フライト・アゲイン

諏訪野 滋

フライト・アゲイン

「サンキュー・ソーマッチ、フォー・ユア・アテンション」


 聴衆の清聴に感謝したつもりの俺の締めくくりの言葉は、かえって広大な会議場内を沸かせていた。三年間の海外留学での研究成果をまとめた、今日のアナハイムでの学会発表。脳神経回路の活性化に関連するゲノム解析という題材は、あらゆる国の臓神経学者にとって現在最もホットな話題であり、演壇を降りた俺はしばらく握手と質問攻めに対応することに追われなければならなかった。


 元来人混みが好きではない俺は隙を見て早々に退散すると、コンベンションセンターの自動ドアを潜り抜けて道路を渡り、大きな噴水の近くの階段に腰を下ろした。ネクタイを外してワイシャツのえりを緩めると、夕暮れの乾いた風に喉をさらす。


 ずいぶんとわがままを言って、ここまで来てしまったな。俺はようやく、研究者としていわゆる人並みの成功って奴を手に入れようとしている。先月には、ワシントンの大学からも教授就任要請のオファーが正式に来た。夢は、かなったはずだった。

 今ならばきっと、あいつに別れを伝えることが出来る。元からそういう約束だったのだ。

 俺は空になったコーヒーの缶をわきに置くと、スーツの内ポケットから携帯端末をとりだし、この国に来てから一度も呼び出さなかったアドレスを画面に表示させた。


「研究生活、今日で終わったよ。ずっと、ありがとう」


 結局、大切な一言は文面に入れることが出来なかった。

 サヨナラ。


 俺は送信ボタンを押してしまってから、あ、と額に手を当てた。アナハイムが午後五時ってことは、東京はちょうど真夜中の零時か。

 三年ぶりだってのに、とんだイタズラメールになっちまったな。

 俺はため息をつくと、絵葉書のように黄金色に染まるカリフォルニアの黄昏を見上げた。




恭也きょうや、どうだった? アメリカへの留学、決まったのか!?」


 ラボから帰宅するや否や、キッチンから飛び出してきたわたるが駆け寄ってきた。俺はわざとしかめ面を作った後で、奴におもむろにピースサインを返す。不安げな表情だった航は、ぱあっと顔を輝かせると、エプロン姿のままで俺に両腕を回した。


「マジか! やったな恭也、すげえよ。まあ、あれだけ徹夜で研究してればなあ」


「おい、少し離れろ。スーツがしわになる」


 ごめんごめん、と頭をかいた航は俺を開放すると、ほっとしたように腰に両手をあてた。


「それでも留学するための審査、結構厳しかったんだろ? 昨日までのお前、めっちゃ暗い顔してたぜ。自分でそれ、知ってる?」


「そうだったかな。だがまあ、おかげさまで余裕でクリアだ。去年発表した論文のインパクトファクターが高かったからな」


「インパクト……何?」


「ああすまん、航。インパクトファクターってのは、自分の論文がどれだけ他の研究者に引用されたかを示す指標って奴だ。こいつが高いと、その分野で影響力があるっていう証明になる」


 ふむ、と航は要領を得ない表情でうなずくと、すぐに笑顔に戻った。


「要するに、インフルエンサーになっちゃったってことかな。悪いね恭也、俺ってば厨房ちゅうぼうでパスタゆでるくらいしか能がないからさ。お前がどのくらい凄いか、わかってやれなくて」


 そう言いながら航はキッチンに入るとすぐに戻ってきて、テーブル越しに平皿に盛ったペペロンチーネを差し出した。すまんな、と言ってそれを受け取った俺は、一口入れてうなる。


「お言葉だが、お前さんのパスタは、俺が二週間徹夜した論文の百倍は価値があるよ。お前と俺、どちらが最終的に人類に貢献したか。それはたぶん、お互いが死んだあとじゃないとわからないぜ」


 航はシェフをやっている。日本では料理人のことを総じてシェフと呼んでいるが、本来は総料理長の意である。そして航は実際に一流ホテルの総料理長を任されていた。だから医学博士の俺と比較しても、決して卑下するような立場ではない。厳密にはシェフはフレンチの料理長であり、彼はイタリアンなのでカポクオーコと呼ばれるべきだが、それはこの場ではどうでもいいことだろう。


 航は自分も対面に座ると、フォークを振りながら言った。料理人の割にはあまり行儀よろしくない動作ではある。


「冗談きついよ、まったく。その世界的な医学博士様が、何だって俺なんかと一緒に暮らしているんだか」


「おいおい、それは何度も言ったはずだろ。職業に貴賎きせんなし、俺たちはお互いに尊敬しあっているし、なんだ、その……」


「わかってる。一緒にいたいのに理由はない。いつも恭也が言ってるやつ、それだろ?」


「まったく。お前は恥ずかしいことを、はっきりと言ってくれるよ」


 始まりはなんてことはなかった。航の弟は脳性まひで、車いすを誰かに押してもらわなければいけない身体だった。ある日、彼のいる施設が旅行を催すことになり、俺はバイトで医師として彼らに同行することになった。そこに来ていたのが、兄の航だった。

 みんなで一緒に遊園地を回った後、お礼にと航が自宅に招待してくれた。奴がシェフだと知らなかった俺は、航の料理の腕に降参の意を示した。


 そしてお互いのマンションを行ったり来たりしているうちに、まあ自然にそうなったというわけだ。疑問になど思ったこともない。心許せる相手に出会うなど、一生のうちにいったい何人いるだろうか。俺は自分の肉親にすら、そのような感情はついに持てなかったというのに。俺はチャンスを逃したくはなかった、今までずっとそうやって生きてきた。


 ただ、航には悪いことをしているのではないかという思いが、ふとした時に俺の心に影を落とした。父親を早くに亡くし、母親と病気の弟と三人で暮らしてきた奴は、いつも優しい。自分も忙しい身でありながら、いつ訪ねてくるともしれない俺のために部屋を掃除し、食事を絶やさず、そして俺の夢をずっと応援してきてくれた。だが、俺は航に何一つ与えられていない。

 そして俺のアメリカ行きが決まった、今になっても。


「なあ、航。お前もアメリカに……」


 続けかけた俺を、航はいつになく厳しい目でさえぎった。


「それは付き合い始めた時からわかっていたことだろ。恭也にはアメリカに行ってそこで働く夢がある。俺はそんなお前が、好き、なんだよ」


「なら」


「だけどな、俺の幸せはきっとアメリカにはない。そりゃあ向こうは、俺たち二人にとってはいいところだろう。二人だけ、ならな。アメリカなら、男性が二人で同居できるようなマンションが、そこら中に当たり前に転がってるだろうさ」


 俺はため息をついた。お互いの部屋をこうして行ったり来たりしなければならないのも、同性での同居に、訪ねた不動産屋がことごとく難色を示したからだ。

 だが、俺たちの根本的な問題はそこにはなかった。


「やっぱり、おふくろと弟が気になるんだよ。ほら、付き合い始めて間もない時のこと、覚えてるか? 肉親だって他人だろ、って恭也が言った時、俺たち初めてつかみ合いの喧嘩したよな。あれ、今では本当に悪かったと思ってる。お前にはお前なりの家庭の事情があったのにな」


「いや、俺も悪かった。あの時は」


 俺はソースの残った白い平皿をじっと見つめた。今まで俺からはいろいろなものがこぼれていったが、それでも残ったものはあった。


「航が、うらやましかったんだよ」


 しばらくの沈黙。

 やがて、航がうつむいたまま言った。


「アメリカなんて行くなよ。俺のそばに、ずっといてくれ」


 俺は初めて聞いた。いつも俺のことをづかってきた航の、心の底からの望みを。


 いつも笑顔を絶やさないお前に、俺がどれだけ救われていたか。そしてそれに応えることが出来ない自分は、なんと身勝手なことか。もちろん知ってたよ、航の気持ちは。そしてお前の言う通り、いつかこうなることはわかりきっていた。それでもお前と別れられずにいた俺はずるい奴だ。本当なら、お前と付き合う資格などないのに。


 航は急に席を立つと、二人分の皿をキッチンに運び始めた。シンクに食器を下ろしながら、奴は朗らかに笑う。


「なーんてね、ちょっと言ってみただけだよ。せっかく持っている能力を使わないなんて、社会の損失。人類のためだからな、俺は恭也を独り占めしようとは思わないよ」


 俺は、上手に笑い返すことができた、と思う。

 今までの俺たちに、嘘はなかった。俺にも捨てられない夢があるように、航もここでの幸せをつかむ権利があるはず。


「大袈裟だな。研究って、絶対成功するもんじゃないんだぜ。むしろ失敗の連続、一の成功には百の失敗が隠れてる。研究者なんて言ってみればギャンブラーだよ、国破れて山河あり、って奴さ。泣いて帰ってきたら、お前の極上のイタリアンで慰めてくれるかい?」


 はは、と笑った航は、皿を拭いていた手を止めて俺を見た。


「でもさ。もし、もしもだよ。アメリカでうまくいったときは、きちんとした返事をもらえないかな。研究生活、三年もあるんだろ。そのくらいあれば、俺も心の整理がついていると思うからさ」


 俺は黙って立ち上がると、航の肩を抱いた。寂しげに笑った航は静かに横に首を振ると、ゆっくりと俺の身体を押し戻した。


「そろそろ俺たち、独りでいることに慣れていかなきゃいけない時期なんじゃないかな。俺、今日はソファーで寝るからさ。恭也は俺のベッドを使いなよ」


 俺は口をとがらせると、航の寝室からマットと毛布をリビングへと運び出して、それらを敷いた。


 「研究者めるなよ、ラボの床で寝るなんて日常茶飯事さ。お前のほうこそソファーで寝な、家主の特権だろ」


 航は苦笑すると、自分も毛布を運び出してソファーの上にくるまった。




 飛行機の分厚い窓ガラス越しに差す陽光のまぶしさに、俺は薄目を開けた。白い雲海の上はさえぎるものもなく、快晴だ。


「……現在、フライトは順調に運行中です。羽田空港には、ほぼ定刻通りの到着を予定しております。現地の天候は晴れ、気温十五度。まもなくシートベルト着用のサインが点灯します……」


 寝起きの俺は軽く頭を振ると、キャビンアテンダントにオレンジジュースを注文した。

 夢か。いや、昔の記憶だな。カリフォルニアと東京の十七時間の時差がそうさせるのかもしれない。体内時計と記憶との間に何か関連があったかな、サイトカインが共通しているのかもしれない、などと俺はとりとめのないことをぼんやりと考える。


 アメリカの大学の教授就任祝いに企画された、東京での凱旋がいせん講演。だが、とても凱旋という気分ではない。時差を体感するたびに航のことを思い出してしまうのならば、いっそのこと、今後はもう日本には戻らない方がいいかもしれない。帰国、とういう言葉がこれほどむなしく感じるのは、自分以外の誰のせいでもなかった。


 だが。


 スーツケースを引いてゲートをくぐり抜けた俺は、視線を感じて振り返った。数多くの出迎えの人々で混雑するロビーの中で、独りでたたずんでいる彼のことを、見間違えようもなかった。


 がたり、とスーツケースが倒れる音が堅い床にこだまする。

 駆け寄る俺の肩に手を回した奴は、俺の欲しかった言葉をくれた。


「お帰り」


 航の頭を抱えた俺は、声を殺して泣いた。




「どうです、お客様。築年数も浅いですし、お二人で住むにはぴったりじゃないかと」


 不動産屋の女の子の案内で、俺と航は共同住宅の内見に来ていた。


「どうかな、航。少し広すぎやあしないか?」


「部屋が多いに越したことはないよ、恭也。お客さんが来たときなんか、泊まっていったりしないとも限らないしさ」


「おい、客っていったって…」


 航は部屋の間取りを確認するふりをしながら、ぼそりとつぶやいた。


「あのさ、恭也。よかったら、うちのおふくろと弟に会ってやってくれないかな。もっとも弟とは二度目だろうけれど、おふくろにも紹介しときたいし」


 へ、と素っ頓狂な声を上げた俺は、慌てて口を押えた。


「マ、マジかよ……緊張、するな……」


 そんな俺たちを、制服姿の女の子はにこにこと見ている。俺はばつが悪い思いで、恐る恐る彼女に聞いてみた。いくら今時だからといって、男同士のカップルはさすがに見慣れてはいないだろうから。


「あの、君さ。ちょっとやりにくいかもしれないなって、ごめん。それで最初に言ってなかったけれど、実は俺たち二人で住もうって思っていて……」


 いやいや、と顔の前で手を振った女性店員は、可笑しそうに笑った。


「全然かまいませんよ、お客様。それどころか、私もと一緒にこのマンションに住んでいるんですから。だからこうして、私がこの物件の担当を任されているってわけです」


 これには参った。アメリカが夢の国だったのは、もう過去のことだったんだな。

 一人の脳神経外科医として初めから臨床をやり直すのも、それはそれで悪くない。奴のイタリアンの味は、俺に教授の椅子を蹴飛ばさせるには十分だ。


 俺は小さく首を振ると、俺たちの新しい住処になる部屋の窓を大きく開けた。


 この小さな街でだって、もう一度飛べるさ。

 航、お前と一緒ならな。

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