雨の夜

一ノ瀬 薫

雨の夜

 ホームに入って来た列車の窓は雨に濡れていた。

 彼は、列車に乗り込むとドアのそばの端の席に腰を下ろした。

 そして雨の粒が叩きつける暗い窓の外をボンヤリと見つめていた。

 二つ目の駅で降りた彼は、改札を出ると公衆電話を探した。


「今着いたんだけど、どこに行けばいい」

 彼はそう尋ねた後、短い言葉を聞くとわかったと答え、電話を切って歩き始めた。

 空は暗く、雨は本降りになりそうだった。

 彼は駅から大通りにつながっているアーケードを渡り、階段を降りると雨を避けて小走りに教えられたファミリーレストランに入った。

 人はまばらに席を埋めているだけだった。


 ウエイトレスに案内された窓際の席に座り、後から一人来ると告げた。

 彼は以前とは様変わりした駅前を眺めながら、覚えている駅の様子を思い浮かべようとしたが、難しかった。

 コーヒーを頼み、ソファに身をもたせかけると少し落ち着いた気分になった。

 ターミナルのバス停には暗い色のスーツが連なり、その中に明るい空色のレインコートを身につけた女が一人並んでいた。

 窓から目を離して、入り口の方を見ていると、彼を案内したウエイトレスがコーヒーを持ってこちらに歩いてきた。

 二十才くらいだった。さっきは気づかなかったが、目鼻立ちのハッキリした綺麗な子だった。背も高い。

 彼は、ありがとう、と言って一口飲むと小さく息を吐いた。


 女はあたりを見回し、彼を見つけると、少し微笑み何かを抑えるかのように佇み、その後しっかりした足取りで彼の席へ歩いてきた。彼は、女を見ていた。

「すぐにわかったでしょ」

 彼は頷いて笑った。

 彼のその屈託のない笑顔を見ると女はなぜか表情を固くして、ウエイトレスに少し詰まった声でアイスティーを頼んだ。

 そのまま彼の前に座ると、てのひらで覆うこともなく彼を見ながら涙をこぼした。

 何も言わず、彼はそれを見ていたが、その瞳をまた彼女も見ていた。女は薄い桜色のハンカチを出し、涙を拭うと明るく微笑んだ。


「ここに来るまでも泣きそうだったの、我慢したわ」

「何も泣く事はないさ。でも、泣き顔もいいな」

「嬉しくて泣きそうになるのなんて、初めて」

「なかなか、泣かない女だものな」

 彼は笑った。

「久しぶりなのに、そんなことしか言わないの」

「きれいな女は泣いても絵になるんだよ」

「あら、口がうまくなったのね」

「そういうことをいうから、ダメなんだ」

 女は彼にそういわれて、ちいさな声でごめんなさいね、と言った。

 しかし、笑顔を止められなかった。

「今日はご機嫌だな」

「当たり前でしょ。今日ぐらい機嫌がいい日はきっとないわ。」

「どんなことがあっても?」

「うん」

 女はウェイトレスが持って来たアイスティーを一口飲むと彼の方に向き直った。


「どんなことがあってもってどういうこと?」

「別れようと思って来たんだ」

 女はあっけにとられたように彼を見た。

「別れよう」

 もう一度彼が言った、別れよう。

「なんども言わないで」

とさえぎった。女は少し上を向いて息を吐いた。

「どういうことなの。誰かに、父に何か言われたの」

 彼は首を振った。

「いや、何も。君のお父さんはそういう人じゃない」

 彼は女を見ていた。その目はさっきと変わらない優しい目だった。

「誰も何も言わないよ。君のお父さんはいい人だ。面会にも来てくれたしね」

 女は、えっと驚いた様子で、彼を見た。


「私は面会できないって言われたのよ」

「俺がそう言ってくれって頼んだんだ」

「なぜ」

「君に会いたくなかったから」

 彼がそういうなり、女は立ち上がった。

「座れよ、帰らないんだろ」

 彼は笑顔で言った。


「私の事が嫌なら嫌って言えばいいでしょう。来ないでくれって言われたと聞いたら無理に会いになんて行かない」

 女は立ったまま、そう言った。

 彼は女を見上げてのんびりした調子で言った。

「そうかな。違うね、君は意地でも会いに来るし、その時に色々言われるのが嫌だから、お父さんに頼んだ」

 彼は落ち着けよ、と言うように女を見て座らせた。

 女は体をひねるようにして座り、窓の外を見た。


「ひどい」

「まあな。でも嫌いで会わなかったわけじゃないことは、今日、会いに来てるからわかるだろう。あのままどっかに行ってもかまわなかったんだ。」

「そんなの許さない」

「だろうね」

 彼はテーブルにひじをついて女に近づいて言った。

「こっちを向けよ」

「いや」

「わがままなやつだな」

「それは、こっちの台詞だわ」

 怒るなよ、と彼は困ったように無精髭の生えた顎のあたりを撫ぜた。


「どうして別れようなんて考えたの」

 女は窓の外を見たままそう言った。

 彼は黙って考えていた。

 彼女は仕方なく彼に向いて言った。

「理由くらいは言ってもいいんじゃないの」

「特に理由はない」

「そんなはずないわ」

「あえていうなら、君に頭を抑えつけられて、この先ずっと生きてゆくのは嫌だと言う事くらいか」

 男はそう言って笑った。

「抑えつけてなんかいないし、そんなこと今まで言わなかったじゃない」

 女は我慢できないというように言った。

「別れるわけじゃないのに言う事はないだろう」

「やっぱり嫌になったんだわ」

「嫌じゃないさ、君の事は好きだ。ただ、付き合っていくのは無理だよ」

「私が変わればいいの」

 彼は首を振った。


「無理だね。それに君は今のままの方がいい」

「じゃあ、どうしようもないじゃない。本当は好きじゃないのよ、私のことなんて」

「そうかもしれないな」

「やっぱり」

「だから、別れよう」

「いや、そんなの絶対いや」

 女はきっぱりと言い切った。

 彼はいいさ、と笑った。

「いいさってどういうことよ」

「俺はここを出て行く」

「どこに行くの」

「君の知らない所だよ」

 女は唇を難く結んでテーブルをドンとたたいた。


「無茶するなよ」

「どうして、そうなの。勝手なことばっかり言って。私が強引にでも聞かなかったら、あなたは何も言わないじゃない」

「まあ、そうかもな」

「私だって、あなたの言う事、はいはいって聞いていたいわよ。でもそんなことしてたら、あなたは自分のやりたいようにしかしない」

「そうだな、君のいうとおりだ」

 彼は女の顔の輪郭を見ていた。顎の線がきれいだと思った。


「だから、私だって言いたいこと言うのよ」

 わかった、と彼は言った。

「わかってないわよ」

 彼は、コーヒーを飲み干して、彼女を見ると言った。

「今日はもう帰ろう。遅くなる」

「私は帰らない」

「じゃ、好きにするさ。俺は帰る」

 待ちなさいよ、と女は言ったが彼は振り向かなかった。


 彼はレジで会計を済ませるとそのまま、雨の降る町に出た。

 背後で、足音がしたが彼は雨を避けるように駅へ走った。

 最終列車がもうすぐ来る時間だった。

 彼は切符を買い、ホームに出た。

 人はまばらで冷たい雨の粒と湿った風が彼の横顔に吹きつけた。


 彼はベンチに座り、駅のアナウンスを聞いていた。

 階段を駆け下りて来る音がして、すぐ隣で足音は止まった。

「どうしても行くって言うの」

「君とは別れるからな」

「私は別れないわ」

 女は隣に座った。


 彼は黙って、明かりに照らされて鈍く光る線路をみつめていた。

「帰って来るんでしょ」

「わからない。帰りたくなれば帰るし、そうならなければ帰らない」

 女は彼に何か言おうとしたが、黙った。

 列車がホームに入ってきた。

 彼は立ち上がり、彼女の方を見ると言った。

「早くいい男を見つけるんだ」

「いや、私はあなたじゃなきゃ、ダメなの」

 彼は、笑いながら女の肩に手を置いた。

「そんな気がするだけだよ、俺じゃなきゃダメなんてありえない」


 彼は列車に乗り込んだ、女は一緒に乗り込もうとしたが、彼は向うに優しくしかし強く押しやった。

 女は彼を見た。

 彼は微笑んでいたが、それは見えない壁のようだった。

 ベルが鳴り、女はただ立って彼を見ていた。

「帰って寝るんだ。いい夢を見れるさ」

 彼が、そう言うとドアは閉まった。

 女は彼の乗った列車を少しだけ追ったが、そのまま、ホームにのこされた。

 列車の出たホームは静かに明かりを落としていった。

 さっきまでひどく降っていた雨はやんでいた。


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