第3話 毘沙と研
昨日まで数日間降り続いた雨も上がり、今日の空は雲も疎らな快晴であった。少年は屋敷の広い庭を横切りながら、この天気のおかげで今日は屋外でゆっくり本が読めそうだ、と小声で呟く。
誰に聞かせるわけでもないのだが、何かにつけつい独り言を言ってしまうのがこの少年の癖だった。屋敷を束ねる医師、木偶でくには、その癖を前々からからかい半分に指摘されており、しかしその行為は恐らく少年の複雑な思考を纏めるための手段なのだろう、という推論も聴かされていた。
とは言え少年にとっては別段どうでも良い事であったし、ここ数か月の最大の関心事は事実、全く別の所にあったのだが。
屋敷の庭全体に敷き詰められた、柔らかな芝生の感触を楽しみながら歩いていると、手前から丸い影が近づいてくるのが目に入った。
丸く見えたのは、その影が大きな荷物――庭仕事道具の入った籠を背負っているからで、実際に背負っている人物は男性でありながら小柄で華奢な体付をしている。十歳以上歳が離れているはずの少年のほうが、まだ筋肉質に見えるほどであった。少年自身も決して体格が良いわけでは無いが、それだけにその庭師が大仰な道具を背負って軽い足取りで移動できる理由がとんとつかめない。この屋敷は少年にとっておかしなモノ達ばかりで、だからこそ興味が尽きないのだ。
「やあ、
いつも通りの気まぐれを起こした少年が不意に声を掛けるが、庭師の花は特に驚いた様子も見せず、いつも通りニコニコと笑みを浮かべた顔を傾けて軽く会釈する。少年はなんとなくむずむずとして、そんな自分の心中を「これが憧れというものなのか」と分析した。
花はその温厚さから屋敷の誰にも好かれており、あの年がら年中能面顔をしている木偶ですらも時折笑顔を向けるほどだ。ただ、その裏に何かある気はしていた。少年はまたぼそっと「いつかあばいてやるからな」とつぶやく。
その物騒な言葉にも頓着せず、庭師はもう一度こちらに会釈して歩き去って行った。全く読めない人間ばかりで面白いったらない。
そんな少年にも苦手な人間が一人いた。この屋敷の住人、
要するに二人は犬猿の仲であった。
少年は毘沙に出くわさないよう、最小限の注意を辺りに向けながら、特設の温室へと向かう。そこは、同じく屋敷の住人である五郎ごろうの為に設えられた特殊ビニールの植物園であり、先ほどすれ違った花が様々な南国の植物を育てている、屋敷の住人達にとって共通の憩の場所だった。
晴れているにも関わらず少年がそこに向かおうと思ったのは、やはりこれもいつもの気まぐれである。片手にぶら下げた分厚い法学書をぶらぶらと揺らしながら、庭の一際奥まった場所にある温室へと歩いて行く。
しかし運悪く、その相手に出くわしてしまった。
毘沙は今まさに温室から出てきた所であったらしく、二人は出入り口の真ん中でばったりと向かい合う形になる。「出やがった」と呟いた少年の言葉を聞きとがめた彼女は、切れ長の目を更に細めてこちらをにらみ上げてきた。
「出やがったのはそっちじゃねえか。いつもあたしのテリトリーをずかずか荒らしやがって」
「君のテリトリー? 聞き間違いじゃなければ君の勘違いだと思うね。この屋敷は”畜生の家”なんだろう?」
「すかしやがって…!」
気が付くと少年の体は地面から四、五センチばかり浮いていた。毘沙が少年の襟首を片腕で掴み、持ち上げているのだ。毘沙は、筋肉と腱に掛かっている制限が常に外れている状態になる。脳内の興奮物質を生み出す部位に障害があるらしく、それだけに己の感情の制限も同時に失っていた。「相変わらずの怪力だこと」と呟いた少年に対して、少女はいよいよ切れたらしくそのまま放り投げる動きに入ろうする。その腕を後ろからがっちりと掴む者があった。
「毘沙姉ちゃん、辞めてよ!」
どうやら温室から出て来たらしい五郎であった。外の騒ぎを超聴覚で聞きつけ急いで駆け付けたのであろう、保護服すら身に着けていない姿である。それでも怒りの収まらない様子の毘沙だったが、五郎の額から大量の汗が吹き出し、顔がみるみる青白く変色していくのを見て慌てたらしかった。
「…わかった…! 良いから五郎は温室に戻りな、このままじゃ…」
「お前も人の事は言えんぞ」
更に第四者の声が介入してきた。声の主――木偶は、目の下の隈をがしがしとこすりながら、空いた左手で毘沙の腕を指差す。
「今ので筋組織がかなり切れてるはずだ。それ以上無理をすると一週間は安静だぞ」
「…ちっ」
彼女が腕の力を弱め、少年は急に手を離されて芝生に腰を突く格好になった。だが、その場の誰もが少年の非を認めていたため、騒ぎはそれで沈下したらしい。若き医師はポケットに常備しているらしい特殊繊維の包帯と湿布を取り出すと、それを五郎に手渡した。
「そこの暴力娘に巻いてやってくれ。お前も、念のため湿布を肌に貼っておくんだぞ。直射日光を浴びて神経にダメージが来ているはずだ」
「…はい。ごめんなさい」
「分かっているなら良い。気を付けたまえ」
そしてしっしと犬を追い払うように少女と五郎を温室に追い立てる。その場に残された少年は、ズボンを払いながら立ち上がると木偶に一礼した。
「それで敬意を表したつもりかね? 家出少年君」
「これでは足りないのかな? なんなら靴でも舐めましょうか?」
「ふん、相変わらず口の減らない子どもだ」
言葉の割に無感情に言い放った木偶は、くるりと背を向けて去って行きかけたが、数歩行った所でまたこちらに顔だけ振り向いた。
「で、
「さあ。きっと先生が期待するような事は、何も」
「ふん」
今度こそ興味を失くしたらしく、若き屋敷の主はあくびをしながらその場を去った。取り残された少年――研は、「期待してない所はそれなりに」とまた独り言をつぶやいて、今度こそ落ち着いて読書できる場所を探すために自らもその場を去った。まだ昼にもならない晴れた庭には気持ち良く日が差し込み、緑が青々と映えていた。
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