「黒歴史」と書いて「ダークネスヒストリー」とは読まない

人生

 どこまでが黒歴史で、どこからが今なのか。それが問題だ。




 自分にとって黒歴史といえば、もうこのサイト、『カクヨム』の存在が現在進行形のそれといっても過言でない。


 先日、カクヨムコンという年に一度の(期間的に見れば二度ある)お祭りがあった。これに際し、一年間更新が止まっていた長編の完結を試みた。きちんと書き切るために読み直そうと思った。……読むに堪えず断念した。いやまあ、完結はしたのだが。


 過去に書いた文章というのは恥ずかしいもので、特にラブコメ要素のあるものとなればなおのこと。書いた当時は自信もあったが、一年も経つと内容もそうだし文章自体も恥ずかしく思えてくる。


 そういった想いを込めてマイページのプロフィール欄に「じしんさく いちねんたてば くろれきし」などという辞世の句を書いていたのだが、まさかそうした黒歴史を扱う企画がその後発表されるとは、なんという奇遇。なので今回、こういう文章を書いてみようと思ったのである。




 カクヨムには「近況ノート」という機能がある。小説とは別に、作者個人のあれこれを書き連ねることの出来る、いわゆるブログのようなものだ。


 その実装当時、自分は「利用しないな」と思っていた。小説ならまだしも、作者個人の言葉を発信することに躊躇いがあった。それこそ、黒歴史になる自信があった。自分の言葉を発するのは、恥ずかしい。

 だからこうして「のようなものだ」「なのである」といった表現を使って、少しでも客観的に描写することで精神の安定を保っている。この文体は精神衛生上必要なものだとご理解頂きたい。ついでなので一人称も「吾輩」と改めることとする(「自分」と書くよりも便宜上都合がいいというのもある)。


 ちなみに、現在はがんがん利用している。もう50くらいは書いている。作品のあとがき代わりなど、とにかくいろいろと吐き出したい想いがあったのだ。

 たとえばそれは旧ツイッターなどで見かける、議論を呼ぶような話題。物議をかもすようなツイートに反論したい気持ちはあるが、そうするとトラブルになるかもしれない。だから近況ノートなどに、かたちを変えてそれとなく自分の考えなどを吐き出す。


 人目につかない日記などで発散する手もあるが、誰かに伝えたいという気持ちがあるから、そうしたものを使うのだ。近況ノートならネットという公的な空間ではあるものの、旧ツイッターよりは目立たない。ちょうど良い。


 普通の人はそれこそツイートすることで発散するのだろうけども――旧ツイッターというのは恐ろしいもので、個人間のやりとりであっても、その中にトレンドになる文章を含んでいれば、「話題のツイート」といった場所に公開されるのだ。世界中の赤の他人に晒されるのである。たまにそうした、明らかにトレンドとは関係ないやりとりのツイートなのに、目立つところに上がっているものを見かける。


 そうした理由から旧ツイッターのアカウントこそ持っていてもツイートはしていないのだが、これにはもう一つ理由がある。それが近況ノートを実装後しばらく利用していなかった理由でもある。


 たとえばの話。

 ある作家の書く話が好きで、その本を集めていたとする。ある日、旧ツイッターなどでその作者の暴言などを見かける。その作者への反感、嫌悪感を覚える。そうすると、手元の本も見たくなくなってしまうのだ。売ったところで一冊10円、捨てるのももったいない。しかしその本が目に入るたび、嫌な気持ちが蘇る。


 ……そうした想いをしたくないため、なるべく好きな人について調べないようにしている。なんなら小説のあとがきを読むのにも若干の抵抗があるくらいだ。


 で。

 同様に、吾輩の発する言葉や考えが原因で、投稿した作品が読まれなくなる――という可能性もある訳だ。そう考えると、自分の言葉を近況ノートなどに残すのは躊躇われたのである。もちろん、恥ずかしさもある訳だが。


 一方で、「その作者が好きだから読む」という人も多数いる。カクヨムなんかではそれが特に顕著ではないかと実感している。「読まれる、評価される短編」と「そうでない短編」の違いがそこにあるのではないか、と。




 カクヨムには「KAC」という企画がある。


 知らない方のために説明すると、カクヨム・アニバーサリー・カップ(コンテスト?)の略で、恐らく今年(2024年)で4、5回目になるのではないか。そこらのソシャゲよりも歴史が長いのである。

 企画の趣旨としては、お題が出され、それにまつわる短編を書き、投稿する、といったもの。お題発表から三日ほどで締切になり、次のお題が出る。だいたいなんらかの公募の締切が被っているのでつらい人にはつらい。吾輩もつらい。


 それでも毎回皆勤賞をとっているはずで、昨年だけでいえば、企画全体を通して一番文章量の多い、カロリーの高い作品群を書いたのは吾輩ではないかと自負している。実際のところは分からないが、かなり頑張ったのだ。


 にもかかわらず、結果はふるわない。その原因はといえば、やっぱり「作者人気」にあるのではないか、と不平不満を毎度思う。そうした感想も、自信作だと送り出した短編も、全部が全部黒歴史といえるものだ。特に短編というやつは勢いのままに書いているものが多いから、読み返すと黒歴史以外の何ものでもなかったりする。


 過去、幸運にも短編を書籍化させてもらえたことがあるが、内容が恋愛ものだったため、改稿作業はほとんど苦行で、発売後に献本として頂いたものも未だに手を付けられずにいる。


 ……そうした実績も、その後何も目立ったことがない現状を思うと黒歴史に感じられてしまう。


 何かしらの成果、評価が得られれば、そうした黒歴史も誇れるものになるのだろう。

 たとえば、プロポーズ。「お父さんは、お母さんにどうやってプロポーズしたの?」という質問に恥ずかしさを覚えることはあっても、お父さんはきっとそれを後悔はしない。なぜなら、現在に繋がっているから。


 ある作家先生がこのようなことを言っていた。自分は旧ツイッターを利用しない、日常の面白いネタをツイートで紹介するくらいなら、漫画のネタにする、と。


 そうしてネタに変えられるのであれば――今回このようにいろいろと紹介できるのであれば、あの日の苦労なども報われるのではないか。




 という訳で、ここからが本題である。


 先にKACについて触れたが、今年のそれには「参加作品の文字数が1万字を超える」ことで評価される賞か何かがあるらしい。これまで吾輩のように頑張ってきた人たちが報われる時が来た、という想いがある一方、これまでの努力の価値は、というやるせなさを覚えなくもない。


 ところで、このKAC、現在こそ短編メインの企画だが、第1回には「もっとも文字数の多い長編」を評価し、リワード(賞金)がもらえるものがあった。と思う。KACだったかは定かではないが……。


 それは期間中の新規投稿作品で、現在既に投稿しているものは対象外だった、気がする。案の定記憶が定かではないが、吾輩はこれに2作品エントリーし、どれも賞をもらえたのは覚えている。


 いずれも10万字以上……。


 そこで、疑問に思うのではないか。具体的な期間は忘れたが、なんにしても短期間でそれだけの文章を書くことが出来るのか? それも、2作品。


 つまり、いずれもその企画とは関係なく別に書き上げていたものだった。

 たまたまその企画があったから、そこで放出した。なんなら片方は別の公募で落選したものを、カクヨムに投稿しただけである。


 いちおう、応募規約に反してはいない。カクヨムには新規の投稿で、実際もう片方はどこにも出していないものだった。


 しかし、まあ、そこに若干引っかかるものがある。まさか出した2作ともが受賞するとは思っていなかった。賞といっても表彰される類いではないが、賞金も出たから、悪いことをしたような罪悪感が今日までずっとあった。

 

 吾輩のようにあらかじめストックしていたものを出した人もいれば、別サイトで連載していたものをこれを機にカクヨムに投稿した人もいたかもしれず、ともすれば既に投稿されていたものを削除し、改めて再投稿した人もいたかもしれない。運営側もそこまでのチェックは出来ないだろう。

 その後、この手の企画は実施されていない。いくらでも不正が働けるのだ。そうした考えが後ろめたさを色濃くする。


 いちおう釈明させてもらえば、落選した作品の方は、その公募の規定ページ数の関係で削除したシーンなどを含めたうえ、文章自体は一から書き直したものである、ということ。

 話自体は先にあってほとんどリライトだが、執筆作業量自体は企画期間内に10万字を達成したものである。これはもう片方も同じくで、単純に文字数を増やすだけなら、先の展開を把握しているのもあって個人的には比較的難しい作業ではないのである。


 ……こうした過去の経験があるためか、吾輩は「1週間で10万字以上書ききった」という実績にこだわりがあるのかもしれない。先日もそうして一作仕上げた。

 そうすることで、吾輩にはそういう実力がある、だからあの受賞は不正などではない、という……自己弁護というか、罪悪感の払拭、言い訳を重ねているのかもしれない。


 ただ、そうした経験が、今の「書く能力」の糧になっている、という点で言えば、悪い話ではないのかもしれない。


 これを黒歴史とするのは、やや場違いか。どちらかといえば告解に近い気もする。でもまずは、これくらいの重い一撃を一つ。




 時折思い返しては悶絶し、なぜあの時あんなことをしたのか、という類いの黒歴史もある。思えば、恥の多い人生を送ってきた。


 中学生の頃、好きな先輩の靴箱に手紙を入れたことがある。


 ……結果どうなったのか?


 現在なんの関係性もないのだから何も起こらなかったのだろうが――何か、あったような気もしている。あまりにつらすぎたのか、なんなのか、これは本当に記憶が曖昧なのだが。


 思うに、靴を取り出す際に、それは床に落ちたのだろう。封筒ではなく、ノートの切れ端を折り畳んだようなものだった。それを、他の先輩が掃除の際に見つけるなりしたのか――


 何も覚えていないが、その「他の先輩」の存在が強く印象に残っている。


 ……読まれたのかもしれない、という。分からない。どちらの先輩とも現在繋がりはない。真に恥ずかしい体験というやつは、トラウマとして心に刻まれるか、こうして忘却してしまうのだと思う。


 で、その経験を忘れてでもいたのか、数年後、吾輩は気になる相手の机の中に同じような手紙を入れた。


 そちらはたぶん、読まれた。特に何も起こらなかった。いや。うん。何もないけど。ただ親とかには知られたような気がしている。何も知りたくない。死にたい。なんなら殺しに行きたい。でも過去の自分を殺したところでそいつを殺した吾輩にはやらかした記憶が黒歴史として残っている訳で、やっぱりもう死ぬしかないのである。


 こうして書き連ねることも恥ずかしいが、そこはネットの匿名性だ。でも、吾輩とはまったく無関係のAさんが「これはBさんのことかもな」とか思って、吾輩のことをそのBさんだと思い込んでにやにやしている、とか考えると、それはそれで恥ずかしいし、なんなら匿名性なんて個人が特定されてなくてもこのアカウントから発信されているものである以上、これは吾輩の話だと知られている訳で、


 言い訳はこの辺にして――


 どうして、過去の自分はそんなことをしようと思ったのか?


 まるで理解できない。仮に都合よく全てうまくいったとして、その後どうする気だったのか。想像力が足りていない。こんなヤツが炎上するような事件を起こすのだ。

 今思うと、「気付いたら机の中に手紙が入っている」という状況、超気持ち悪い。自分だったら、吾輩がその立場だったら、そう考えるとなおさらに。


 旧ツイッターなどで、気になる人の情報を追いかけない要因の一つもそれだ。フォローとかしない。

 というのも、そういう風にしている吾輩、気持ち悪い。

 いくら相手がプロモーションとしてスケジュールを公開しているとはいえ、「あの人があの日あの会場に来る、だから自分も行こう」という考えはまるでストーカーのそれじゃん、という感覚があるから。それを他人がやってるぶんには別に構わないが……。


 そうやって情報を追わずにいると、それこそ旧ツイッターで「あの人あの番組に出てたんだ」と後から知って損をすることもあるし、何も知らずに偶然テレビで見かけてちょっとしたラッキーを得ることもあるので、まあ悪いことばかりではない。


 そんなこんなで、他人をフォローなどしないスタンスでいる訳だが、先の「作者人気」の話でいうなら、フォローなどで関係構築することで読まれる機会がグンと増えるだろうことも理解してはいる。でもそれは実力じゃない。だからしないのだ。そんな吾輩カッコいい。という黒歴史イタい話


 イタさと恥ずかしさって、似て非なるものだと思う。ベクトル的には一緒だけども、微妙に角度が違うのか、深さが違うのか。

 いずれにしても、それを感じる心の部位はそう遠く離れてはいないはず。中二設定溢れる現代ファンタジーと、恥ずかしい台詞とシチュエーションに塗れた恋愛もの、どっちも読み続けるのは難しい。文章に変なルビを貼る時と、過去に書いた短編などを読み返す時の感覚には近いものがある。そういう点では、近況ノートも小説も変わらない。どっちもじゅうぶん黒歴史。


 だったら小説の投稿も、他人をフォローするのも同じようなもの、と割り切ってしまえばいいのでは。


 それに昨今、旧ツイッターでの「いいね」の数がただの自己満足だけでなく、稼ぎにも繋がるようになってる訳で。それがプロモーションにも使えるなら、「漫画のネタになるからツイートしない」というのも、どうなのだろう。

 漫画を描くことを稼ぎを得るための仕事ととるか、漫画を描くこと自体に情熱を持っているか、という違いだろうか。吾輩は後者を支持するが。


 なんにしても、そうしたスタンスも結果が出なければただの黒歴史。アイドルなんかが変わったキャラを演じて売れようとするのも、イタい恥ずかしいとするのは偏見で、それで売れれば正しいことで、そうなって初めて「笑える黒歴史」として話せる訳で。「若気の至り」という「悟り」と似た理屈ニュアンスで自分を許せる時がくる。結果を出せば報われるのだ。そうして時が経てば歴史人生の一部になるのだ。


 でも逆に言えば、成功しなければ黒歴史に救いはないんだろうな、イタさ恥ずかしさに後悔が混じって、味で言えば苦みになるのかもな、とか思ったり。


 でも吾輩には一つ、才能と呼べそうなものがあって。

 それはこうして文章にして書きだしたことは、数か月も経てば頭の中から消えてしまう、ということ。マジで忘れる。これまでのKACの短編も何も覚えてない。


 だからまあ、今回この機に忘れたいことをネタにしました、という訳です。



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