本編
【本編】
遥か昔、内陸に住む人達は食料を保存するのに塩を使っていたそうだ。塩一升が米一升と同じ価値とも言われていたことから、塩がどれだけ貴重だったかよくわかる。
塩は、日本海や太平洋で作られて塩の道を通って内陸へと運ばれていた。千国街道や三州街道、秋葉街道など、それぞれの塩の道の終わりにあるのがここ塩尻。塩尻という地名は、塩の道の尻のこと。つまり、海で採れた塩の旅の終着点という意味を持っているそうだ。
僕が祖母から聞いたのは、ここ塩尻にかつていたと噂される——
塩守というのは、塩の道を行く商人達の安全を祈願していた人達のことらしい。
塩の道の近くに建つ家の幾つかがその役に就いていて、道が使われている間は先祖代々続けていたそうだ。
噂でしか知らないのは、塩の道が使われている時に塩守がその仕事について他人に話す事がなかったからだ。皆が塩の道を忘れた頃になって、塩守の子孫がうっかり口にした事から、塩尻の一部でその噂が静かに囁かれている。
安全を祈願するといっても、塩守の活動は地味だったらしい。塩守の家は交代で毎日、小皿の上に塩で小さな山を作って家の前に置いたそうだ。そうすれば、塩の道を行く者を災いから守ることができると信じられていた。
本当に地味な仕事だけど、山奥では貴重な塩を盛り付けておくのだから、塩守は身を切るような思いだったかもしれない。
古くから、塩は邪気や穢れなどの悪い気を祓うとされている。だけど塩守達が貴重な塩を使って塩の道を行く商人の安全を祈願したのは、遠い海から塩を届けてくれる事への感謝の気持ちが大きかったからだって、祖母は言っていた。
しかし、やはりいつの時代にも天邪鬼はいるものだ。祖母はよく寝る前に、塩守の役を任されたのに塩を盛らずに寝てしまったケチな若者の話をしてくれた。
その若者が塩を盛らずに寝てしまった日は、風のない静かな夜だったそうだ。
いびきをかいて眠っていた若者は、ふと真夜中に目を覚ました。
「ん? なんだい、こりゃ」
若者は目をこすりながら床を眺めた。部屋の中に差し込んだ満月の光が、床に水面を映し出している。
トントン トントン(木を叩く音)
誰かが家の戸を叩いている。
若者が耳を澄ますと、
「もし……もし……」
と、囁くような女の人の声が聞こえてきた。
若者が戸の隙間から外の様子を窺うと、見知らぬ女の人が佇んでいた。身に纏っているのは、椿のような色の上質な着物。血の気のない真っ白な肌とカラスのように黒い髪が、月光に照らし出されていた。
若者は訝しみながらも、
「こんな夜更けに何のようだ?」
と、女の人に声をかけた。
すると戸の向こうからまた、か細い声が聞こえてきた。
「塩を分けてくださいまし。私はずっと南から、ここまで歩いて来たのです。塩を分けてくだされば、私は北へ参ります」
若者は、この女の人が塩を買い求めに来た遠くの村に住む人だと思った。
——さては、塩が買えなかったから、こうして家の戸を叩いて回って分けて貰おうとしているな。
そう考えたケチな若者は、この女の人に貴重な塩を渡すのが惜しくなった。
「ダメだ。どこの誰だか知らないが、あんたにやる物は何もない」
「塩を分けてくださいまし」
「ダメだと言っているだろう!」
若者は声を荒げたが、戸の向こうからは変らず
「塩を分けてくださいまし」
と、囁く声が聞こえる。
遂に若者は溜まり兼ね、戸を勢いよく開け放った。
「駄目だと言っているだろうが——」
しかし、戸の向こうに居たのはさっきの女の人ではなかった。
「ひぃいいいいいい」
若者は悲鳴を上げた。
そこには月明かりを遮るほど巨大な鬼がいた。鬼の頭は立派な角を持つ牛の頭で、手足の爪は鋭く光り、体は盛り上がる筋肉で覆われていた。
そんな異形の怪物を見上げた若者は尻餅をついてしまった。
「塩を分けてくださいまし。塩を分けてくだされば、私は北へ参ります」
轟々と唸る風のような声で、怪物は女の人と同じ言葉を口にした。
「わかった。わかった! 好きなだけ分けてやる!」
若者が塩の入った壺を差し出すと、牛の頭の鬼は塩をペロリと平らげた後、塩の道を北に向かって歩き始めた。その後ろ姿が幻のように月光の中に消えていくと、若者はようやく安堵の溜息を吐いた。
それ以来、若者が塩守の役目をサボる事はなかったそうだ。
僕が祖母から聞いた話はこれで終わり。
僕が思うに、その若者が会ったのは、
塩を何度も内陸に運ぶうちに、塩の道には海の香りが染み込んだんだ。だから海に住む妖怪が勘違いして、陸に上がってくるようになってしまったに違いない。
そしてここ塩尻は、太平洋と日本海のどちらからも塩が集まる場所だった。太平洋から陸に上がった牛鬼は、塩尻を通って遥か遠くの日本海へと抜けようとしていたんだ。
安全祈願に隠された塩守の本当の役目は、この牛鬼が塩を運ぶ人達に悪さをしないようにもてなす事だったのだろう。牛鬼が若者を襲わなかったのは、きっとそれまでの塩守達が牛鬼を丁寧にもてなして祀っていたからだ。だから牛鬼は神様のようになって、塩の道を行く人達の安全を守ってくれるようになったんだ、と僕は思う。
塩の道が以前のよう使われなくなった今は、塩の道を通る牛鬼もいなくなった。こうして塩守は役目から解放されたという訳だ。
実を言うと、うっかり塩守の事を話してしまったのは僕の祖母らしい。
そんな祖母は、今でも「良い旅を」と、玄関に小皿を置いて塩を盛り続けている。
全部、僕を楽しませようとした祖母の手の込んだ作り話かもしれない。
でも祖母が言うには、塩守の子孫には海に住む牛鬼との繋がりがあって、塩の道に残る潮の香りを感じることがあるらしい。
僕が感じた潮風は、もしかすると本当に塩守の名残なのかもしれない。
塩の道は潮が香る 木の傘 @nihatiroku
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