猫のテブクロ

公園の街灯に照らされた木々が、夜風に合わせて揺れている。静かすぎるくらい、さやかに、さやさやと。あんまり静かだったので、僕はムギさんにちょっと小声で話しかけた。


「ねえムギさん、夜って静かなんだね」

「静かだね。誰も喋ってないからね」

「でも、僕たちがいなかったら、この木たちはお喋りしてたかもね」

「誰も見ていない時というのは、案外みんなお喋りなものだからね。そうかもしれないし、そうでないかもしれないね」

「猫が見てても喋らないの?」

「ぼくが見る限りは喋っていないね。きっと木の皆は、うまくやってるんだろうね」


2人だけで話しながら歩いていると、道路の端っこにオレンジの手袋が落ちているのを見つけた。しかも、片手だけ。拾い上げようとすると、ムギさんが僕を止めた。


「道に片方だけ落ちている手袋を拾うのは、もうちょっと待ってからの方がいいんじゃないかな」

「どうしてなの?」

「だって、かもしれないのだから」

「猫の手袋?」

「見ていれば分かるよ。ほら」


ムギさんの見つめる先を僕も見つめる。

そこに落ちている手袋がもぞり、と動いたかと思うと、ぷくっと少し膨らんだ。

口のところから煙のような白い物がもわもわ、しゅるしゅると流れ出てくる。


あれは、――糸。糸だ。


銀色の糸は街灯の光を浴びて、きらきらと光りながら手袋の口あたりでくるくると丸く何かを包むかのようにかたどっていく。あれは、――繭?


手袋の指も1本、また1本と空気を入れた風船のように膨らみ、真ん丸な繭の上に5本の指をぴん、と広げた。「拾うのはちょっと待ってね」と言っているかのようだ。


声も出ずに見つめていると、繭と手袋が一瞬、ふしゅ、と音を立ててちょっと萎んだ。まるで空気が抜けたかのようだ。そしてぴたりと動きを止めた。僕は思わずムギさんと目を合わす。


「あれが、猫の手袋?」

「うん」

「なんか繭なんだけど」

「そうだよ。猫は猫でも空気猫は繭から産まれるんだ。ほら」


ムギさんがくい、と顎をしゃくった先では、繭にみりみり、と亀裂が走った。かと思うと、そこからしゅるりと何かが這い出した。蛇? いや違う。あれは、尻尾。茶トラ模様のだ!


尻尾はきょろきょろと周りを見渡すかのように2,3度揺れると、勢いを付けてぶるん! と大きく回った。その動きに合わせて繭がぱかりとはね飛ぶ。


「にゃあ」


繭の中から仔猫が現れた。薄クリーム色でふわふわした毛に茶色の縞模様。頭にはオレンジの手袋を被っている。


手袋は茶トラには少し大きいようで、ぶかぶかだ。頭全体をすっぽりと包み、目深にニット帽を被っているかのようだ。


茶トラは、きょろきょろと周りを見渡し、途方に暮れたように夜空を見上げた。満月に相談でもするかのように。


「あれが、空気猫?」

「そうだよ。空気猫は、ヒトが片方だけ落とした手袋から産まれるんだ。そして、落としたヒトのところへと帰ろうとするんだけど……」


ムギさんはそこで言葉を切った。


「だけど?」

「帰ろうとするんだけど、帰れるか帰れないかはなんだ」

「ごぶごぶ。帰れるのは半分くらいって事?」


「うん。ヒトが手袋を落とすときというのは、何かをあきらめた時なんだ。何かを手放すしかないか、そう諦めた時にヒトは手袋を落とす。でもね、片方だけ落とすって事は、半分だけしかあきらめきれてないって時なんだよ」


があるんだね」

「そう。そのみれんが後押しして産まれるのが、空気猫なんだ。ひょっとしたら、まだ。いや、でも。だけど。そんなもやもやした意図が糸になって繭を作って猫になるんだよ。猫というのは、そういうものでもあるからね」

「そうなんだ。じゃあ、あの子も」


しばらく夜空を見上げていた茶トラは、満月への相談をあきらめたのか、すっと前を見て肩を落とした。しかし、すぐにぴん、としっぽを立てると、「にゃお」と一声鳴いた。そして、よどみなく夜道を歩き始めた。


「行ってしまったね」

「そうだね」

「あの茶トラのテブクロくんは、落とし主の所に帰り着くのかな」

「そうかもしれないし、そうでないかもしれないね」

「帰り着けるといいね」

「そうだね」


ムギさんと僕は、また夜道を歩く。テブクロくんと同じ道を行くのはなんだか悪い気がしたので、別の小路で。そして夜の散歩を堪能すると、2人で屋根裏から部屋へと戻った。


---


テブクロの事をすっかり忘れたある朝、朝ご飯を食べながらTVを見ていると、1人の画家がニュースで紹介されていた。


その画家は、事故で利き手を怪我して一度夢をあきらめたものの、残った手でもう一度筆を取って絵を描き続け、絵画コンクールで賞を取ったそうだ。


その画家の傍らには、1匹の猫がいた。インタビューに答える画家よりも自慢げな顔をして、尻尾をぴんと立てて。その茶トラの頭に、オレンジ色のテブクロを被って。


ちらりとムギさんを見る。ムギさんもこちらを見てこくりと頷くと、くるんと尻尾をS時に振って、朝ご飯のカリカリを齧り始めた。


僕もなんだか嬉しくなって、ご飯を1杯おかわりした。

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ムギさんと猫の🧤 吉岡梅 @uomasa

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