第5話 霞と千夏

 ここ数日、特に暖かい日が続いている。山奥の更に奥まったところにあるようなこの屋敷周辺も連日良く晴れ、珍しく安定した過ごしやすい陽気を保っていた。芝生を歩きながら、インスタントカメラであちこちを写しつつ、かすみは庭の中心部にある屋敷へと向かっていた。

 この屋敷に訪れるのも今年に入って何度目になるか知れない。ほかのマスメディアの介入は煩がる屋敷の主も、なぜか霞のことだけは快く受け入れ、またそんな主に習ってか他の住人達も非常に友好的に接してくれる。彼女自身、屋敷の監査を任されたルポライターとしての自分の立場を忘れそうになるくらいだ。

 それほどに、この屋敷には暖かさと物珍しさが詰まっている。


「先生!」


 後ろから甲高い声がしてやれやれと振り向くと、写真の弟子として最近ついて回るようになった少年が、興奮気味に顔を上気させながらこちらを手招いている。


「見て下さいこの花! なんていう名前でしょう…とても綺麗です!」

「さあてねえ、何て名前だろうね」


 まだ小学生である少年、草太そうたは、大して彼女の答えを期待していなかったかのように一心不乱にシャッターを切る。この子の好奇心を、霞は高く評価していた。何事においても上達に最も必要になるのは対象に対する好奇心である、というのが彼女の持論であったし、更に言えば写真の被写体に興味があるかないかでその写真の出来は全く違ったものになってくる。

 「知りたい」と言う感情は、使い方さえ間違えなければまさしく人類の英知だ。

 そんな事を考えながら、口では草太をせかして歩き出す。これから、その人類の英知を間違った方向に向けようとしている当人たちといささか会わなければいけないのだった。


「先生、逆光の場合の露光ってどうすればいいんですか?」


 歩いている間も幼い弟子は喋る事を辞めない。内心微笑ましく思いながらも溜息を吐きつつ、霞は努めて少年に併せてゆっくり歩いた。


「逆光だと露光はどうしても厳しくなるから、弱くフラッシュをたくかこちらからライトを浴びせてやるのが良いだろうね。もしくは――」

「あ、父さん…」


 全く気忙しい。草太が次に関心を向けた相手――彼の父親であるはなは、こちらの姿を見咎めてから待ち構えていたのだろう、柔らかく微笑みながら会釈してくる。霞は草太がこちらから離れて父親に駆け寄るのを残念なような、暖かいような、複雑な気持ちで見送った。


「おかえりなさい、草太、霞先生」

「ただいま、父さん!」

「先生は辞めて下さいよ花さん…」


 珍しく悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、花はただ黙って屋敷のほうへ霞を促す。彼女もようやく観念した様で、その病室に向けて歩き出した。



 薄暗く、この気候の中でも寒く感じるような、そんな病室だった。部屋の主、千夏ちなつは、それなのに冷や汗をひっきりなしに流しながら、感情の通わない顔を霞に向けた。


「こんにちは。守備はどうなの?」

「芳しく無いですわ、千夏お嬢様」

「そう」


 尋ねておいてさして期待もしていないような返答を返しながら、千夏は枕元に置かれた水瓶からコップにミネラルウォーターを注ぎ、一気に飲み干す。

 ――相変わらず具合が悪そうだ。


 この屋敷にかくまわれている千夏は、裕福な富豪の家に生まれた。しかし、筋肉や脳の発する熱量が人の十数倍、という奇病を持って産まれたために、ほぼ外気に触れることなく今まで過ごしてきた。両親がこの屋敷の存在を知ってからは、主である若き医師の力に頼りきりになり、千夏は独りこの屋敷の特別治療室に幽閉されている。

 霞は、そんな彼女の手足となって情報を集めるべく画策する立場にあった。同時に、屋敷と若き主の身辺調査をも千夏の両親に任されていたのだ。当初、自分は捨てられたのだと思い込んだ千夏は、荒れに荒れた。そんな彼女の心を溶かしたのは、まぎれもなくこの屋敷の住人や深い自然達であり、そしていつしか千夏は住人達にあだ名を付けて楽しむようにまでなって行った。「千夏」という彼女自身の呼称ですら、自分自身で名付けたものだ。

 霞には、彼女が親の付けた名前になんとか刃向おうとしているようにも見て取れたのだが。


「この所はお具合はいかがです?」

「悪くないわ。良くも無いけれど。あ、でも、五郎ごろうがね。最近よく絵を描いて見せにくるの。毘沙びしゃもいやいやついてきて、それでやけに賑やかになるのよ」

「そうですか。それは良かったですね」

「ええ。退屈しないわ」


 千夏は相変わらず感情の伴わない表情で答えたが、それは表情筋の活動を抑制して少しでも熱を下げるためだと霞も分かっていた。

 まったく、自分も千夏も丸くなってしまったものだ。この広大な屋敷に、自分達はもしか、居場所を見つけようとしているのだろうか。誰も信じないと一度は誓った自分達が。


 ひんやりと冷たい病室で、我知らず自分の片手をもう片方の手で握りしめて、霞は回想に浸る。雇い主の少女も同様であったようで、ただしんしんと降り積もるような静寂が流れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

畜生の家 山田 唄 @yamadauta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る