きみの名前はルカン

ハル

第1話

 わたしは三十歳になったいまでもぬいぐるみが大好きで、かわいいぬいぐるみに出逢うとついお迎えしてしまう。


 おかげでいまやわたしの部屋には五十匹近いぬいぐるみがいて、わたしの居場所といったらベッドだけ――ううん、ベッドの三分の二だけだ。


 ある日わたしは、仕事帰りに寄った駅ビルの雑貨店で、サメのぬいぐるみに一目惚れしてしまった。


 コバルトブルーの背中にまっしろなおなか、つぶらな黒い瞳、丸っこい歯、ふっくらしたヒレ。口には手を入れられるようになっている。大きさは六十センチくらいで毛は長めだ。手ざわりもいいし縫製もしっかりしている。


 かわいい……。でもさすがにこれ以上増やすのは……。でもかわいい……。


 レジに連れていこうとしては戻り、連れていこうとしては戻りを繰り返したあげく、とうとうお迎えしてしまった。


 家に帰り、


「ほのか、あなた、またぬいぐるみ買ってきたの?」


 あきれるお母さんを適当にあしらって、自分の部屋に入った。


「ほ~ら、新入りくんだよ~」


 先住のぬいぐるみと顔合わせをさせ、膝にのせて撫でながら名前を考える。


 サメといったらジョーズ? シャーク? う~ん、もうちょっと変化球な名前がいい。


「サメ」「外国語」で検索してみたら、サメはフランス語で「ルカン」というらしい。


 ルカン。いい響きだ。何だか哲学者みたい……って、それはラカンか。


「よ~し、きみの名前はルカンだ!」


 高く抱き上げて命名すると、ルカンもうれしそうな顔をしたような気がした。


「今日からよろしくね、ルカン。早くうちになじめるといいんだけど……」


 新しいぬいぐるみをお迎えしたら、最低でも一週間はその子を抱いて寝ることにしているので、その日はルカンを抱いて寝た。色とりどりの魚がたくさんいる、コバルトブルーの綺麗な海で、ルカンと泳ぐ夢を見た。



 翌日、わたしは仕事でミスをして、上司の小林に油をしぼられるはめになった。


「あんたさ、何年この仕事やってるの? こんな初歩的なミス、入ったばっかりの新人だってしないよ?」


 ああ、メンタルがゴリゴリ削られていく。これ、絶対パワハラだよなぁ。


「だいたいあんたは注意力散漫なんだよ。誤字脱字とか聞き間違いも多いし……ほら、いまだってちゃんと聞いてないだろ?」


「聞いてますよ……」


 答えたとたん、


「ふ、ふ、ふ……ふははははは!」


 小林が笑って自分の首筋を触ったので、わたしはぎょっとした。何かにくすぐられたような笑い方だった。


 小林は怪訝そうに首をひねってからわたしをにらんで、


「何だその生意気な口ぶりは……」


 言いかけたけれど、また笑って首筋を触る。


 小林は何度も叩くように首筋を触り、


「きょ、今日はもういい! 次から気をつけてくれよ」


 とうとう席を立って廊下に出ていってしまった。


 どうしたんだろう。何かついてるようには見えなかったけど……。


 わたしはもちろん、ほかの同僚や後輩も啞然としていた。



 その三日後、買い物に行っていたお母さんからメッセージが届いた。


 スーパーの階段で足を滑らせてしまって、隣駅の整形外科にいるという。


 あわてて駆けつけると、お母さんは待合室にいた。


「お母さん、大丈夫!?」


 息せき切って訊くと、


「ええ、大丈夫よ。もう診察してもらってお会計を待ってるところなんだけど、ケガはすり傷だけだって」


 お母さんは苦笑して、包帯が巻かれた手をひらひらさせた。


「頭は打たなかったの!?」


「打ったんだけど、軽くだったのよ。念のため検査してもらったけど、異常はなかったわ」


 わたしは心の底からほっとして、へなへなとお母さんの隣に座りこんだ。


「もう、気をつけなくちゃダメじゃん……。でもすり傷だけで……特に頭に異常がなくてよかったよ」


「ええ、ほんとに……。でも足を滑らせたときは、絶対ひどく頭を打つ、ひょっとしたら死ぬかもしれないって思ったのよ。だけど……」


 お母さんはそこで口をつぐんでしまった。


「だけど?」


「ううん……何でもないわ。きっと気のせいね」


 ゆっくり首を横に振るお母さん。もちろん気になったけれど、いちおう事故といえるものに遭ったばかりのお母さんを、問いつめることはできなかった。



 翌週、わたしはひどい頭痛で会社を早退した。


 う~、肩こりからの頭痛にしちゃひどすぎる……風邪かなぁ。熱はなかったからコロナとかインフルじゃないと思うけど……。


 わたしの会社は二つの駅のあいだにあって、いつもは会社から遠いほうの駅を使っているのだけれど(そのほうが交通費が安く、会社はいちばん安い経路の交通費しか出してくれないからだ)、今日は近いほうの駅を使うことにした。いつもとはちがう路線を使うことになるので、途中まで定期は使えないけれど、それはしかたない。


 ふらふら歩いていると、視界の右側を青いものがよぎった。


 え、何、いまの……。


 思わず右側の路地に入ると、こじゃれたイタリア料理店からカップルが出てきた。女性は男性の腕に腕をからませて、二の腕に頬を押しつけている。


 男性の顔を見たとたん、わたしは凍りついた。まわりの景色も足元の地面も、ガラガラと崩れ落ちていくような気がした。実際この瞬間、わたしがそれまで信じていた世界は壊れてしまったのだ。


「りょうた……」


 自分の声がやけに遠く、平板に聞こえた。


「ほのか!? 今日仕事じゃなかったのか!?」


 言ったきり、亮太――結婚の話も出ていたわたしの彼氏は、口をぱくぱくさせている。いっぽう女性は動じるそぶりも見せず、勝ち誇ったような笑みさえ浮かべてみせた。わたしよりずっと綺麗でスタイルも良くておしゃれなひとだ。目の奥が熱くなって、視界がぼやけた。


「そのひと、誰なの……?」とか「どうして……?」とかいう決まり文句も出てこなかった。わたしは涙をこらえきびすを返して駆け出した。あんなにひどかった頭痛もまったく感じなくなっていた。



 帰ってくるなり、わたしは自分の部屋に飛びこんで大泣きした。


 やがてお母さんが帰ってきて、何があったのか訊きに来たけれど、わたしはとても話せる状態じゃなかった。お父さんが帰ってきたときも同じだ。晩ごはんも食べなかったしお風呂にも入らなかった。


 亮太からは何度もメッセージが送られてきたり電話がかかってきたりしたけれど、わたしは最初のメッセージしか読まず、しまいにはスマホの通知音をオフにしてしまった。最初のメッセージには、


〈マジでごめん! ちょっと魔が差したんだ。あいつがどうしてもって言うからほだされたっていうか……。ほんとに好きなのはほのかだけだよ〉


 なんていう、クソ下らない言い訳が書かれていたから。


 それでも寝るまえにはルカンに手を伸ばして――ふと止めた。


 ルカンをお迎えしてから、良くないことばっかり起こってる……。


 ルカンの笑っているような顔や、ずらりと並んだ歯が、急に不気味に見えてきた。


 結局その日は、最古参のぬいぐるみ――ゴールデンレトリバーの茶太郎を抱いて寝た。



 それから十日ちょっと。そのあいだ良くないことは起こらなかったけれど、わたしはルカンを抱いて寝ることだけではなく、ルカンに触ることもできずにいた。


 その日は土曜で、事情を聞いた親友の萌が飲みに誘ってくれていた。


「亮太のバカ野郎! 浮気者! 裏切り者! 人間のクズ! 人でなし!」


 わたしは次々にお酒を頼んで、萌が「そうだそうだ!」と加勢してくれるのをいいことに、自分の辞書に載っているかぎりの罵詈雑言ばりぞうごんを口にした。


 閉店間際までお店にいて、萌に駅まで送ってもらう。通過電車がホームに入ってきたとき、突然めまいがひどくなって、体がぐらりと前に傾いた。


 しかも、わたしがいたのは黄色い線の外側だった。泥酔していたから立つ場所なんて気にしていなかったのだ。


 え、落ちる……? 轢かれる……? わたし、死ぬの……?


 そりゃあのことがあってから、数えきれないくらい「人生終わった」って思ったけど、ホントに終わっちゃうのはいやだよ……!


 神様的な誰かに訴えたそのとき、何か青いものが胸にぶつかってきた。亮太の浮気現場を目撃するまえに見たものと同じだ。


「わっ!」


 尻もちをついたわたしの目の前を、電車が轟音とともに通り過ぎていく。


「大丈夫ですか!?」


 声をかけてくれた隣のおじさんに、震えながらこくこくとうなずいた。コートの襟をかきあわせて、乱れに乱れた呼吸を整える。


 あの青いもの、何なんだろう……。


 少し落ち着いてくると、もちろん浮かんできたのはその疑問だ。一瞬で酔いが醒めた頭で考えていると、ある答えがひらめいた。



「お母さん、階段で足を滑らせた日、何か言おうとしてやめたよね? ほら、ひどく頭を打つ、死ぬかもしれないって思ったとか言ったあと……」


 帰ってくるなり、わたしはお母さんに訊いた。


「え、ええ……」


 お母さんはたちまち困惑してしまった。無理もない。


「何て言おうとしたの?」


「だから気のせいだって……」


「お願い。教えて」


 まっすぐお母さんの目を見つめると、お母さんは小さく息をついてふっと微笑んだ。


「実は……頭をぶつける直前、何かに手をつかまれたの。ううん、つかまれたっていうより包まれたっていう感じだったわね。おかげでひどくぶつけなくてすんだのよ」


「その何かって……どんな?」


「人間の手の感触じゃなかったわ。やわらかくて手ざわりのいい……そう、それこそぬいぐるみに使う布みたいな……」


 やっぱり、さっきひらめいた答えは正解だったんだ。


「ありがと!」


 わたしは部屋に飛びこみ、


「ごめんね、ルカン。勝手に誤解して、淋しい思いをさせて……」


 ルカンをぎゅっと抱きしめた。


 ルカンは良くないことを招いてたんじゃない。反対に、良くないことからわたしやお母さんを守ってくれてたんだ。


 お母さんが階段で足を滑らせたときや、わたしがさっきホームで倒れそうになったときはもちろん、わたしを亮太の浮気現場に誘導したときもそうだ。あんなやつだと知らずに結婚していたら、あとでもっともっとつらくて大変な思いをしていたにちがいないのだから。


 ルカンをお迎えした翌日、小林がしきりに首筋を触っていたのも、そこにルカンがいたからではないだろうか。わたしを怒るのをやめさせるために――。


     ***


 それから、ルカンはわたしにとって特別なぬいぐるみの一匹になって、わたしはしょっちゅうルカンに「ありがとう」と言っている。


 もっとも、ほかのぬいぐるみにも言っているのだけれど。良くないことから守ってくれなくても、あの子たちがいてくれるだけでどんなに救われているかわからないのだから。


 ときどき、ルカンの向きや場所は置いたときと変わっているけれど、それもルカンが生きている証だと思えばむしろうれしい。

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