お部屋探しは誰のため

ritsuca

第1話

 暖かくなって来るや否や飛び始める花粉に今日も苦しめられながら、阿賀野は一駅を歩いている。

 会社から一旦帰宅して、スーツを玄関に吊るして着替えた服にはピシッと感は欠片もなく、ただもうひたすら楽だ。そんな楽な格好に着替えてのんびりと歩く、まだ少し明るい道は、とても楽しい。マスクを着けて歩いていてもまだそこまで息苦しさを感じるほどの暖かさではないし、日に日に大きくなる蕾を見るのも楽しいし、空は暗くなるのにどことなく冬よりも明るい色合いに変化しつつあるように見える家並みを見るのもとても楽しい。まぁ、これだけ無条件に楽しめるのも、行先のおかげではある。

 勝手知ったるなんとやら、でポケットから取り出した鍵を差して回す。合鍵を渡されてしばらくのうちは不法侵入と思われていたらどうしよう、と怯えたりもしたが、ある日ばったり居合わせた大家に兄弟と間違われてから、遠慮や怯えはストンと消えた。何をもって兄弟と思われたのかはわからないし、兄弟の距離感ではないような気もするが、不法侵入と思われていないのであればそれで十分だ。


「ただいま」

「んな~~~~」

「おー、よしよし。お前のご主人様はまだか?」

「んな~~~~」


 ガチャリと開いたドアの音目掛けてやってきた猫、こと、おーじの頭を撫でてやりながら、玄関を見る。荻野の靴はまだなかった。ちなみにここは荻野の部屋であって、阿賀野の部屋ではない。

 阿賀野と荻野はここから3駅ほど先の会社に勤めている。会社の所在地があまり地価の高いところではなかったおかげで実現したこの職住近接は、とても快適だ。いや、だった。年明け早々の地震でハザードマップを改めて確認するまでは。


「あれ、俺鍵かけ忘れたか? ……って、阿賀野か。早いな」

「おかえり、荻野。今日も不動産屋に寄ってきたのか?」

「んー、いや、今日はアプリで見た物件を外から確認してきた」


 とりあえずお前も俺も手を洗おうぜ、と促されるままに手をしっかり石鹸で洗う。数年前の疫病禍の影響もあるが、どちらかと言うと、おーじに何か悪い影響があっては、という意味合いの方がこの部屋では強い。

 今日は何食べたい、と聞かれるのに、魚、と答えれば、じゃぁこれ、と手近にあったじゃが芋を渡される。肝心の魚は冷凍庫にいたらしい。いない日もままあるので、今日は運が良かったようだ。


「これ剥いたらいいの? アプリで見た物件ってどんなん」

「洗って土落として根っこ抜いたら○スのフライドポテトみたいな形に切って。ペット可の防災マンションって書いてあったんだわ。ハザードマップも確認してみたら、ここより良さそう」

「モ○のフライドポテトね、了解。切り方の名前あるの? 水にさらす? へー、場所の確認までしたってことは、内見もすんの?」

「ある、くし切り。そんで水にさらす。これ使って。内見はもう少しほかの物件も確認してから。候補まとめてあるから、お前も後でちゃんと見ろよ。内見の候補日も決めるぞ」

「あいよ。……ん? なんで?」


 ワンルームの部屋、リビングと繋がっていると言えば聞こえのいいキッチンは、男二人が並んでもとても余裕のある広さだ。おかげで今日も昨日もその前も、二人揃っているときには食事の支度はだいたい二人で進めている。

 そのキッチンで荻野から受け取った耐熱ボウルを片手に、もう片方の手は蛇口に乗せたまま、阿賀野は首を傾げて動きを止めた。容積2Lの耐熱ボウルは地味に重いのだが、今なにか不思議な言葉を聞いたような気がして、そしてそれをそのまま素通りしてはいけない気がして、荻野を見る。見られた荻野はと言えば、レンジで軽く解凍した後、まな板の上で先程削ぎ切りにしたばかりの鮭の骨と格闘しているせいか、こちらにちらりとも目もくれない。


「なんでって、ルームシェアした方が安上がりだし、寒いと行き来が面倒だなって話してただろこの前吞んだとき」

「この前っていつだよ。それに俺そんなに入り浸って――」


 いただろうか。冷静に思い返してみれば、毎日帰宅はしているが、ここ1年ほど、夕飯を自分の部屋で食べた記憶はほとんどない。平日の昼食は会社の近くで食べるし、休日の昼食もほとんど自分の部屋では食べていなかったような気もする。もしかすると、朝食くらいしか食べていないのではないだろうか。


「俺、合コン行こうかな……」

「はぁっ⁉」


 珍しく大声を上げた荻野が急に顔を上げたので、荻野の方を向いたままでいた阿賀野は真正面から荻野と目が合ってしまった。

 叫び声は怒り声にも聞こえたが、ただただ戸惑った表情を浮かべている。そして荻野の瞳に映る阿賀野も途方に暮れていた。


「俺、入り浸りすぎじゃん。どう考えても迷わ――」

「迷惑だったら一緒に内見って言わない。俺は……俺は、阿賀野と一緒に住んだら楽しそうだな、と思った。それに、部屋が増えたらきっとおーじも喜ぶ」


 なぁ、とあまりにも弱々しく続いた声に、「わかった!」と阿賀野は答えた。

 荻野から視線を逸らして蛇口を緩め、じゃが芋が浸かったことを確認して水を止める。そっと耐熱ボウルを流しに置いて向き直ると、今度は荻野が鮭の骨との格闘を再開していた。

 あー、まぁ、そうだよな、夕飯は大事だもんな、うんうん。心の中の声が聞こえたのかどうなのか、「じゃぁ」と荻野が言葉を繋ぐ。


「食べ終わったら物件の相談しような。おーじの誕生日を新居で迎えるのを目標にしよう」

「おう。……って、それいつだよ」

「うちに来た日。だからゴールデンウイークだな」

「えー……今からそこまでに、って、引越し料金かなりエグいじゃんそれ」


 それはたしかに、と頷きながらも、荻野の手は止まらない。

 あぁこれは、もう明日内見するとか言い出すかもしれない。交渉の余地はどの程度あるのだろうか。

 そう思いながらも、次の手順は、と阿賀野は問うのだった。ゴールデンウイークには自分の誕生日も控えていることをすっかり忘れたまま。

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