恋は味なく、想いは甘く

外清内ダク

恋は味なく、想いは甘く



 20年以上も昔、寄宿学校コレッジを脱走してまで買い食いしたあのロリポップを思い出し、僕は地下鉄チューブに飛び乗った。アダムズ街路ストリート42番の雑貨屋の、3シリングで買えるチャチな駄菓子だ。勤務時間中に職務放棄して菓子を買いに行く背徳感が、学生時代の、身震いするような甘い経験を思い起こさせる。

 そうだ。あのとき、君がいつも隣りにいた――



   *



「なに見てんだよ」

 君と出会ったあの午後、君は雑貨屋のショウ・ウィンドウに背を預け、僕の無作法な視線をとがめた。僕より頭ひとつ半ほども背が低いくせに、ストリート・ギャングめいた迫力のせいか、君は不思議と年上に見えた。

 僕は目をそらす。君は鼻を鳴らして空をあおぐ。君の注意がよそへ向いたのをいいことに、僕は君の口元をまた盗み見た。

 薄い、かさついた唇の間に、艶かしく出入りを繰り返す、ロリポップの棒……

 どうしてあんなものに見惚みとれたのか、と問われれば、食べたことがなかったから、と答えるしかない。僕ら学生にとって寄宿学校コレッジは一種の牢獄で、あらゆる不道徳で非紳士的な快楽は完全にシャット・アウトされている。特に合衆国由来の駄菓子なんてのは最悪も最悪、我が帝国にふさわしくない堕落した食べ物というわけだ。

 だが2034年のトーキョー合意以来、両国間の自由貿易が解禁され、合衆国の「非紳士的な」文化が怒涛のように押し寄せてきた。新鮮で、色鮮やかで、刺激的な……それは僕たち世代にとって、憧れだったのだ。

「欲しけりゃ買えばいいだろ」

 いきなり刺すように言われて、僕はすくみ上がる。見れば、いつのまにか僕の視線に気づいていた君が、僕をうろんげに睨んでいた。

 僕は君の態度が恐ろしくて、つい、目に涙を浮かべてしまい――その時点で紳士としては失格だ――喉を引きつらせた。

「お金がないんだ」

「いい服を着てるくせに」

「制服は支給品だ!」

 僕の口から、金切り声が走り出た。それと同時に涙があふれた。僕は君に詰め寄って、思いつくままに叫び散らした。

「住まいは寮。食事は給食。自由にできる財産なんてない。選べる未来もない。僕は学校という工場で製造される途中の商品だ!!」

 君の顔に、困惑の色が浮かぶのが分かった。

 しばらく僕を観察したあと、君は口からロリポップを出して、舐めかけのそれを僕に差し出す。

「食う? 俺ので良ければ」

 僕はたっぷり40秒近くもためらい――

 受け取った飴を口に入れた。

 ああ……

 あんなにも、あんなにも甘いものを、僕は後にも先にも食べたことがない。

 ボロボロ泣きながらロリポップをしゃぶる僕の肩を、君はそっと叩いてくれた。

 そのロリポップが、1日の稼ぎをピンハネされた後に残った最後の金で買ったものだったと、知ったのはずいぶん後になってからだ。



   *



 それ以来、僕らは週に一度か二度ここで顔を合わせるようになった。やがて二度は三度になり、三度は四度になり、数ヶ月もした頃には、ほぼ毎日つるんで遊び歩くようになっていた。

 それは、同じ頻度で僕が寄宿学校コレッジを抜け出していたことを意味する。学校の出席管理には存外抜け穴が多く、AIに代理で授業を受けさせるプロンプトさえうまく組めば、教師の目をごまかすことはできる。あとは物理的に壁の外へ出れば脱走は完了で、そのためには古い配管保守用の地下通路が役に立ってくれた。

 僕と君は、よく一緒に「仕事」をした。

 偽造ブランドの装飾品を観光客に売りつけたり。無認可タクシーの無免許運転でぼったくったり。中身の分からない「荷物」を指示された場所まで運んだり。

 稼ぎの大半はギャングの構成員に持っていかれたけど、そんなことは問題じゃなかった。生まれて始めて手にする自分のお金への感動も、なきにしもあらずだが、それが本質じゃなかった。

 僕はただ、君と一緒にひとつのことに取り組めるのが、なんだか無性に楽しかった。

 君は僕に、寄宿学校コレッジで学んだより数倍多くのことを教えてくれた。食べ物の手に入れ方。カモの見分け方。決して踏み込んではいけない街路ストリートと、絶対にケンカを売ってはいけない相手の名前。

 そのかわりに僕が提供できたことと言えば、上納金を約束より多く支払わされていたことを指摘して是正させた、あの一件くらいだけど……君は大げさに僕を褒めそやしてくれたっけ。割合の計算、四則演算。勉強しておいて良かった、と本気で思ったのは、あれが初めてだった。

 それで僕らは、お金が浮くと、あの雑貨屋に足を運んだ。

 気が狂ったような色合いの、合衆国製菓子の山。どれもこれも食べればひたすら甘ったるく、かすかに着色料の味がするような気さえした。だが僕らにとって、それはどんなに栄養満点な食事よりも魅力的だった。片っ端から新しい菓子を試した。

 そしてしばしば、僕らは1つのロリポップを、ふたりでシェアして舐めた。

「なあ、ルウ……」

 僕のくわえていたロリポップを奪って自分の口に入れながら、君は口をモゴモゴさせる。

 僕のことをルウと呼ぶのは君だけだ。学校の連中にはルパートとしか呼ばせない。そして君のことをギャングの連中はアーチーと言うけれど、僕だけはバルディと呼ぶ。僕たちは互いに特別だった。

「なに、バルディ?」

「お前、学校行かなくていいのかよ」

 僕はつい、眉間にシワを寄せてしまった。

「僕にとっては、ここが居場所だ」

「ふうん」

「迷惑?」

「いや」

 ガリッ、と音を立てて、君は飴を噛み砕いてしまう。君のポケットの中で、偽造SIMのスマホがアラームを鳴らす。僕らは2人、頬をくっつけて一緒に画面をのぞき込む。また新しい仕事の命令が来たのだ。

「行こうか」

「うん。タニス・リー街路ストリートなら地下鉄チューブが早いよ」

「いや。合衆国にさ」

 僕は目を丸くした。まじまじと見つめる僕に、君は大真面目な視線を返す。僕はうろたえていた。

「旅行?」

「いや」

「移住ってこと?」

「どこに行きたい? 合衆国の中でなら。ニューヨーク? サンパウロ?」

「本気なの?」

 移住? 合衆国に? そりゃ、世界を真っ二つに分けての長い冷戦も、ここ10年は雪解けムードだ。まず経済の交流が始まり、まだまだ制約が多いとはいえヒトの行き来も生まれ、徐々に敵国とは呼べなくなりつつある。

 でも……合衆国なんて……あまりにも遠い。

 君は何も言わない。

 と。

 不意に君が、僕の頭をつかんだ。

 そして猛禽類みたいに素早く顔を寄せ、僕の唇に、自分のそれを重ねた。

 最初、何をされたのか分からなかった。生まれて始めてのキス。君のカサついた唇が、ロリポップの甘味をともなって、僕の唇をくすぐる。君の息の匂いがする。抱きすくめられた背中に、押し当てられた胸に、君の体温が伝わってくる。

 長い長い口づけの中で、僕は君を味わい――やがて事態をさとって、もがきはじめた。君の舌が僕の中に滑り込んでくる。電流にも似た快感が背筋を駆け抜ける。僕の喘ぎ声と鼻息が、君の頬にもかかっているはずだ。キスされてること、抱かれていることそのものよりも、それに興奮している自分自身に羞恥して、僕は火のように燃え始める。

 君はようやく唇を離した。

 唾液が糸を引いて、僕から君へと橋をかける……

 そのまま君は、僕に背を向けて歩きだす。僕は少しのあいだ、君を呆然と見つめていた。

 なぜ突然、こんなことを?

 なぜ君は、そんなに寂しそうな背をしてる?

 僕は……

洛陽ルォヤン!」

 君に叫んだ。

 君が、遠くで足を止める。

 僕は君に駆け寄って、君の背に手を触れる。

「それに京都キョート

 合衆国の州になる前は、あの地域の首都だった街だ」

 君が肩越しに振り返り、苦笑する。

「お前らしいよ、知識人。でも俺は、ロリポップがない街は嫌だぜ」

「大丈夫。合衆国ならどこでも買えるよ。資本主義は文化を均一化させるんだ」

「帝国もそうだといいのにな。そうしたら、どこへでも行ける」

 僕らは笑い合い、じゃれあいながら、地下鉄チューブの駅へ歩いた。君の顔はいつもと変わらないように見えた。

 だから僕は思い込んでたんだ。単なる「もしも」の話だと。本気のはずはないと。

 もしあの時、君の意図に気づいていれば……そうしたら僕は……



   *



 それから数日後。

 君が、姿を消した。

 僕はずっと待ってた。いつもの雑貨屋の前で。いつかの君のように、ショウ・ウィンドウに背中を付けて。

 君は来なかった。

 その日も。次の日も。次の日も。次の日も……

 僕は探した。

 裏社会との繋がりが乏しい僕にとって、それは簡単なことではなかった。仕事で関わった人、君の知り合い、そういうツテを頼りにロンドン中を駆け回った。

 半月以上も過ぎたある日、僕はやっとのことで君の上司だったギャングのもとへたどり着いた。息を切らせて飛び込んできた僕を、彼は冷ややかに一瞥した……

「何の用だ」

「アーチボルドはどこですかっ」

「我々も迷惑している」

「は……?」

「死んだよ。ヤツは」



「組織を無視して勝手に大きな仕事に手を出した」「ガキが単独でやるには危険すぎる案件だ」「なにかの理由で、やたらに金が欲しかったらしい」「私はやめろと言ったんだ」「それで死んだ」「迷惑をかけた相手組織との手打ちに10日かかった」「つまるところ、アーチーは……死んだ」



 僕は頭が真っ白になり、フラついて、後ろ向きに倒れかけた。ギャングの1人がとっさに僕の背を支えてくれた。僕はその手を払いのけて、今度はドアノブにすがりついた。

「なあ、坊や。悪いことは言わない。寄宿学校コレッジに帰りな。お前にとっては、そこが居場所だ」

「僕の居場所は……」

「お友達はもう、ここには居ない。

 お前を学校に返したくない。けれどこんな暗い社会に居させたくもない。なら、新天地で一発逆転するのに賭けるしかない。

 バカだよ。バカの考えだ……そう思わないか、なあ、坊や」



   *



 それっきり、10年が過ぎ、20年が過ぎ、僕の帝国紳士ぶりも板についてきた。

 なのに、やけに世界が息苦しくて、僕はまたこの街路ストリートに帰ってきた。あの雑貨屋は、あの時のまま、汚れた店構えで僕を待っていた。

 店主の胡乱げな視線を浴びながら、僕はロリポップを1つ買う。進み続けるインフレーションの影響で、値段は7シリングにまで上昇していた。

 でも、キツい原色の着色料は、あの頃とちっとも変わらない。

 店を出て、ロリポップを口に入れる。そのとたん、僕は顔をしかめた。こんな味だったかな? やたらに甘くて舌にピリピリ来るばかりで、美味くもないし、深みもない。味が濃いのに味気ない気さえする。

 そのとき。

 不意に、懐かしい味が僕の舌を刺激した。

 これは……唾液の味。君のキスの味。

「俺にも食わせろよ」

 背後から聞こえた声に、僕は弾かれたように振り返る。

 しかしショウ・ウィンドウの前には、もう、誰もいない。



THE END.

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