HOPE

かわず

HOPE-序章-

「俺のちんちんはすっげえ右に傾いてるからさ、思想くらいは左寄りじゃないと...なんて思ってこの活動さしてもろうてます」


何を言っているのだろうか。壇上に立つ、ネイビー色のコートを羽織る男はわけのわからぬ話を続ける。


「俺、もうめっちゃオナニー好きで、毎日朝晩やっとるんやけど、普通のオナニーじゃイケんくなってもうて」


僕は今、左翼集団「セックス解放戦線」の講演会に来ている。


「あ、俺右利きなんやけど、すんげえ力入れるもんやから、ちんちん、右に傾いちゃってんのよね」


もう数十年もすればこの国は滅びる。僕が生れるちょうど五十年前、セックス禁止法が発令され、この国の人口は減少の一途をたどるばかりであった。

そのきっかけとなった、人間が生まれてくること自体を否定する思想「反出生主義」も、今から二百年ほど前までは異端と呼ばれていたらしいのだが、僕らはそのことを知る由もない。

昔の人は何を考えていたのだろうか。

確かにセックスをすることで得られる快楽もあるというが、その一時的な快楽によって新たな悲劇が生れてしまう可能性があることを考えられなかったわけではないだろう。

生きていくことは不幸の連続である。これは不変の真理であり、いつの時代であろうと変わらない。

そのような悲劇を引き起こそうとするこの群衆が、僕には理解できなかった。



「一応、この人がリーダーらしいんだけど、私もこの人のことはよくわかんないの」

右隣で拍手をしている小南さんは囁くようにそう言った。

手を叩くたび、黒く光る前髪が波打つように揺れている。

そんな美しい前髪と理解不能な思想を併せ持つ彼女に、僕は惚れてしまっていた。

今回、世間から「猿」と揶揄されているこの異端集団の講演会に参加したのだって、彼女に連れられてのことである。

彼女が何故、こんな集団を支持しているのかはわからない。

この世に生を受けてしまった以上、どう足掻こうとも不幸から逃れることはできないため、自暴自棄になっているのだろうか。そうであるなら理解ができる。

そしてそれは僕も同じであったのだろう。

僕は、彼女とともに活動に参加することを決めた。




小南さんが彼らを指示していた理由は、その後すぐに判明した。

彼女は、セックスをしていた。


「小南さんが一番分かってるんじゃないんですか?この人生の空虚さを。なんで...」

僕には彼女がわからない。

「違うの...聞いて、二木くん」

縋るような瞳と風が吹けば消えてしまうのではないかと思えるほどの弱々しい声。

「避妊具つけてましたって言いたいんでしょ。でもね、それでもゼロにはならないんですよ、またどこかから悲劇が生まれてしまう」


悲劇とは、二人の男女による一時的な快楽の絞滓のことである。

僕の父は僕が生れる前に死んだらしく、残った母も犯罪者として逮捕された。僕は孤児として幼少期・少年期を生きてゆくこととなった。

「反出生主義」の理想は新たな人生という名の悲劇を生まないことであり、決して生まれてきてしまった者を迫害するようなものではない。

しかしながら、どうしても僕らは非難の目で見られ、差別的な扱いを受けることも少なくはなかった。

そんなときに僕を救ってくれたのが小南さんだった。

「辛いよね...辛いよね...」と肩をさすってくれた。ともに泣いてくれた。抱きしめてくれた。

彼女が一番わかっているはずなのだ。

風の噂で聞いたことがある。彼女の両親はしっかりコンドームを装着していたと。それでも悲劇は生まれた。

それなのに。


「避妊具は、つけてない...」

言葉の意味は、わからなかった。

それよりも、先ほどの声の主とはまるで別人に感じられる、小さくも力強い声に気圧された。

遅れて言葉の意味が脳内を駆け巡る。

「これは快楽を得るためのセックスじゃないの」

彼女は続ける。

「私は自分の親が憎かった。快楽を得るためにセックスをして、避妊に失敗して、私を地獄に生み落とした。生んでくれなんてたのんでないって何度も思った。生れてこなければよかったなんて何度も嘆いた。でも...」


バンッ


銃声が鳴った。

彼女の言葉を遮るように。

僕を現実から逃避させるように。



最後の戦争がはじまった、らしい。

僕にはわからない。

ただただ目まぐるしく動く人や物を眺めていた。

目の前で人が撃たれ、何人かが死んだ。

敵が死んだのか味方が死んだのかはわからない。

そもそも僕自身がどちら側なのかすらわからない。

僕にはわからない。

何もわからない。

僕の両親は何を想い、セックスをしたのだろうか。何を想い、僕を生んだのだろうか。小南さんは何を想い、セックスを、あの日僕を抱きしめてくれたのだろうか。僕に何を伝えようとしてくれていたのだろうか。

何一つわからないまま、僕は人の波に押し流されるように、暗い防空壕の中にたどり着いていた。




防空壕の中には僕ともう一人、見覚えのある人影があった。

「おまえは!さっきロビーでコナンちゃんと痴話喧嘩してた少年!」

防空壕の中だから声が反響しているだけか、ただ単にこの男の声が大きいだけか、そこにいたのは、あの日壇上でわけのわからぬことを永遠と話していた「セックス解放戦線」のリーダーであった。

「はぁ...」

コナンちゃんとは小南さんのことだろうか。そもそも僕らがしていたのは痴話喧嘩ではない。小南さんには彼氏がいて、それは僕ではないのだ。


「さっきは残念やったなあ。でもまあそうしょげるなや」

男は少年漫画の主人公よろしく、僕の背中をバンバンと叩く。

「いや、別にそういうのじゃ...」

「ええよええよ、隠さんでええよ。たとえ罪を犯すことになっても好きな女の子とセックスしたい、素敵なことやん」

違う、僕はそんなこと望んでいない。

セックスさえしなければ、生まれてこさえしなければ人は苦痛を味わわずに済むのだ。


「あなたはどう思ってるんですか?」

活動に加わるようになって、様々な構成員の人たちの考えを聞いてきた。その多くは、ただセックスがしたいだけという浅はかなものであったが、この男の考えていることだけは、あの講演会の日から未だにわからない。

「どうってなにをや?」

「セックスについてです」

「あー、俺わからんねん。したことないから」


数秒、時が止まった。

ようやく動き出した脳で、止まっていたのは時ではなく思考だと理解するまでにもう数秒かかる。

「じゃあなんでリーダーなんか...」

たとえ脳が動き出そうとも、しばらくの間ぽかんと開いていた口をすぐに動かすことは難しく、やっとのことで吐き出した言葉も、空気に触れた瞬間に蒸発して消えてしまう。


「俺にも好きな人がおったんよ」

男は恥ずかしそうに笑いながら鼻をさすった。

この人は、本当に漫画から飛び出してきたのではないかと思わせるような仕草を自然にやってのける。

「ただまあおまえと一緒でその人にも彼氏がいてな、それ知ったときはそりゃもうめちゃくちゃにショックやったんよ」

男は続ける。

「てかそれだけじゃないんやけどな。生きてくには辛いことが多すぎる、失恋もそれ以外のことも」

男の顔から笑みが消える。

「きっと生まれてこんかったらこんな辛い思いせんでよかったのになって思ったよ、人は生まれてくるべきではないんやって。でもな...」


ああ、まただ。

またこれだ。

きっと僕はこの後に続く言葉を恐れている。

途端にこの場から逃げ出してしまいたくなった。


「幾千幾万もの辛いことの中に、たったひとつかもしれんけど、そうじゃないもんがあんねんよ。まあ、なんて言うんかな、生きてくための希望みたいな?」

男は再び恥ずかしそうに笑う。

「いや希望なんて大層な言い方したけど、そんな立派なもんじゃなくてもよくてやな。たとえば、明日のデートでどんな服着ていこかな?みたいなワクワクとか、今日はいつもよりたくさんあの子と喋れた!みたいなウキウキとかな、そんなしょーもないことでもいいんや」


知っている。

僕はそれを知っている。

本当はわかっていたのだ。

胸の奥が優しく温められるようなその気持ちを。

ただ、認めることが怖かった。

いやきっと今もまだ怖い。

それでも...


「これは快楽を得るためのセックスじゃないの」

数時間前の言葉がよみがえる。

小南さんも見つけることができたのか。

大切だと思えるそれを、そしてそれをともに守りたいと思える相手を。

認めることは少し辛いのだけれど。


「それを後世に、この世に残すため...ですか?」

絶望だらけのこの世で、微かな希望を繋ぐためのセックス。

「それでも生きてくことが辛いのは変わらん。そのしわ寄せを受けるんは、これから生まれてくる子どもたちやしな。コナンちゃんも言っとったように、生んでくれなんて頼んでないって思われるかもしれん。でもこれだけは、何を犠牲にしても生かさなあかんもんやねん」

「でもそんなのはただのエゴなんじゃ...」

「そうや、これは今生きてる俺らのオナニーや。でもな少年、これはあくまで俺の持論なんやけど、オナニーすらできへんちんちんはごみやで」



男は立ち上がり、尻についた砂を両手で払う。

「あとな、おまえはさっき、生まれてくる命のことを悲劇やあて言うとったけど、おまえにとってコナンちゃんも悲劇なんか?」

反論できない。

「俺の好きやったその人な、出産してすぐに捕まってしもうたんやけど、生まれてきた自分の子のこと見て泣いとってん。生まれてきてくれてありがとうって、愛してるってな」

僕は口を挟めなかった。

「確かに人生は不幸の連続でできとる。でも俺は、あの日を境にどうしても、それを悲劇やとは思われへんのよ」

男はもう一度笑った。

「前リーダーの二木さんっちゅう人やねんけどな」


二木...?

思考は再びその動きをやめる。



頭上から足音がする。

政府軍の人間に見つかったのだろうか。

男はポケットからタバコを一箱取り出し、その中の一本を口にくわえる。

「ここから北にずうっと行けば俺の仲間がおる。合図出したら振り返らずに全力で走れ、わかったな」

百円ライターによってタバコに火がつけられる。

男の口から吐き出された白い煙は、か細くも力強い一本の線となり上へと昇ってゆく。


「これ、なくすなよ」

僕の手の中に白い小さな箱が差し出された。

青い字でHOPEと書かれてある。

「タバコ...ですか?」

男は防空壕の出口へと歩き出す。

後を追おうと立ち上がろうとするも、足が震えて上手く立てない。

扉を開ける直前、男の口元が微かに揺れる。

「希望や」




リーダーのものだろうか。

ジョンレノンのイマジンを謳う男の声が、頭上から聞こえてくる。

数多の銃声にも負けないその歌声は、きっと永遠に消えることはない。



男は戦った。

少年が逃げ出すことのできる隙をつくるため。

惚れた女の愛するものを守るため。

たとえその命が尽きようとも、微かな希望を生かすため。

武器はない。

防具もない。

あるのは右曲がりのちんちんと左寄りの思想。

そしてたった一本、心に秘めたタバコの名前。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

HOPE かわず @ryuta884

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る