半分の半分の半分、それでも

目々

12.5%

 アパートの狭い玄関で踏みつけた空缶は骨でも踏み折ったような音を立てて潰れた。


 玄関を埋め尽くす、平たく伸された缶の残骸を拾い集めてビニール袋に放り込む。 袋の中で缶が擦れて立てる派手な音とは裏腹な袋の軽さに、何となくやるせないような気分になる。

 ドアの傍に潰れていた最後のひとつを拾い上げてしまい込む。体が反射的に作業の区切りを納得したがったかのように、やけに大きなため息が出た。

 顔を上げる。玄関から居間までを繋ぐ短い廊下の向こう、フローリングの床に所在なさげに座り込んだままの従兄と目が合う。


「ありがとうな、その、面倒をやらせて──」

「別にいいよ」


 こうしないと俺が今日泊まれないしと建前を口にすれば、従兄はなんだかぐちゃぐちゃの顔をしてから首でも折れたように深々と頭を下げた。


***


 従兄の様子を見てきてほしい、伯母からそんな電話が来たときは驚いた。

 血が繋がっている親族ではなく従弟に頼むという状況はあまりあるものではないだろう。一般的な感覚で考えれば、何かしら手出しを躊躇するような関係のしこりがあると勘繰られる可能性さえある。

 身構えつつ話を聞いてみれば、別段大した意図がないのはすぐに分かった。ただ年末年始に実家に顔も出さず、月に一回生存確認のように寄越す電話も短く簡潔になっていく一方な息子の生活や諸々が心配ではあるが、就職した成人男性に対して親がどうこう言うのも、という遠慮及び配慮と猜疑心の合間で煩悶した結果だろう。

 そこで偵察員兼交流役として、俺に白羽の矢が立った。

 年齢が近くて、それなりに友好的な関係を継続している親族で、大学二年生という時間の融通が利く立場にいる従弟。都合のいいことに住んでいるのも電車一本でどうにかなる程度の近所なのだから、任せたくなるのも分からなくはない。


 仲が悪いわけではない。そういう点では、伯母の見込みは間違っていない。

 従兄とは高校生の頃までは夏休みのたびに顔を合わせていた。お盆近くになると、累積した死人にまつわるあれこれのため父方の実家に一族郎党が集まるのが夏の常だったからだ。そうして集まる親戚の中では一番歳が近かったのもあり、よく相手をしてもらった。

 会議やその後の宴会で大人連中だけが盛り上がっているようなときに、することもなく二階で寝転がっている俺を探しに来てくれることもあった。

 五つ上という年齢差から考えれば、明らかに従兄の方が気を遣ってくれていたのだろう。そのあたりの親族間の社交儀礼としての部分を差し引いても、俺と従兄は趣味の方向性がそれなりに似ていた。


 色んなことを教えてもらった、と思う。

 俺がやたらに古い洋楽を聞くようになったのも、時代小説と官能小説に多少のベストセラーしか置いていないような田舎の本屋では見つけられないような作家の作品を読むようになったのも、見どころが分からない冗長で衒学的な文学映画からハリボテじみた怪獣が雑な合成のまま暴れ回るような感想に困る映画をそれなりに楽しめるようになったのも、煙草の匂いは隣にいただけでも長く残るということも、全部を夏の従兄から教わった。

 従兄が二年前に就職してから親族の集まりに顔を出すことも減り、俺も大学受験やそれに伴う諸々の準備に追われていたので、疎遠になっていたのも事実だ。それでも一応は過去の付き合いというものがある。

 だから伯母からの依頼は俺にも都合が良かった。この機会をきっかけにまた付き合いが再開すればいい。昔と違って今は近所に住んでいるのだから、何ならより気軽に交流ができる。

 いつかの夏のように、温くなった炭酸を片手にくだらない映画を見て馬鹿馬鹿しい雑談ができるようになるんじゃないか。そんなことを期待していた。


 入った途端に目に入った廊下とその先に続く居間の惨状を見て、これは思ったよりヤバい状況だと分かった。

 ペットボトルとアルミ缶が山と積まれた以外は何もない独房じみた部屋で、印刷の掠れたマイナーバンドのロゴが入ったTシャツを着た従兄は昔の記憶通りに眉を下げた気弱そうな笑みを浮かべてみせた。


 買い忘れたもんあるからちょっと待っててと来る途中に見かけたコンビニに戻り、とりあえずゴミ袋を買い足しに行った。

 再び玄関をくぐってから、すぐに清掃作業に取り掛かった。

 なにせ玄関から見える短い廊下の端に空缶とペットボトルの空がずらりと並んでいたのだからどうしようもない。見なかったふりをするか徹底的に始末をつけるか、どちらかを選ぶ必要があった。

 泊まるかもしれないという曖昧な予定は最初の方で伯母から伝えてもらっていたので、俺の寝る場所がないからという名目を提示してから問答無用で掃除を始めた。もしかしたらその横暴さは従兄の何かしらを傷つけたかもしれないと今更ながら思ったが、そんなことを考える余裕を持てるような状況ではなかった。そもそもあれほどに散らかった室内で生活を続けていれば、身体に何かしらの害があるだろう。スタンドにかけられた掃除機、その集塵部分に溜まった埃を見てそんなことを思う。二回は取り替えたはずだが、それでもあの溜まりっぷりだ。


 ようやく腰を下ろす余地ができた居間のフローリングに座り込んで、スマホを見る。入った時は昼頃だったはずだが、表示されている時刻を信じるならば四時間が経過していた。

 脱ぎ捨てられた服を拾い集め放置された雑誌と本を一か所に積み集めペットボトルを特大サイズのビニール袋に詰め込みテーブルの上に林立しPCデスクの下に袋いっぱいに詰められたままのチューハイ缶を玄関に運びひたすら踏み潰して、四時間。どうにか床が見えたときには達成感を通り越して徒労と征服感の混じった虚無じみた感情でいっぱいだった。


 俺がそうして賽の河原の石積みじみた真似をしている間に従兄が何をしていたかというと、唯一散らかっていないベッドの上で置き去りにされた子供のような顔をして黙って座り込んでいた。服を洗濯機に叩き込ませたまでは何とかなったのだが、雑誌を頼んだところ山を前にして動かなくなってしまったので、これは無理なやつだとベッドの上にいてくれと指示したのだ。


 ゴミ袋と一緒に調達してきた、パックの緑茶を手渡す。従兄は何度か瞬きをしてから、ありがとうなと何度目かも分からない礼を言った。


「何だったの、本の前で止まってたの」

「なんかさ、雑誌のサイズとか時期とかで規則正しくしまわないと駄目かなって思ったんだけどさ、どうにもなんなくってさ……」

「別に棚に入ってればいいじゃん。図書館でも本屋でもないんだから」

「ん……そうだね、お前の言う通りだ」


 なんか気になっちゃうんだよなそういうところ、と従兄は笑う。

 泣き出しそうなのをどうにかして繕おうとするような笑みに見えて、またそんな気配を俺に見透かされてる時点でどうにもならないなと思った。


「飯は」

「今日は朝にゼリーのやつが食べれたから」

「夜は」

「……冷食の焼きおにぎりあっためて食べるよ」

「俺が食いたいからピザ頼むよ。貰ってきてるから、金」


 従兄は何か言いたげに顔を歪めたが、俺と壁際に積まれた複数のゴミ袋を交互に見て黙った。

 テーブルの上の灰皿は何の面白味もないガラス製で、点けた電気と閉め損ねたカーテンの隙間から入り込む死にかけの夕日の昏い赤色が滲んでいる。

 この状況でも煙草は吸えてるんだ、という驚きとともに眺めていると、


「あ、お前いるから吸わないよ。未成年だろ」

「別にいいよ。つうかもう成人したから、七月誕生日だったし」


 俺が吸わないのはただ興味がないだけで、他人が吸っていようがどうでもいい。副流煙で縮まる寿命も肺胞も、それが致命傷になるのならばそういう巡り合わせだったということだと思う。どうせその辺りを気にしたところで、道で行き会った他人が鉈を振りかぶってきたら何もかもご破算だ。考えるだけ意味がない。


「そうか、お前成人してたのか」


 もうそんなに経ってたか、と確認するように呟いてから、俺に向けられた目は暗がりから日向をみるように細められていた。

 従兄は少しだけ視線をあちこちに彷徨わせてから、ついと立ち上がり台所の方へと消える。

 換気扇の回る音がした。

 しばらくして戻ってきた手にはパッケージとライターがあり、そういや調理台は物で埋まってなかったことを思い出す。普段は換気扇の下で吸っていたのだろう。

 ライターに小さな火が灯る。じりじりと煙草の先が焙られる。

 長々と吐かれた煙は知らない匂いで、なんか焼き鳥屋みたいだな、とどうでもいいことを思う。

 咥え煙草のまま宙を見る従兄の横顔がひどく虚ろに見えるのは考えすぎだということにしたかった。


「仕事さ、どうなの」

「どうって……」

「俺もさ、大学二年なわけだから。このまま何事もなく単位取れて卒論通ったら晴れて卒業して、あんたみたいな社会人になるわけだし。聞いておきたいなってだけだよ」

「お前は俺みたいにはならない、と思うけどな」


 そりゃあまあ、と雑に口にしかけた相槌を飲み込む。咥え煙草でこちらを見る目が恐ろしいほどに黒々としていたからだ。目の前の風景すら見ていない、ただ開いているだけの目は穿たれた穴のようだった。

 その穴の奥から何かが噴き出してきそうで、俺は直に視線を合わせないようにしながら話を続けた。


「やっぱりさ、大変なの」

「大変かどうかってのは分からない。辛い悲しい、みたいな話だったら仕事と関係なしにあるもんだし」

「それはまあ、うん」

「でも仕事、給料が出るからね。学生の頃は金払ってひどい目に遭ってたけど、仕事なら嫌になってもそれなりに金が貰えるから。まだマシなんじゃないか」


 従兄はゆるゆると煙を吐きながら、数式を説明するような調子で言った。


「別にね、そんなに面白くも辛くもないよ。やることはいくらでもあるし、やったことはすぐにどこかに片付くし……」


 賽の河原みたいだな、と返そうとして踏み止まった。流石にこの状況には不適切な気がしたからだ。


「隈すごいんだけど、それは何でよ」

「あ、普通に寝不足。寝つき悪くってさあ、布団に入っても二時間ぐらいごろごろしてんだよね。駄目だよねえ、自己管理ができてなくって」

「寝なよ。つうか休んだりとかできないの、有給とかあるんだろ」

「そうだね。けど、みんな頑張ってるからさ、俺だけそんなのうのうと休むのもなんか違うじゃん。しょうがないっていうかさ」


 勤労って社会の義務じゃん、と笑う。細くなった目元に添えられた泣きぼくろが何故だか妙に痛ましかった。


 この人多分死ぬんだろうな。

 直感じみた、それでも大幅に間違ってはいないだろう予感があった。


 今がまさに死にかけの真っ最中なのだろう。生活生命維持がここまでぎりぎりになっている時点でアウトだ。普通の大人は床を脱いだ服で埋めないし、空きペットボトルをそこらに転がしておかないし、空き缶の始末もつけられずに部屋の死角に袋に詰めて隠したりはしない。

 普通のことが普通にできなくなっている時点で、もう何かが破綻しているのだ。

 それを正直に言う気にもならずに、俺はパックに刺さったストローを噛む。

 ──止めを刺したくはない。

 現状を伝えて、転職なりなんなりを促して、ちゃんとした生き方をできるように協力する。関わるならそこまでするべきだろう。

 だが、そんな責任を負えるほどの関係かと言われると竦んでしまう程度には俺は卑怯だ。

 従兄は咥え煙草のまま、伏せた視線を上げようともせずに言った。


「けどさ、こうやってお前が来てくれるんなら、孤独死だけはしないで済むな」

「死ぬ予定があるみたいに言うなよ」


 内心を見透かされたような気がして思わず語気が荒くなる。

 従兄は右目だけを少しだけ瞠ってから、また何事もなかったような顔をして続ける。


「いや、分かんないからね、人間。俺の同級生もさ、こないだ全然前触れとかなく血管切れて死んだからね。若かったのにさあ」


 そうなると迷惑かけるけど、お前なら任せられるかな。


 従兄はこちらを見もせずに呟いて、天井に向かって煙を吐いた。


 この人が死んだら、葬式するんだろうな。

 灰皿に落とされた灰を見ながらそんなことを考える。恐らく喪主は伯父さんだろうし、それなら俺の家も参加しないわけにはいかないだろう。父からすれば甥なのだから、他人というわけでもない。

 それが俺の初めて参加する葬式になるのか。

 四親等という、遺伝子的には12.5%だけの類似。

 血族だと縋るには細く、友人だと庇うには濃すぎて、他人だと見捨てるには鮮やかな繋がり。中途半端な関係のくせに妙な実績を奪っていくんだな──そんなことを思った。


「あんた、何吸ってんの」

「ん?」

「銘柄。教えてくれ」

「……勧めないよ、こんなもん。金ばっかかかっていいことないんだから」


 いつかの夏と同じことを言って、従兄は眉間に皺を寄せた。

 俺は首を振った。


「そうじゃなくって、今じゃなくって。墓参りのときに、俺が吸ってやるから」


 しばらく間が有ってから、従兄が煙を吐いた。


「──ああ、そういう。


 それは確かに嬉しいな、と笑う従兄に言葉は返さず、俺はどうにか唇を吊り上げてみせる。

 換気扇の唸りが微かに響く。

 このまとわりつく煙草の匂いも染みついて消えなくなるんだろうかと、そんなことを思った。

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