3分間と10年間

丸毛鈴

3分間と10年間

 わたしには、三分以内にやらなければならないことがあった。手元にストップウォッチを置く。


「発信音のあと、三分以内に伝言をどうぞ……」


自動アナウンスの間に深呼吸して鼓動を整える。イヤホンマイクから、ピーッと無機質な音が鳴る。


「こんにちは。そっちはこんばんは? そういうのないのかな。今年はもうとっくに桜が散って、葉桜になってるよ。わたしたちが子どものころって、入学式に桜が咲くイメージだった? それか卒業式? いまじゃそのへんはもう桜の盛りは過ぎててさ。変な感じがする」


 もっと言うべきことがあった気がする。でも、口をついて出てくるのはたあいのない話ばかりだ。手紙を用意した年もあったけれど、どうせ語りかけているうちにどんどん話がそれてしまう。


「あ、でも今年は桜の開花も二十日ぐらいだったから、卒業式にはかかってたのかな。散りかけのころに、今年もあそこに行ったよ。ジョンを連れて。君が好きだったほら、川沿いのさ……。あのときのこと思い出して、笑っちゃった。もうあれから五年ぐらい? お花見なかなかできなくて、花も終わりかけで」


 飼い犬のジョンを連れて桜の花びらが舞うなか、君と川沿いを歩いた。君は、「“花ざかり”っていうより“散りざかり”」なんて言って笑っていた。


「すごく強い風が吹いて、桜吹雪なんて風流なものじゃなかったよね、あれは。ふたりとも桜まみれになって、わたしは目にほこりが入って、ジョンのリード放しちゃって……」


 いまは沈黙も、ことばに詰まるのも、それはそれでいい、と思っている。ストップウォッチの液晶に涙が落ちる。


「なんで、なんで、もういないんだよ……」


***


「こんばんは。今年はちょっと遅くなっちゃった。そっちもこんばんはでいい? 君と会うときには、『こんばんは』なんて言ったことなかった気がする。へんな感じ。今年も桜、もう散っちゃったよ。最近さ、iPhoneが『思い出の写真集』みたいなの出してくるんだ。勝手にビデオ編集して音楽つけて。君がいたころにはなかったでしょ。見たらびっくりするんじゃない? 怒る気もするな。『勝手に写真使うな!』って。それで、君が桜の花びらまみれになったあの写真が出てきてさ」


手元のスマートフォンでその写真を表示させる。君は、黒い髪にも顔にも桜の花びらをつけて、おとなと思えない顔で笑ってる。と、ポコンという着信音とともにメッセージが表示された。それを読んで、わたしは通話のことを一瞬、忘れてしまう。


「…………。ごめん。よそ見しちゃった。……ゆっこ、カナダへ行くんだってさ。あんまりこんな話したくないんだけど。いま、理解増進法がどうのって。それで揉めてんの。『理解』の『増進』だけで揉めるんだよ。ゆっこはあきれちゃって、移住を目指すんだって。どうしたらいいんだろうね。どうにもなんないのかな……」


 ゆっこはあのとき、ずっと手を握ってくれていたな、と思い出す。だまって何時間も。


「あ、ぜんぜん大丈夫だからさ。心配しないで。最近は外国にいたってオンラインでも会えるしさ。どんちゃんとかさ、みんな元気なんだよ。わたしも、ジョンも元気だよ」


<メッセージをおあずかりしました>


無機質な音声が流れて、呆然とする。話したかったのは、こんなことじゃなかったはずなのに。


***


「こんばんは。今年も桜はもう散っちゃった。三月の頭だったよ。早すぎてびっくり。


昨日はさ、引っ越しの手伝いをしてきたんだ。どんちゃんとフミの!  あの子たち、いっしょに住むんだよ。信じられる? 友達同士のシェアじゃなくて、ちゃんとパートナー同士として。いまは同性愛に理解がある不動産屋があるんだよ。ドラマで女の人同士で住む話があって、そこにもそういう不動産屋が出てきたらしくて。どんちゃんたちもそういうお店を探したんだって。『お友達同士ですか』とか『ごきょうだいでないと』とか言われなかったって、すごくうれしそうだった。


保護猫もお迎えするんだってさ。通っている保護猫カフェで相談したら、『責任をもってお迎えしてくれる方ならどなたでも』って言ってくれたらしいよ。どんちゃんたちの家、桜並木が見えるから、来年は猫とお花見できるかも」


 そういえば、夢見がちなことを言わない君が、一度だけ言った。あの土手で。桜まみれになったあの日、逃げたジョンを必死で追いかけてつかまえたあとで。ふたりともあんまりにも息があがって、土手の草むらに並んで寝転がった。あいかわらず桜が舞って、胸元に抱いたジョンの鼻についた。君はくしゃみをしたジョンを見て、笑ったんだ。


「いつかいっしょに暮らせたらいいな。君とジョンと、こうやって」


 君があまりにもおだやかな顔でそう言うから、わたしはただ「うん」とうなずいた。どうして忘れていたんだろう。


わたしも同じ気持ちだったよ。君と、いっしょに暮らしたかった。


 突然、鮮烈によみがえった思い出に呆然としているうち、<メッセージをお預かりしました>の音声が流れ、時間が尽きる。


***


「こんばんは。元気?」


 わたしはことばを切って、思い切ってもう一度口を開く。


「今年は残念なお知らせがあります。ジョンが死んじゃった。去年の暮れに腫瘍が見つかって。十五歳だった。若くはないけど……」


ああだめだ。


「今年は桜の季節は、外に出なかったよ。ぜったいに思い出すから」


冷静に、「わたしはだいじょうぶ」と伝えようと思っていたはずなのに。そう言いたかったのに。涙といっしょに、本音が出てしまう。


「さみしいんだ。君を知ってるひとが、どんどんいなくなっちゃう。君がどんどん」


遠くにいっちゃう、は、ことばにならなかった。


「この電話、何回目かな。最初はたださみしかったんだ。一年経っても現実感もなかったし。君が事故にあったのは遠くだったし、お葬式にも来るなって言われたし。それでなんとなく電話したら、通じたんだ。親御さんが料金を払ってくれているのかな? わからないけど、たぶんそうだよね」


わたしは指を折る。


「それから……この電話で七回目。このまま、そっちばっかりひとが増えていくんじゃない? ずるくない?」


すすり泣きを録音して、今年も時間が尽きる。


***


「こんにちは。今年は大切なご報告があります。わたし、君のお墓参りに行ったんだよ。ご実家にも上げてもらって、お線香もあげさせてもらった。


君のちいさなころの写真をたくさん見せてもらったよ。君、ちいさいころから写真嫌いだったんだね。いつもカメラをにらみつけてさ。そんなところ、君らしいなって。思わず笑ったら、お母さんも笑って、それでふたりで泣いちゃった。


お父さんには会ってもらえなかったけど、わたしの連絡先、一生懸命探してくれていたんだって。『悪かった』って。


君のお墓、静かで海が見えて、いいところだよ。お墓なんて意味ないって思っていたけど、君がそこにいるって思えたんだ。スイートピーをお供えしてきた。


花屋で見つけたとき、思い出したんだ。昔、君、卒業式でスイートピーの花束を後輩からもらってきたよね。『かわいくてヒラヒラしてるだけ』って毒づきながら、『においは……嫌いじゃないけど』なんて言ってた。夏になったら、君の大好きなヒマワリを供えに行くよ」


***


「こんにちは。今年はもうとっくに桜が散っちゃった。って毎年言ってる気がするけれど、年々早くなってるんじゃないかな? 今年は三月頭には散ってたんだ。地球が心配になる。去年の夏もめちゃくちゃ暑くてさ。蝉が鳴かないのも当たり前になってる。ゆっこもカナダで山火事にあって大変だったって。あ、ゆっこね、永住権取れたんだよ」


 わたしはいったん、ことばを切る。


「君のお父さん、亡くなったんだ。去年の年末だった。秋に会いたいって言われて、病院に行ったよ。『すまなかった』って謝られた。


それから、君の話を聞かせてくれって言われた。だから、いろいろ話したよ。東京での君がどうだったか。一緒にどんなところへ行ったとか。写真もいろいろ見せた。わたしも途中で泣いちゃって、お父さんも泣いていたな。


でも、うれしかった。誰かと君の思い出をシェアできたこと。君はお父さんによく似ているね。こう言ったら嫌がるかな。そういう人に会えたのも、うれしかったんだ、わたしはね。


お父さんのお葬式にも参列させてもらったよ。もう向こうで会えた? 君にも謝りたいって言ってた。君が許すかどうかは別の話だと思うけど、わたしは会えていたらいいなって思う」


 彼女と、彼女とよく似た父親がいっしょにいるところを想像する。


「わたしも、いつか、そっちで君に会える?」


***


「こんにちは。そっちはどう? ジョンやお父さんは元気? 元気も何もないか。こっちは、すごいニュースがあるんだ! 法律ができたんだよ! 同性同士でも結婚できるんだよ。どんちゃんとかフミとか、アヤトとかみっちゃん……は、君は知らないか。ゆっこに呼ばれてバンクーバーのプライド・パレード行ったときに知り合った子。今度紹介したいな。とにかくみんなで抱き合ってお祝いした。どんちゃんとフミは来月、婚姻届けを出すんだ。君のお母さんも電話をくれたよ。泣いてた。『もっと早かったら』って言ってくれたんだよ」


そのときのことを思い出すと、胸が詰まって涙で視界がくもる。そういえば、いつからかストップウォッチは使わなくなった。わたしは息を大きく吸い込む。ここ最近、ずっと考えていたこと。そして、心を決めたこと。


「今年のお墓参りのときに、お母さんにこの電話のことを話したんだ。そしたら、電話代なんて払ってないって。これ……ひょっとして、わたし、ぜんぜん知らない人の留守番電話に吹き込んでいたのかな。もしそうだったら、ごめんなさい」


わたしはちいさく息をつく。


「わたしにとっては、この年に一回の電話が、すごく支えになっていました。とくに君……えっと、わたしの大切なひとが亡くなって何年かは、一年に一回、この電話だけが法事がわりっていうのかな? 区切りだったんです。お葬式にも出ていないし、お墓も知らなかったし。だから、もしこれを聞いているのが知らない誰かだとしたら――。だまって受け止めてくれていたこと、感謝します。ありがとうございました」


一度唇を引き結んでから、つづける。


「この電話は、今年で最後にします。いままで、ありがとう。ほんとうにありがとう。わたしはもうだいじょうぶ……かな。まだ自信はないけど。いつかそっちに行くときは、たくさんお土産話ができるようにする。がんばるから、心配しないでください。じゃあ。君なのか、知らない人なのかわからないけど……どうか、どうかお元気で」


 そうしてわたしは十年ではじめて、自分で通話終了ボタンを押して、録音を終えた。

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3分間と10年間 丸毛鈴 @suzu_maruke

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