるように口角をあげた。
同期の
先月、私が取るはずだった社長賞を、横からかっさらった男。
「君たちの代は優秀だな」
所長のほくほく顔に、嫌な予感が走った。
「小谷は月間契約50本を達成だ! この調子で、来月もたのむよ」
呆然とたちつくす私をよそに、小谷泰陽は扉へと向かう。
彼はすれ違いざまに、私の肩をたたいた。
「
眠れなくとも朝は来る。
せっかくの休日、ストレス解消は一人動物園に限る。
屋外展示プールで、アシカは俊敏に泳ぎ回る。
丘陵地の自然を生かした展示場では、二頭のシマウマと、キリンの親子がゆったりと歩く。
この園は動物福祉に積極的だ。
新たな取り組みとして、Amazon「ほしい物リスト」を活用。
そこから購入した物品は、動物園に届けられる。
さっそく利用し、友人に「意識高いね」と笑われたのは苦い思い出だ。
ふれあい広場は、ミストシャワーのおかげで涼しい。
馬房を改築した部屋には、たくさんのモルモット。
白地に茶色。黒にハチワレ。元気にプイプイ鳴いている。
スマホをかまえ、一歩さがると、人にぶつかった。
「すみませ――小谷泰陽!」
「馬瀬? なんで居んだよ」
聞き捨てならない言葉に、ムッとする。
「私が寄付したオガクズで、足裏ケアを楽しむモルモットを見にきたの」
マウント発言をしてから、しまったと思う。きっと笑われ――。
「おまえも動物サポーターなのか」
「おまえ
聞き返せば、不敵な笑み。
「モルモットのふわふわは、俺が寄付した小動物用ドライヤーの力だ」
「八万円の!?」
私には手が出なかった品だ。
「……何でそこまでするの?」
自分が答えられなかった質問を、意地悪く投げる。
「モルモットに課金する。俺が幸せになる。以上だ」
ガチ勢の回答に絶句していると、アナウンスが流れた。
『十時より、モルモットなりきり体験! モルフェスを行います』
「どうせおまえ
「当たり前でしょ。日本で一番熱いモルモットの祭典よ」
同時に吹きだす。
小谷泰陽に勝ちを譲る気はないが、今夜はぐっすり眠れそうだと思った。
モフモフセラピー 黒いたち @kuro_itati
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