8-8.「There is always lights」⑧(一章最終回)


 まるで何かの契約のように言ってしまったけど、何もつり合っていなかった。

 結局戦うのはこの子だ。俺は安全なこちらの世界でいつも通り、そしてディアナと一緒に暮らすだけ。

 結局、ディアナとは離れないという話で。

 この子が俺に恩を感じることも変わらなかった。


 なのに俺を見つめるディアナの瞳は、少しずつ輪郭を確かにして、光を持っていって。


「いいのか……?」


 ……それは、まるで何年も好きだった人から愛してるとでも言われたような顔だった。


 たしかに根っこのところは一緒だったのかもしれない。とてもとても、歪んではいるけれど。


 少し遅れながらも頷くと、彼女はさらに感情で一杯一杯なような、でも反対に感情が動かなくなってしまったような、呆けた顔をした。


「――じゃあ、私が魔神を倒したら?」


 その顔のまま言うから、どういう感情なのかわからなかった。

 声は、ただ純粋に疑問に思っているようだった。

 けれどいまいち、その疑問の意味はわからなくて、


「私が魔神を倒したら、イチノスケは、私をどうする?」


 ――君が魔神を倒せるように、


 だったらそのあとは?

 ……もし、頑張って頑張って頑張って、ようやく成し遂げたら、それで全部おしまいなのか?


 そんなわけはない。


「君が、望むように。そのままウチに住んでくれてもいいし…………でもそれは、君が、俺の支えがなくても、大丈夫になってからの話だよ。そうなった後なら、君はウチに留まる必要もないわけだから、本当に好きに、望むようにすればいい」

「――私が望んだら、イチノスケは私とずっと一緒にいることを、望んでくれるのか?」


 知らない間に俯いていたところを、ディアナがぐっと覗き込んできた。

 期待に満ちた顔があった。

 緑の中の瞳孔まで見えてしまう距離に。


「君が、そう望むなら」

「では、私がもし世界を救えなかったら?」


 頑張っても頑張っても、成し遂げられなかったら。


「同じだよ。君が望むなら、一緒にいる。支えるよ」


 そうすんなり答えてしまっていたのは、やっぱりこの子の魔性なんだろうか。

 けどそれが支えるということで、だから俺はずっとこの子を助けられなかった。

 俺はもう、支えることに決めていた。


「……そうか。それは、すごくいいな」


 でもどうなんだろう。いいのかこれで。

 どちらにしたって、これからこの子がたくさんたくさん苦労するための理由を、そんなものにしてしまって、本当に?


「今なら、戻れるかもしれない」

「……え?」


 とか、俺はまた迷っていた。

 だから反応が遅れてしまった。


 その間にディアナは立ち上がって、海の方を見つめていた。

 ゆるい風が、遠くを見つめる彼女の前髪を揺らしていた。


「ちょ、ちょっと待って! え、え? ……今、帰るの?」

「ああ。なんだか、今なら大丈夫な気がするんだ」


 振り返ったディアナは、なぜだか本当に頼もしく見えた。

 登った日の光と潮風を浴びて、彼女はまばゆくきらめいていた。

 初めて見る彼女だった。

 これが彼女の、勇者としての一面なのかもしれなかった。


「で、でもそんな……それだけで?」

「それだけ、じゃない」


 振り返った真剣な顔の横では、聖剣が真っ白に輝いていた。


「自覚がないイチノスケに、言っておく。自分を全く信じられなくなって、何もできなくなっていた私を、私の戦う理由を、見つけて、信じて、理由にそのものになってくれて、私が、どれだけ救われたか。……ああ、結局上手く言えないが、とにかく、イチノスケが今言ってくれたこと全部が、私は、本当に嬉しかったんだ」


 けれど、それ以上に。


「全部終わったら、イチノスケも私も幸せになれるなら、私はきっと戦える」


 ……けれど最後の一言だけは、とても幼く見えてしまって。


「なんで」


 そこまで言って、なんとか止める。

 なんで俺なんかを、そこまで良く思ってくれるのか。そんなことこの子に訊いてどうする。何を言われたって俺は素直に認められないくせに。


 今は。

 一度は寄りかかろうとしていたことを自覚して、自分を責めた彼女が、また頼りにしてくれた。

 それで大丈夫だ。

 あとは頼りになれるような俺で、あればいいだけなんだ。


「……にしてもなんで、そんな急かなぁ。せっかく今日、一日休みとったのに」

「そ、そうなのか? それは、本当にすまない。……だが、やっぱり思い立ったときに動かないと、決心が鈍ってしまうと思ったんだ。その、私は弱いから」


 自嘲だけど自責ではない。

 それは少し歪だけど、目に見えて明るくなった、いい笑顔だった。


「いいよ、許す。でも、いつでも戻ってきていいからね」

「む、あまり、揺らがせないでくれ。……だが、そうなると思う。ときどき帰ってくる」

「うん、そうして」

「……その、もしすぐに戻ってきてしまっても、笑わないで欲しい」

「笑うわけない。本当に、好きに帰ってきたらいいよ。……その、平日とかは、ちゃんとは迎えてあげられないかもだけど、これからも出来るだけ冷蔵庫に何かあるようにしておくから、好きに食べて、ちゃんとお風呂も入って、あ、ご飯も俺の分とかは気にしないでいいから、とにかくちゃんと休んでくれたらいいから。そうだ、来るときは、もう直接玄関にテレポートしてくれたらいいよ。その格好で――って、そういえばディアナ、今って普通に見えちゃうんじゃ」

「あっ、だ、大丈夫だ。今はイチノスケにしか見えないようにしている。一応、イチノスケも、私にしか見えないようになっている。だが心配しなくても、周りに人はいないみたいだ」

「そっ、か。よかった……ん? そういえば、なんだけどさ、ディアナっていつから俺が来たこと、気付いてた?」


「……えっと、電車を降りたところ、から」


「……マジか。…………マジかぁ。すごく、カッコ悪いところを」

「い、いや、そんなことはない。走ってきてくれたことも、名前を呼んでくれてことも、すごく嬉しかった。転んだところは、すごく心配してしまったが……イチノスケ?」

「ちょっと死にたい」

「え、な、なんでだ⁈ ダメだ、絶対に死んじゃダメだ!」

「ごめん。絶対に死にません。大丈夫」

「え、え……? で、でも、そうしてくれ。……そうだ。戻る前に、イチノスケに魔法をかけていいか?」

「え。ど、どんな?」

「それは……その、防御系統の魔法だ。色々な災いからイチノスケを守るための、たとえば、強い衝撃や、体の異常を解消する魔法だとかを、さらに十、いや二……念のため、各五十回分ほど」

「いや多いな。それ、ディアナの負担にはならないの?」

「……少しだけ。だが本当に大丈夫だ。しばらく息が上がる程度だから」

「あと今『さらに』って言った? もしかして俺、もうすでにかけられてる?」

「…………すまない。ときどき、こっそりかけていた」

「……。まあ、ディアナがそれで安心できるならいいよ」

「ほ、本当か! ありがとう、イチノスケ!」

「どう考えてもお礼を言うのこっちなんだけどね」


 俺が笑うとディアナもまた嬉しそうに笑った。


 ――そうして、ディアナの両手から例の光る毛糸の塊が次々と現れて、それが俺の体にするすると入っていって、さっきの俺くらいに荒くなったディアナの息が落ち着くまでの十分ほど、二人でぽつぽつ喋りながら砂浜を眺めたあと。


「では、戻る」と、彼女は立ち上がった。


「もう大丈夫?」

「ああ。すまない、心配をかけた」

「いいよ別に。よっ、と」

「あ、あの、万が一失敗すると、転移魔法は危ないから、イチノスケはここで待っていてほしい」


 何も考えずに見送ろうとついて行きかけたが、そういえば危ないからディアナは海を選んだんだった。


「じゃあ、ここでお別れだね」

「ああ」


「お別れ」に反応したのか、ディアナは少し表情を固くした。

 けれどすぐに大きく息を吸って、笑顔を俺に向ける。


「本当にありがとう、イチノスケ。貴方は私の、一生の恩人だ」

「……大げさだよ。でもこっちこそありがとう」

「たくさん、迷惑をかけた」

「こっちこそだよ」

「さようなら、イチノスケ」

「うん、さようなら。……またね」

「……ああ、また」


 ディアナは最後まで笑顔だった。俺は上手く笑えていただろうか。

 海の方へ歩き出したディアナは、もう振り向かない。

 まっすぐまっすぐ迷いのない足取りで歩いていって、波打ち際でぴたりと止まった。


 彼女が手を前に出したのがなんとなく見えた。

 さっきの魔法よりも大きい、一メートルほどの光の塊が彼女の前に現れた。そのまま浮かび上がっては、また新しいものが現れて、浮かんで、また現れて、浮かんで。

 そうして浮かんだ五つの巨大な光の塊が海の上で五角形に並んで、回り始めて、青い円になりながら、少しずつ縮んでいって。


 突然輝きを失ったそれは、ちょうどディアナを一口で飲み込めるほどの大きさの、真っ黒で枠が安定しない楕円に変わった。


 ……ディアナがあの穴の先に踏み出してしまえば、次はいつ会えるかわからない。


 何か伝え忘れたことは。

 本当にこれでよかったのか。

 あの子は本当にまた戻って来れるのか。

 衝動で動きそうになる脚を、なんとか押さえつける。


 彼女は最後に一度、ちらりとだけこちらを振り返った。

 けれど何をすることもなく、海の上に浮かぶ黒い穴に向き直って、



 ――突然頭の上の糸を切られたように、その場へ座り込んでしまった。



 すぐに走り出していた。また彼女の名前も叫んでいたと思う。


 駆けつけると、呆然とした顔で真っ暗な渦を見つめていたディアナは俺を見上げて、少し笑った。


「すまない。まだダメだった」


 笑った顔に、一粒、また一粒と大きな涙が流れ始めた。


「いいよ、よく頑張った」


 気づくと俺はそう言って、彼女の頭を肩に抱き寄せていた。

 そのままディアナは、顔を俺に押し付けて大声で泣いた。


 ――そうだ。


 結局俺たちは弱い。何かがわかったってそれは変わらない。

 何かがわかったって、わかってたって、人は簡単には変われない。


 けれど。

 逃げたって、諦めたって、殺したいほど自分を嫌いになったって、

 俺たちは自分から逃げることはできない。

 自分の欲望から逃げることはできない。


 だったら。

 逃げるというのは、ただの現在の選択だ。


 だから今は、俺と一緒に逃げてしまおう。

 きっと大丈夫だからさ。

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社畜と勇者は逃げだせない 橋月 @hashikarasu

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