5-5 あなたには分からない
ぴく、と副市長の眉が動く。
キアラの腕を掴んだまま、ユッカへと顔を向けた。
「何だと?」
「あなたの発言は犯罪ではありません。しかし、貴方の発言が、キアラに害をもたらさないという訳ではありません」
「言葉は慎重に選んだ方がいい。店が営業できなくなってもいいのか」
「パパ!」
キアラが非難の声を上げる。とはいえ、ユッカはこの程度の発言に屈するような精神の持ち主ではないので、くすりと笑みを零した。
「面白いことを言いますね」
ユッカは視界の端から誰かが近づいてくるのに気づき、細く息を吐き出す。
ひとりではない。
そして、片方の人間は見たことがなかった。背が低く、小太りで、スーツのボタンは今にもはちきれそうだ。とてとてという擬音がぴったりな歩き方で近づいてきた男は、満面の笑みを浮かべて左手を挙げた。
「やぁやぁ、こんなところでどうしたんだい?」
誰かを認識した副市長は、ぱっと娘を離した。
勢いよくキアラは副市長から離れてユッカの後ろへと回り込む。
「市長こそどうされたんですか」
苦虫を噛み潰したような表情で副市長が尋ねた。
同時にユッカは腹落ちする。
わずかに市長から遅れて登場したのは、イトだった。
「あれ? ユッカ?」
「こんにちは」
「ちょっと待って。どうしてそんな他人行儀なの」
「他人ですから」
イトは、ユッカの態度に対して頬を膨らませて口を尖らせる。
「あなた……たちこそどうしたんですか。わざとらしくやって来て」
「友人と意見交換しながら散歩をしていたら、知っている顔を見つけたから挨拶しにきたのさ」
「へぇ。それはそれは」
(これまで起きたいくつかの事案、やけにすんなり運ぶと思っていたら……繋がっていたのは市長だったのですね)
市長と視線が合って、ユッカは軽く頭を下げた。
「フィウーメ川の堤防工事について、友人から意見を伺っていたところだよ」
「仕事熱心なことで。次の選挙対策も抜かりないでしょうね」
「いやいや、君には負けるさ」
市長と副市長はあまり仲がよくないというのは、会話の端々からも感じ取れた。
「とんでもありません。気を引き締めて頑張らせてもらいますよ」
副市長はユッカの後ろに立つキアラを一瞥すると、何かを言いたげにしながらも去って行った。
ユッカは副市長の後ろ姿を黙って見送る。
(イト。あなたには、分からないでしょうね)
「……ユッカ?」
思うところがあるのか、イトがユッカを見つめてきた。
とはいえ、燻る感情について、ユッカは説明する気もない。
「いえ。店に戻ります。よければ、キアラも」
「そうさせてもらうわ。今日は帰りたくないし、ちょっと今後の方針も考えたいし」
◆
「キアラ!?」
勢いよく『夜明亭』へ飛び込んできたのはグレタだった。
「大丈夫なの? その……」
「全然大丈夫じゃないわ」
カウンター席で、キアラは答えた。
席の前で立ったまま、グレタが俯く。それから、ぐっと拳を握りしめると、決意したかのようにゆっくりと顔を上げた。
「あのね、考えたんだけど、わたしの家に来る……? 今は父もいないし……。狭くて暗くて散らかっているけれど。って、キアラも知ってるよね。ごめん、それでもよければ……」
グレタもグレタで悩みながら話しているのか、歯切れが悪い。
仲がいいとはいえ家庭環境の違うふたりである。失礼にならないよう、言葉を選んでいるように見えた。
「……」
「そうね」
珍しく気弱な言い方で、キアラが応じた。
「宿泊費はきちんと払うから、お願いするわ」
「うん。……うん!」
ふたりのやり取りを、ユッカとイトはキッチンから見守っていた。
「……見回りは必要だよねぇ」
キアラがグレタの家に身を寄せるとなれば、副市長が連れ戻しにくることは容易に想像できるのだった。
「これは僕の役目かな」
そんなやりとりは聞こえていないグレタが、ぱっとキッチンへ顔を向けた。
「あの、実は今日、家でクッキーを焼いていたんです……」
「え? 食べたい食べたい!」
イトがカウンターへ身を乗り出して右手を挙げた。
「それなら、わたしはコーヒーを淹れましょうか」
「やった!」
ユッカはケトルで湯を沸かしはじめる。
一方で、いそいそとイトはホールへ回った。
「休みの日、練習してるんだ?」
「はい。今日は今までで一番上手に焼けました」
「すごいじゃん」
「美味しそうね」
楽し気な三人を眺めながら、ユッカは準備を進める。
ぱか、と瓶を開けると、それだけでコーヒーの優しくも深い香りが立ち昇った。
(いいえ。誰にも分からないでしょう、他人の考えていることなんて)
勇者のレシピ ~世界を滅ぼせなかった魔王の異世界食堂~ shinobu | 偲 凪生 @heartrium
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