第2話 五郎と楓

 しとしとと冷たい雨が降っている。その無数の滴は、傘を差し弟の元へ向かう少女の体温を容赦なく奪っていく。それでも少女は、片手に握りしめたもう一本の傘を大事そうに抱えて、ただひた走った。


 新しく弟が出来る、と言われた時には、少女――かえではまだ物心も付かぬ年頃であり、また弟も同じ年頃であったからお互いその当時の記憶はない。楓の一番古い弟との記憶は、障害のせいで奇抜な格好を揶揄される弟と、その小さな手を握って、覚えたての言葉で必死に弁護する楓自身、というものだ。

 そんな酷い記憶であったけれど、楓は弟を見るたびにそのセピア色の情景と自分たちの怒鳴り声を鮮明に思い出す。そして、弟を何とかして守らなければ、と、幾度も幾度も決意を新たにしてきたのだった。


 弟は、五感が発達し過ぎるという症状を抱えているために乳離れもせぬ頃に親族から見捨てられ、孤児院を転々としたうえ、小さい頃から隔離施設で育ったらしい。そして、膨大な治療費と健康維持費をつぎ込まれ、ついには隔離施設に実験体として取り残されてしまった、と聞いていた。まだ小学生に過ぎない自分には全く想像できない話だ。

 だけれど、両親が弟の頭を注意深く撫でながら、”楓が守ってあげるのよ。この子が自分に壊されてしまわないように”と繰り返し言う物だから、それが自分の役割なのだと疑いも無く信じた。

 自分の後ろを、仰々しい保護服を着た格好でいつもちょこちょこついてくる彼を、疎ましく思ったことが無いわけではない。


 それでも、弟は楓の世界の全てだった。

 それはあの屋敷で「五郎ごろう」と呼ばれている弟が描いた絵を見た時からだろう。



 五郎の絵は、不思議と鮮やかな色彩で満ちていた。彼自身は視覚すら拡張される障害持ちであったから、鮮やかな色は目に痛いはずだ。

 それなのに、五郎が筆を持つとまるでそこから血が滲み、色づいて行くように、鮮烈な色彩が迸った。五郎の絵がある展示会に張り出され、大物らしい絵描きが楓の家を訪問しに来た事さえあった。


 しかし、そんな大人の都合めいた事実よりも何よりも、楓は五郎の描く世界に魅せされていた。きっとこの幼い弟の内面も、豊かな色彩に溢れているに違いない。

 楓は、そんな弟の心を守る事が出来る事に、何より誇りを感じていたのだった。



 電車を幾つか乗り継いで山の麓までくると、そこからはモノレールに乗って五郎の居る屋敷に向かう。弟がかくまわれている屋敷は酷い山奥にあって、しかしだからこそマスメディアや国の煩い干渉を避けられるのだと、屋敷の主である木偶でく先生が語ってくれた。

 両親や屋敷のそばに住んでいる人達は先生を偏屈な変わり者だと言うけれど、楓には彼がとても繊細で優しい人に思えてならない。ただ、いつも怯えた目をしていると思っていた。小学生の彼女には、それが何に対する恐怖か分からず、また五郎たちにとって特別な事なのだと気付きもしなかったのだが。


 モノレールに揺られている間も雨は益々強くなり、車窓のガラスをびたびたと打った。弟の事が心配になる。この雨では雨音も雨の独特の匂いも、弟にとってひどく辛いものになっているはずだ。

 モノレールが屋敷近くの駅に滑り込んだところで、楓は勢いよく駆け出した。



 自分の傘を差し直す時間が惜しい。二本の傘を両腕にぶら下げたまま、全速力で屋敷の広い庭を横切る。弟が、保護服姿で自分の名を呼び震えている姿が見えるようだった。


 やがて、庭の一角に構えられた巨大なビニールハウスに近づく。弟が保護服無しでも過ごせるよう、一定の湿度と温度に整えられた、特注の砦。

 その半透明の壁の向こうに、五郎のものらしい影が揺らめくと、超聴覚で自分に気付いたのだろう、壁にぴったりと手を付けてこちらに笑顔を向けてくる。…特殊ビニールの感触は、特に超触覚を持つ五郎にとって心地よいものではないだろうに。


「楓姉ちゃん!」


 五郎が叫ぶ。隣で屋敷の住人である毘沙びしゃが、そんなに大声を出すと超聴覚に触るから、と宥めているのがわかった。それでも五郎は満面の笑みを浮かべながらこちらにちぎれそうなほどに強く手を振る。


 同じように勢いよく手を振り返しながら、楓は冷えた身体と裏腹に温かな気持ちに満たされた。

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