隙間風はもう吹いていない

緑月文人

隙間風はもう吹いていない

「貂の方がすごいのに!貂の方がすごいのに!」


 深い森の中で、駄々っ子のように甲高い声がする。声の主は、一匹のイタチだ。猫ほどの大きさの身体は明るい黄色の毛並みに覆われており、足は黒くて顔と尻尾の先は白い。


 貂という名の獣だ。元よりイタチはカワウソやムジナなど化ける力を持つ者が多いが、貂の場合は三重県伊賀地方で「狐七化け、狸八化け、貂九化け」という言葉があるほど、変化に長けた妖怪であるとされている。


「なのに、なのに……なんで、狐の方が人気なんだ!」

 よほど悔しいのか、地団駄踏んで喚き散らしながら、黒真珠のようにつぶらな瞳にはうっすらと涙さえにじませている。


「くそー、見てろよ!狐や狸なんかより、貂の方がすごいって証明してみせるんだから!」

 ひとしきりわめいて感情を発散させたのちに、貂はそう宣言した。胸の中に隙間風が吹くような感覚を味わいながら。


 その翌日、人間の子供に変身した貂は、意気揚々と人間の町に向かって歩きだす。周囲は田んぼと畑ばかり。人家はまだ無いが、もうしばらく歩けば見えてくるだろう。そう思って、アスファルトで固められた道を歩いていると


「すまんの、そこの坊や。ちょっと付き合ってもらうぞ!」

「え?ってええええっ!」


 町にたどり着かぬうちに、頭上からがしっと両腕をつかまれ、そのまま上空に連れ去られた。一瞬呆然とした後に愕然と叫びながら、いきなり自分を誘拐した相手を見上げる。

 天を突くような巨躯を山伏のごとき白装束に包み込んだ、壮年の男だった。羽毛に包まれた翼をはためかせ、白い蓬髪に包まれた赤ら顔で目立つのは、ぎょろりと大きなまなこ、そして何より鳥のくちばしのように大きく長い鼻。


「て、天狗!」

 貂が思わず目をむいてそう叫ぶ間にも、天狗の飛行は止まらず、どこを目指して飛んでいるのかも見当がつかない。


「おう、よく分かったな!」

(いや、見れば分かるって)


 感心したように言い放つ天狗の言葉に、そんな突っ込みが貂の胸中に浮かぶがそれを口にする暇さえなく、天狗は人気のない森の中に降り立った。うららかに晴れた蒼穹から降り注ぐ心地よい日差しを浴びて静かに佇む木々の中。見渡しても、周囲にあるのは草木や花ばかりで人の気配はまるでない。


「何するんだよ!こんなところにいきなり連れてきて!」

「いや、おぬしのその姿を見たら放っておけなくてな。おーい、狐と狸、おるか?」

 困惑しながらも怒声を放つ貂に軽く頭を下げながら、天狗は問いを森の中に投げかける。

「いるよ」

「なんだよ、また性懲りもなく子供をさらってきたのか?」


 帰ってきたのは、涼やかな若い女の声と、野太い男の声。葉擦れの音と共にテント天狗の目の前に現れたのは、一組の男女の姿。

 女はまっすぐに伸ばした髪も滑らかな肌も、抜けるように白い。身にまとう上等そうな黒いパンツスーツが、それを一層引き立てている。上品な細面と切れ長の目が印象的な、玲瓏たる美女だ。先ほどの天狗の言葉から察するに、おそらくは狐が化けた姿だろう。

 男の方は、短く刈った褐色の髪と彫りの深い顔が印象的な、堂々たる偉丈夫だ。大きな体を包むのは、黒い袴と黒い羽織。体の大きさに反して威圧感はさほどなく、どこか奇妙な愛嬌を感じるのは、ぎょろりと大きな眼の中に宿る、人懐っこい光のせいだろうか。女が狐だとすれば、こちらは狸が化けた姿なのだろう。


「お前さんなあ、子供をさらうのはいい加減やめろ。そのたびに俺たちが尻ぬぐいをする羽目になるんだから」

「何を言う、美少年を見たらつい連れていきたくなるのは天狗の性じゃ!」

「犯罪じゃねえか!」


 うんざりした様子で男の方が天狗に話しかけると天狗は胸を張って堂々と言い返し、男が突っ込む。目の前で繰り広げられるテンポの良い言葉の応酬に、貂が目を白黒させていると

「いや今回はそれだけではない。狐と狸よ、この子の姿をよく見てくれ」

 天狗がそう言うと、二人は改めて貂に視線を注ぐ。

「え、どこか変?」

 貂自身も慌てた様子で、自分の姿に視線を注ぐ。年のころは7つか八つほど。小柄で華奢な体を包むのは、どこにでもありそうなシャツとズボンとジャケット。小さな顔を包むのは柔らかそうな栗色の髪で、日に透かすとうっすら金色がかっている。全体的に色は白く、黒々とした大きな瞳がその白さをより際立たせている。


人間の美少年に化けたつもりだが、どこか違うのだろうかと思いつつ貂は首をひねる。

「……あーいや、全体的にうまく化けてると思うがな。お前さん、尻尾出てるぜ」

「えっ!」

 狸の若干遠慮がちな指摘に、貂は慌てて腰のあたりを見る。そこには柔らかそうな黄色の毛におおわれた尻尾があった。


「このまま人間の町に出ていたら、えらいことになっていただろうな。天狗、よく見つけたな」

「いや空から下を何の気なしに眺めとったら、たまたま見つけての」


 狸と天狗の会話を聞きながら、貂は口惜しさと恥ずかしさで、白い頬を赤らめて身を震わせていた。

「君、どうしたんだい?人間の町に何か用事でもあったのかい?」

 そんな貂をどう思ったのか、どこか男性的な口調で狐が話しかけてくる。

「……化け……」

「うん?ごめん、よく聞こえなかった、もう一回教えてくれるかい?」


「貂の方が、狐や狸なんかより化ける能力が上だってことを証明するために行くつもりだったんだ!」


 口惜しさと自分への情けなさで、自尊心が引き裂かれるような思いがした。その思いに駆られるまま、貂が声を張り上げると、その場が一瞬しんと静まり返った。

 質問していた狐は気を悪くした様子もなく、静かに貂を見つめている。切れ長の眼の中の、大きな硝子玉をはめ込んだような澄み切った瞳に、今にも泣きそうに顔をゆがめた自分の姿が映っていることに気づき、貂は思わず顔をそむけた。

 天狗と狸はやや面食らったように目を丸くしていたが、ややあって狸の方が口を開く。

「おいおい、ずいぶんな言い草だな。それならいっしょ、化け比べでもしてみるかい?」

「私は別にかまわないよ」


 狸の言葉に、狐は頷き貂の顔を覗き込む。

「君は?」


 貂は無言のまま、こくりと頷く。

「何やら騒がしいな」


 涼やかな若い男の声が、その場に割り込んできたのはその時だった。貂が視線を向けると、いつからいたのか、若い男が一人佇んでいる。

 癖のない長い黒髪は、墨を流したようなしっとりとした光沢を纏って背中の半ばほどまで伸びている。切れ長の眼が涼やかな印象を与える面長の白い顔は、女性的に見えるほど線が細い。古めかしい白い狩衣を纏う身体も、男性にしてはかなり細身だ。


「よう、蛇神の旦那じゃねえか」

 突然現れた狩衣の男に、訝る様子も見せずに狸が陽気な声をかける。

「へ、蛇神?」

 狸の言った言葉に、貂は驚き、目を見開く。

 貂のその視線を受け止めるように、狩衣の男こと蛇神は貂に目を向ける。切れ長の眼の中の瞳は薄い金色。その中の、縦に引き裂いたように細い瞳孔は、確かに爬虫類のそれだ。


「この幼子はなんだ?」

 幼子と言われて、貂は内心むっとする。


「いや、どうも変化に関しては自分が一番上だと証明したいらしくてな。ちょいと化け比べをやることにしたんだ。アンタもやるかい?」

「遠慮しておく。我は狐狸やイタチほど変化が得意ではない」

 狸の誘いに、蛇神は清水が流れるように涼しげな声でそう返した。


「さて、それじゃあ始めるか、準備はいいか狐?」

「ああ、かまわないよ」


 と狐は返す。 

 ほっそりとした優美な女に化けたその姿が、一瞬かすんだ。

 と思った次の瞬間には、狐本来の姿に戻っていた。ほっそりとしたしなやかな体は、降り積もった雪のように白い毛並みで覆われていた。身体が細い分、毛並みと尾の豊麗さが目立つ。しかも、尾は一本だけではなかった。


「九本ある。すごい、九尾の狐?」

「そうだよ」


 思わず尾の数を数えて呟く貂の言葉に、狐が答える。人の姿に化けていた時と変わらない、鈴を転がすような澄み切った声。


「よし、じゃあ僕も」

 貂も変化を解いた。明るい黄色の毛並みに覆われた体は小さく、尻尾も一本。九尾の狐と比べるとどうにも貧相に見えてしまう。


「可愛いね」

 と狐から言われて、思わず貂はちょっと顔を赤らめた。

「おい、坊主。こっちも見てみろ」


 野太い声の聞こえた方向へ、貂が視線を向けるとそこには、変化を解いた狸の姿。

 こちらは、茶褐色の毛並みに包まれた、丸みを帯びた体。先が黒ずんだ短い尻尾。ただし並みの狸よりはるかに大きく、熊並みの大きさだ。

「ふーん、でっかい狸だね」

「……おい、それだけかよ。狐とはずいぶんリアクションが違うじゃねえか」

 そっけない反応を示す貂に、狸がやや不満げな声を出す。

「だって狐に比べて、かっこよくないんだもん」

「言ったな、このクソガキ」

「はいはい、そこまで。じゃあ始めようか」

 狸が貂に向かって歯をむき出しながら言うと、狐がとりなすように言う。


「おう、頑張れよ、おぬしら。わしらは見物しとるからの」


 などと言う天狗は、少し離れた場所にどっかと腰を下ろして、懐から瓢箪を取り出して中身を飲み始める。飲んでいくにつれ、赤ら顔がさらに赤くなっていくのを見ると、中身は酒らしい。隣に座る蛇神も天狗に勧められ、無表情で酒を飲み始める。

 貂がやや呆れ気味にそれを眺めていると、狐が声を出す。


「ルールはどうする?」

「絶え間なく色んなものに変化し続ける。、変化を維持できずに元の姿に戻った者から負け。そういうのでどうだ?」

「私はそれでいいよ。君は?」

「僕も!」

 狸の提案に狐と貂は頷く。

「よし、それじゃあ、化け比べの始まりだ!」


 狸の声と同時に、狐と狸と貂は各々変化を開始した。

 狐は九尾を、揺れる焔のごとく妖しく揺ら眼がせて変化する。先ほどの中性的な服装の麗人から幼い少女へ、そして人当たりのよさそうな老婆へ。

 狸も負けてはいない。人のよさそうな偉丈夫から小柄な少年、愛想のいい好々爺へと次々に変化して見せる。

 貂も負けじと紅顔の美少年の姿、次はそれをそのまま成長させたような美青年。最後は、渋い貫禄のある老紳士の姿になる。

 変化はまだまだ続く。狐が大粒の宝石へと変化する。狸の方は、どっしりとした大岩へ。貂も石へと化ける。宝石ほど美しくはなく、岩ほど大きくもない、何の変哲もない普通の石ころだ。

 まさしく千変万化。回転させながら覗き込んだ万華鏡が、色とりどりの美しい模様をいくつも見せるように、三匹の獣が多種多様な姿にくるくると変化する。


 その様子を天狗と蛇神は見守っていた。酒を飲みながら呑気にヤジを飛ばしていた天狗は、いつしか真剣な面持ちで姿勢を正しており、蛇神もまた、水面のように静かな面持ちで貂たちを見据えている。


「はあっ。はあっ」

 初めに貂の息が上がり始めた。続いて狸も消耗している様子を見せ始める。

 やがて貂が変化を維持できずに元の姿に戻り、うずくまる。

 続いて狸も元の姿に戻り、全力疾走した後のように荒い息を吐いた。


「あーくそっ、今回も狐には勝てなかったか!」

「いや正直、私もかなりしんどいよ」


 白鳥に変化していた狐はそう答えて、元の姿に戻り大きく息を吐いて座り込んだ。

 狐にも狸にも化け比べで負けた。

 その事実を貂は最初受け入れることができずに、ただ呆然としていた。

 だがじわじわと敗北の実感が押し寄せてくるにつれて、目頭が熱くなった。


「やあやあ、おぬしら見事な変化じゃったぞ」

「うむ、我等ではこうはいかぬな」


 天狗と蛇神が賞賛の言葉を述べながら近寄ってくるが、貂はそれを見たくなくて顔をそむけた。

「どうしたんだい?君。さっきから黙り込んでいるけど、具合でも悪いのかい?」

 狐が心配そうな声をかけて貂の顔を覗き込む。

 貂は必死に顔を俯ける。泣くのを堪えて歪んだ顔を見られたくないから。

「おい、どうした?本当に具合でも悪いのか?坊主」

「なんならわしの酒を少し飲むか?」

「たわけ、子供に酒を勧める奴があるか」

 狐だけでなく、狸や天狗、蛇神の声まで聞こえてくる。そこには敗者への嘲りや蔑みもなく、ただ純粋に子供の様子を訝しみ気遣う、優しい響きしかない。

「う……」

 呻くような声が出た。

「ん?どうした」

 狐が問いかけるが、それに答えるような余裕などとうにない。

「うわああああん!」

 ただ泣き叫ぶ声が、滝のようにあふれ出るばかり。もう恰好などどうでもよかった。見栄も外聞もなく、ただひたすら貂は泣き喚いた。それからどれくらい泣いたのか、貂には分からない。泣きつくしてようやく落ち着いたころを見計らって、狐が声をかける。


「少し、落ち着いて休める場所に移動しようか?」

 貂は無言で頷く。

 狐はいつの間にか、人間の美女の姿になっていた。貂を優しい手つきで抱き上げて言う。

「とりあえず私の家に行こう。皆もそれでいいかな?」

「おうよ」

「わしもそれで構わん」

 とこれまた人の姿になった狸と天狗が答えて、蛇神が無言でうなずいていた。皆、貂が泣き止むのを嫌な顔一つせず待っていてくれたのだ。

 歩き出す狐の腕に身をまかせながら、貂はしばしぼんやりとする。

 泣き過ぎたせいか、疲れてしまった。思わずうとうととまどろんでいると

「ついたよ」

 狐の声に、貂は閉じかけていた瞼をどうにか上げる。古めかしくも壮麗な洋館だ。瑞々しい木々と花々に覆われて、ひっそりと佇んでいる。

「きれいだね」

 思わずつぶやく貂の言葉を聞きつけて

「そうかい?嬉しいな。ありがとう」

 と狐が微笑しながら言う。

「さあ、皆あがってくれ」

「おお、相変わらず居心地よさそうだな、ここは」

「うまい酒がありそうじゃの」

「汝はさっきからずっと飲んでおるだろう。少しは自制せよ」


 家主である狐の一声で、狸たちは賑やかな会話を絶やさぬまま、部屋に入りこんでいく。

 狐に抱かれたままの貂は、それを見ながら目を白黒させていた。来客用らしき部屋にたどり着くと、狐は抱えていた貂を手近な椅子に下ろしてから


「飲み物を用意してくるよ。少し待っててくれ」

 そう言って狐は部屋を出ていく。狸たちはあれこれと談笑しているが、貂はそれをぼんやりと眺めた。

「お待たせ、さあどうぞ」


 盆を持って戻ってきた狐が、来客たちにそれぞれ飲み物を手渡していく。狸や天狗に蛇神には、緑茶や紅茶を渡して、貂にはオレンジジュースを手渡してくれた。貂は受け取って、無言で飲み干す。散々泣きはらしたせいか、喉が酷く乾いていた。

「あの」

 のどを潤して、貂は口を開く。

「ん?なんだい?」

 狐が優しく問いかける。

「ジュース、ありがとう。それから、狐さんと狸さんに色々失礼なこと言ってごめんなさい」

 そう言って貂は頭を下げる。

「別に謝ることでもねえよ」

「そうさ、こちらは気にしてないよ」

 コップを傾けながら言う狸と、自分用の飲み物を持ってきた狐が微笑を交えてそう答える。

「しかしおぬし、なんだってそこまで、自分の変化の力を証明したいんじゃ?」

 天狗が不思議そうに問いかける。お茶を飲んで、やや酔いが醒めたようである。

「ええと、僕の故郷では『狐七化け、狸八化け、貂九化け』って言葉があるんですけど」

「ああ、三重県の伊賀のほうにそんな言葉があるね」

 と狐が言う。狐は美しいだけではなく、博識でもある人に化けるというのは、本当らしい。

「でも、人間に化けて人間の図書館に行ってみても、貂が登場する話なんてほとんどなくて、化ける妖怪として出てくるのは狐や狸がほとんどで、僕なんだか悔しくなって、貂の変身能力をもっと人間に知ってほしいって思って」

「おいおい、それで人間にばれたらとっ捕まるだろうが」

 狸がやや呆れたように言うと、それまで黙々と茶を飲んでいた蛇神が口を開く。

「ひとつ、よいか?貂が狐狸より優れた変化の力を有しておるのなら、何故そういう話が無いのだ?」

 蛇神が放った問いかけに、しんとその場が静まり返る。


「すまぬ、決して貂の変化の力が劣っておるなどとは思っておらぬ。ただ、貂が狐や狸に化け比べで勝った話を我は知らぬのだ」


 若干慌てた様子で軽く手を振りながら言う蛇神の言葉に、貂は言葉を失う。貂が図書館で調べた時も、『狐七化け、狸八化け、貂九化け』という言葉を紹介する本はあったが、それを証明するような、貂が狐や狸を変化の力で打ち負かすようなエピソードは一つも無かったのだ。そもそも狐や狸と比べて、貂が登場する話が極端に少ない。

「確かに、俺も聞いたことはねえな。天狗と狐はどうだ?」

「わしも無いの。目の前を横切ると不吉だの、殺すと火災の祟りを引き起こすだの言われているのは、聞いたことはあるが」

「そうだね、私も無いな。岐阜県の昔話で『貂と狸』というのがあるが、あれも化けるのは狸に任せているし」

 天狗と狐が首をひねりながら、それぞれ答える。

「狐が知らねえとなると、そんな話がそもそもねえってことか」

「私をあまり買いかぶらないでくれよ。私はすべてを知ってるわけじゃない。私が知ってるのは、私が見聞きしたことだけだよ」

 苦笑交じりに狐がそんなことを言う。

「それともう一つ、疑問に思っていることがあるのだが、言ってもよいか?」

 蛇神が白く細い指を、形の良い顎に添えながら言う。

「貂が変化において、狐や狸よりも変化で上回るというのなら、何故貂は狐や狸以上に祀られておらぬのだ?」

 蛇神の言葉に、再度場が静まり返る。

「確かに狐や狸を祀る社はあるが、貂を祀る社というのは聞いたことが無いのう」

「僕も知らない」

 ぽつりと貂がつぶやく。

「じゃあ、貂の変化って大したことないの?」

「いや、そういうわけではないと思うぞ。断言はできぬが、おそらく化ける目的の違いではないのか?」

 意気消沈した様子で肩を落とす貂の姿を見て、蛇神は慌てて言葉を紡ぐ。

「化ける目的?」

「ああ、そう言えばどこかで読んだことあるの、狐は人間を誘惑し魅了するために化けるが、狸は化けること自体が好きだからより多く化けると」

 蛇神の言葉を鸚鵡返しに呟いて、貂は首をかしげるが、狐は首をひねってそんなことを言う。確かに狐は美しい女に化ける話が多い。時には誘惑するのみならず、人と子供を為す話も多いが、狸でそういう話は聞かない。

「じゃあ貂は?」

「すまぬ、そこは分からぬ。貂がどういうものに化けるのか聞いたことがない」

 貂の質問に、蛇神は眉をひそめてそう返した。

「お前さん、親からなんか聞いたことねえのか?」

「ううん、僕の親は僕がうんと小さいころに死んでて。近くに住むアナグマに育ててもらったから」

「……そうか、悪いな」

 狸の謝罪に貂は無言で首を振る。

「ちょっと待っててくれ」

 狐が立ち上がって数冊の本を持ってくる。

「あ、それ僕もこの間図書館で読んだことがある!」

 その中の一冊を見て言う貂の姿を見て、狐は微笑みながら言う。

「もう一度読んでみることで、何か気づけるかもしれない。皆で探してみよう」

 狐が配る本を皆受け取り、それぞれ目を通す。しばらくの間、本のページをめくる音だけが室内に響く。

「ざっと読んでみたが、貂……つーかイタチは人を襲う話が多いみてえだな」

「まあイタチって結構狂暴じゃからのう」

「確かに。狐や狸は人に恩返しをして交流を深める話があるが、イタチでそういう話は見当たらぬな」


 周囲の言葉を聞きながら、貂も本のページをめくる。一人で本を読むのも好きだけど、こうして誰かと一緒に本を読むのもなんだか楽しくてワクワクする。

 そう思いながら視線をページに注いでいると、あるものに目が止まる。イタチを描いた絵だ。絵に添えられた説明には、鳥山石燕という人物が描いたものだと記載されている。

 その絵には「鼬」という題名が書かれているが、ふりがなは「てん」と書かれている。

 数匹のイタチがまるで火柱に化けるかのように、群れを成すその絵を眺めていると


「……あ」

 と貂が何かに気づいたように声を漏らす。

「どうした?」

「ひょっとして、貂の化ける目的は『人を害する』ことなのかなって」

「どうしてそう思うんだい?」

 貂が思いついたことを述べると、狐が興味深そうに尋ねる。他の妖怪達も興味深そうに視線を注いでいる。

「えっと、自分がもし人を襲おうとしたらどんな化け方をするか、考えてみたんだけど。美しい姿に化けたりその辺の木や岩に化けたりして油断させたり、恐ろしい姿に化けたり。この絵に描かれているみたいに、数匹で火柱に化けたりとか。なんというか、魅了するためや化けることを楽しむ為に化けるよりも、バリエーションが多くなるんじゃないかなって」

「……ああ、なるほど。私はそんなこと考えつかなかったな。君は賢いな」

 本を開いて絵を皆にも見せながら告げる貂の言葉に狐は頷き、感心したように笑いかける。花がほころぶような笑みだ。

どきり、と貂の心臓がはねた。温めた蜂蜜を飲んだように、体の中に熱く甘い何かが満ちていく。

「いえ、僕は蛇神さんの言葉を聞いたり、狐さんが持ってきた本を読んで、そう思っただけで。それが無かったら、僕は貂が一番だと疑いもせずに、狐や狸を見下す嫌な奴のままだったし」

 自分の中の未知の感覚に戸惑いつつ貂は顔を赤らめて、もじもじしながら答える。

「謙遜するな」

 ほっそりとした白い手が、貂の頭をなでる。

 驚いて顔を上げると、蛇神が貂の頭に手を乗せていた。

「汝は根は素直で聡い子だ。だからこそ、先ほど皆に素直に詫びることができたのだ」

 ひんやりとした手に反して、その声は柔らかなぬくもりに満ちていた。思わず貂がはにかみながら微笑むと

「お、良い顔になったな貂」

 そんな貂に狸が声をかける。

「え?」

「最初見た時は危なっかしくて寂しそうな顔してやがったが、今はそうでもなさそうだな」

 狸の言葉を聞いて、貂は自分が何故あれほど変化の力を示そうとしていたのか分かった。

 寂しかったのだ。有名な狐や狸を上回るのだとうぬぼれるのではなく、自分だって彼らに並ぶ存在だと胸を張りたかったのだ。

 そう告げると、狸達は頷く。

「それなら、ここで俺たちと変化の特訓でもするか?毎日は無理だが」

「いいんですか?」

 貂は目を見張る。

「いいとも。君はもしかしたら、本当に私たちより変化がうまくなるかもしれないな」

 狐が微笑みながらそんなことを言う。

「はい、僕頑張ります。いつか狸のおじさんや狐のお姉さんと同じになれるぐらい」

 貂は目を輝かせて言う。胸の内は歓喜だけではなく、甘い高揚感に満ちている。

「それで狐のお姉さんをお嫁さんにできるくらい!」

 甘い高揚感に酔ってそんな言葉が口をついて出た。その後、目を見開き羞恥に顔を赤らめる。

「あ、あの。今のは」

 狸達は、微笑ましいものを見るように口元をほころばせる。

「そうかい、嬉しいな。じゃあ君が変化の能力を上げてお嫁にもらってくれるまで待ってないといけないね」


  微笑みながら冗談めかして言う狐の美しい顔を見て、貂は改めて頑張ろうと決意した。

  この甘い高揚感が本当に恋なのかは分からない。否、自分は分からないことだらけだ。だからこそ色んな事を知りたい。色んなことをできるようになりたい。そのために彼らから少しずつ学ぼう。


その後もにぎやかにあれこれ雑談を続け、とりあえず明日もう一度集まろうということが決まり、解散となった。貂は酔いが抜けた天狗に元いた場所まで送ってもらう。空は見事な夕焼けによって燃えるような茜色と海の底のような深みのある藍色、そしてそれらが混じり合って生まれた菫のような紫に染まっていた。

  目的地までたどり着くと、貂はアスファルトで固められた道に降り立った。夕闇に包まれた周囲に人の姿は相変わらずない。

「送ってくれてありがとうございました!」

「よいよい。ではまたの!」

 豪快な笑い声を響かせながら飛翔していく天狗を見送って貂は帰路につく。歩きながら、ふと胸元に手をやる。もう、胸の中に隙間風は吹いていなかった。


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