第4話 花と草太

 生垣の刈込を粗方終えると、庭師は長く深く息を吐き出した。彼――はなが、この屋敷の庭の手入れを仕事として買って出たのは、実は成り行き上仕方なくであった。今の主が、元の主が放棄した廃屋の様なこの屋敷を買い取った時についてきた広大な庭を、誰かが整えてやらなければならなかったのだ。

 家財一切を残して使用人だけを引き払い出て行った元の住人の残した庭には、元々はバラやボタン等季節折々の花々が植えられ、一年中それは華やかであったと言う。だが、それもお抱えの庭師が何人も付いていた頃の話だ。屋敷と土地が今の主である若い医師の手に渡った頃には、もうそれら花々の株はすっかり雑草に食い尽くされてしまい、人が歩いて通るのさえ難儀するような荒れ具合を見せていた。


 医師、木偶でくはとにかく無精な性格であったから、当初より「屋敷が住める状態であるなら、庭はこのままで良い」などと突っぱね、適当に家屋の改装を済ませてからは言葉通り他は放置したきりだった。

 医師の気持ちが数週間経とうとも変わらないのを見てとって、花は呆れた。そして、借りにも「花」という名を持つ自分が、この屋敷に拾われたのも何かの巡り合わせなのか、などと思った。

 それが彼が庭師として志願した、実に些細な理由だ。

 それからは毎日が、庭仕事の教本と自分自身での試行錯誤の繰り返しであった。


 今、屋敷の庭には、巨大な特設の温室まで設けられ、その他にも数株ずつ数十種類の花や木々が植わっている。将来的にはもっと増やすつもりでいた。屋敷に越してきた頃に生まれ、今はもう小学生となった息子の草太そうたも、そんな自分の仕事ぶりを見ているうちに自然と手伝いを覚え、今は草花の写真撮影にどっぷりハマっている。


 草太の成長と共にこの庭の成長を見守るのが、今の花の心からの楽しみであった。



 鷹枝ばさみを折りたたみ、籠に収め直していると、向こうから使用人として屋敷に住まっているみどりがやってくるのが見えた。軽く会釈すると、向こうはにっこりと笑って手を振る。そうされてようやく、また自分が笑顔を作っていた事に気付いた。


 いつからか、表情を柔らかくして振る舞う事が増えたように思う。偶に木偶に、「お前はいつも穏やかで涼やかだな」などという彼らしからぬ褒め言葉を投げられ、それにも当たり障りないよう苦笑して返していた。心から笑えなくなったというわけでは無いと思っている。息子と、そしてまるで実子のような住人達に囲まれ、自分の生活はごく恵まれていると知っている。それでも、時折暗いものが心の奥のほうからじわじわと染み出してくるのを感じていた。

 それに飲まれて誰かを傷付けてしまえば、もう戻れないのだとどこかで悟っていた。


「花さん、お疲れ様です」


 とことこと軽い靴音を響かせながら駆け寄ってきた翠は、少し息を整えてからまたにっこりと笑う。本当に気立ての良い娘だ。あの人の使用人などにしておくのはもったいない。そこまで考えた自分に内心で苦笑して、表面上は穏やかに首を傾げ、相手の要件を促した。


「えっと…木偶先生がお呼びです。草太君から手紙が届いたそうですよ」

「さようでございますか。わざわざありがとうございます」

「先生ももうちょっと考えてくれればいいのにと思いますよね…その…花さんの忙しさとか色々」


 眉根を寄せる表情ですら愛らしい。花は自分の埃と草いきれにまみれているであろう姿を俯瞰して、かすかに居心地の悪さを感じた。


 花は、元々は翠のような美しい女性であったから。



 その年若い医学生と恋人として付き合い始めたのは、親が勝手に進めてきた縁組に依るものであった。

 表面上和やかに、「ではお互いを知るために結婚を前提とした付き合いから」という話になっていたが、この結婚を止めることが出来ないのはもはや医学生も花自身も承知していた。だから彼との付き合いは、いつもぎこちなく双方笑顔のまるで見られない、機械的なものであった。

 何度目かのデートの際、彼がまるで無関心なように差しだしてきた手を握った時、死んだように体温の無い人だと思った。ときめきは、無かった。


 そんな彼との関係が一変したのは、婚前に万全を期しておこう、という趣旨で、彼の配属先となる大学病院での医療検診を受けた時だった。


 検査結果を聴きに来ただけだと言うのに、周囲が無言のまま重苦しい空気を放っているのが、まだ女学生であった花にも分かった。病院の長である院長が呼ばれ、仰々しくその後ろに連なる医師たちの中に恋人も居た。院長は、緊張の為かやや青白い顔をハンカチで撫でまわしてから、小声で早口に花の病名を告げた。そして逃げるように病室を後にする。

 医師達や親族たちが引き払って行った後に、恋人と花が残された。


「どういう事ですの? わたくし、どうなるので?」

「…すまない」


 普段表情筋の一つも動かさないような恋人が、青ざめた顔をして震えていた。


「君の染色体に異常がみられるんだ。このままだと君の性別はXXからXYに。つまり、男になる」


 震える声で、努めて淡々と病状を告げる彼の体は、次第に力を失ってその場に崩れ落ちた。


「すまない」

「…構いませんわ」


 花は自分でも驚くほどに落ち着いていた。


「ただ、お願いがありますの」


 男になる前に、あなたの子を産ませてくださいませんか?


 結婚が破談になってから正式に医師になった元恋人は、花の子どもに名を付ける役割を自ら買って出た。だが、自分が本当の親だと名乗る事だけは決してしたくないと懇願した。



「失礼致します」


 書斎の重い扉を叩くと、昼間であるのにカーテンを閉め切った室内から木偶がのっそりと顔を出し、目の下の隈をがしがしとこすりながら椅子を勧める。従うままに腰かけた花を待ってから、木偶は机の上から封筒を取り上げた。


「聴いてると思うが、草太から手紙が来たよ。霞かすみの元で写真修行とはよくやるものだが…彼女も驚くほどの上達速度だそうだ」

「その手紙…木偶先生が読んでくださいませんか」


 毎度の頼みであったが、いつものように木偶は少し顔をしかめ、しかし溜息をついて同意する。子どもらしい賑やかなキャラクターの描かれた便箋から手紙を取り出し、ゆっくりと噛み締めるように音読し始める。


「”お父さん、木偶先生、こんにちは。お元気ですか。僕は霞先生の元で毎日毎日写真を撮りまくって居ます。今気に入っているモチーフは野生の虫なんだけど、霞先生はあまり褒めてくれません――”」


 自分の顔が自然と笑顔になっている事に気付き、花は温かいような冷たいような、不思議な気持ちでその太い声に聴き入った。ホコリ臭い書斎の中、朗々と元恋人の声が響く。

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