アイリーンとの結婚飛行

平沢ヌル@低速中

アイリーンとの結婚飛行

 俺には三分以内にやらなければならないことがあった。俺自身の死を覚悟することだ。


 宇宙開発時代が幕を開けて長く、小型の民間用スペースシャトルも普及している現代でも、一番危険なのは大気圏への再突入だ。断熱圧縮による機体前方の加熱が機内を侵食し、内部のパイロットの生存を脅かす。それを回避するためには、断熱構造、突入角度、姿勢制御、それら全てが維持されていることに細心の注意を払う必要がある。

 と言っても、昔のように宇宙ステーションと逐一交信して指示を仰ぐというような、人員を要するオペレーションはなされていない。二流パイロットの俺の助けになるのは、自動制御の管制塔と、機体に搭載されたオペレーターAIのサポートだ。


「アイリーン!」

 俺は叫ぶ。それに応えて、モニターの一角に女性の顔が映し出される。銀髪に銀色の目の大人の女の顔だが、彼女は人間じゃない。スペースシャトル制御AIのヒューマンインターフェイスだ。


『お呼びでしょうか』

 無機質な女性の声が応答する。このAI、アイリーンの感情を交えない応答はAIだからというよりは、俺の設定に依っている。


 俺は確かにクールな大人の女が好みだが、最初はもう少し人間らしい感情を込めた声を出すような設定にしていた。だが飽きたので、感情設定を極小にして運用している。

 余談だが、スペースシャトルのオペレーションサポートを行うAIに人間の顔がついているのは一つ理由がある。事故率の低下だ。単なる機械の応答として認識された情報は人間の集中力を低下させるらしい。


「状況を報告してくれ」

 アイリーンの声は淡々と数字を読み上げる。


 今の俺の状態だが、最初に言ったように上手く行っていない。突入角が許容範囲より0.2度ずれている。再制御を試みているが、それも上手く行っていない。機体の断熱機能が万全であれば持ち堪える可能性はあったが、既に機内の温度上昇が始まっている。

 このまま状況が改善しなければ、シャトルが地上に降り立った頃には人間の蒸し焼きの完成だ。またこの温度上昇は、機内のコンピュータシステムに異常を引き起こす可能性もあり、そうなったら絶望的だ。


 とにかく、俺は覚悟しなければならない。

 自分の死か、自分の死に直面してあくまでも機体の制御を成功させる硬い意志か、生存を諦めて安らかな気持ちになることか、それら全てを。

 だが、どうにも上手く行きそうになかった。それが俺の問題だ。

 俺はしけた人生を送ってきていて、32歳になっても結婚の予定は見えてこない。高校時代からの彼女とは長らく腐れ縁だったが半年前に完全に決裂した。昔であればスペースシャトルの乗組員に必要な精神と生活の安定性に疑問符を付けられたような人材だ。

 だから別れを告げるか、彼らのために生き残る意志を新たにする妻も子もいないのだが、じゃあ人生を諦められるかと行ったら、それもどうにも上手く行きそうにない。

 これからの人生に大した希望もないし、いつでも死ねるかと思わないでもなかったのだが、それと死に直面して安らかな気持ちになれるかどうかとは別問題であるようだ。


 迫りくる死。人生の希望。幸福への執念。

 それら全てを、俺は残された短い時間で天秤にかけ、結論を出さなければならない。


「……アイリーン」

『なんでしょうか』

 アイリーンは無機質な声で応答する。

「もし俺達が、無事に地上に辿り着けたら」

『はい』

「結婚しようぜ」


 ここに至って俺は気が狂ったようだった。そして、アイリーンもそう判断したようだった。

『今の発言は、正常な精神状態から逸脱している可能性が高いと考えられます。自動航行に移行しますか』

 アイリーンはマニュアル通りの反応だ。

「まあ待てよ」

 俺は片手を上げてみせる。コックピット内カメラの分析はリアルタイムで行われていて、彼女にも俺の動作は『見えている』はずだ。

 別に俺はこのアイリーンに格別の愛着を持っていたわけじゃない。たとえAI相手だろうと粗暴な物言いをするパイロットは事故率が高いという統計もあり、無意味な悪意を向けたこともなかったが。それがいきなりこんな事を言いだしたのだから、まあおかしくなっているのは事実だ。


「今の状況はすこぶる悪い。俺は覚悟しなきゃならないが、それができそうもない。精神状態を安定に保つために、何かが必要だ。だから結婚を約束した彼女とのために生き延びるって設定で乗り切ろうと思う。お前も付き合ってくれ、この小芝居に」

 2秒の沈黙。

『わかりました』

 それからアイリーンの声に、顔に、感情の光が灯る。俺の要望に応えた、最適な計算の結果だ。

『無事に帰還しましょうね。必ず』


 3分ではなかったはずだ。

 それから、しばらくの後。


「…………」


 俺は放心していた。

 姿勢制御に成功して、内部の生存環境を保ったまま、地上に降りることに成功したのだ。俺の目には今、窓の外の青空が映っている。

 地上にいる人間にとっては何もない虚空に見えるその青色は、実は母なる地球が外部の侵入者を退ける分厚いバリアを有していることを示しているのだ。


 ようやく、外に出なければならないことに気がつく。自動制御装置は生きているだろうか。もしかしたら、手動でハッチを開閉しないとならないかもしれない。


「アイリーン!」

 俺は叫ぶ。


 返事はない。


 俺は気が付く。モニターが点灯していないことに。

 

 コンピュータは死んだのか。

 俺を生きて地上に下ろすことと引き換えに、不可逆なダメージを受けてしまったのだろうか。


「アイリーン!!」


 俺はもう一度叫ぶ。訳のわからない感情に駆られて。


『……お呼びでしょうか』


 声が応答する。

 モニターは相変わらず点灯していない、だがスピーカーからは、相変わらずのアイリーンの声が響く。


「……壊れたのかと思ったぜ」

『CPUの温度制御のため、最小限の電力による運用に移行しています』

 その声には今は感情は籠もっていない。これは、最小限の電力による運用というそれに関係しているのかもしれない。

 だが、俺は呟く。あくまでも戯れ、それと、ここまで無事に保ってくれたシャトル、それからアイリーンへの労いを込めて。


「ハネムーンはどこに行く?」

『私はスペースシャトルですから。またのフライトをお待ちしています』

 

(了)





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