畜生の家

山田 唄

第1話 翠と木偶

 とっぷりと日が暮れた刻限であった。屋敷に無数に備えられた窓の外は漆黒に沈み、そこここに見える真っ黒な茂みの陰が時折僅かにガサガサと揺れた。みどりは毎日のように眠気をこらえながら、この屋敷の主の元へと長い廊下を急いでいた。

 彼女は日の光を十分に浴びていなければ活動できない、という奇病を持って産まれた。医者にも両親も匙を投げられ、孤児院に預けられるものの病気のせいでろくろく友達も仕事も出来ず、路頭を彷徨っていた所をこの屋敷に召し上げられた。屋敷の主で、他の住人達から「先生」と呼ばれているその若き青年は、まだ高校生だった彼女を一瞥するなり、こう言った。


「君には二つ選択肢がある」

「え…何のことですか」

「待った。今質問する権利はその選択肢に含まれない」


 「先生」の横柄な口調と物言いに少なからずむっとする。そんな彼女の様子にも無頓着なように青年は続けた。


「さて、君に与えらえる選択肢だが…ここに住み僕の為に働くか、死ぬか、だ」


 書類机の前の重厚な椅子に腰かけた審判者は、そうやって判決を告げる。


「選びたまえ」


 まったく無慈悲な世界だ、というのが、その頃まだ「翠」と呼ばれる事もなく、別の名前をかろうじて持っていた彼女の結論だった。そして彼女は身を委ねることにした。この無情な世界の、無情な支配者の手の元に。




 そして「翠」と名乗る事になった彼女は、薬の力で体内のある物質を補うことで、夜の間も多少無理をすれば活動できるようになっていた。翠は感謝している。植物のように物言わぬ人形になってしまう夜の自分を救ってくれたのは、ほかならぬ「先生」であったから。


 むやみに豪華な稠度で設えられた廊下を抜け、翠は主の部屋の前へとやってきた。主――木偶でく先生は、自室にしているこの書斎以外にはほとんど顔を出さない。ほぼ一日中書類とコンピュータと格闘している。何のためなのかは翠には良く分からなかった。ただ、他に出来る事もなかったので、木偶の世話をすることを仕事として買って出た。

 今ではその仕事に誇りを持っている。せいぜい食事を届けたり、先生のベッドを整えるだけの仕事であったが。


 木偶の書斎の前までやってきた翠は細く息をついた。

 彼女の両手は木偶の夕食を乗せた盆でふさがっている。そのためいつも大声を出して木偶に扉を開けて貰わなければならなかった。今夜も大声を上げようと息を吸い込んだとき、急に扉の向こうから声が飛んできた。


「今開けるから。待ちたまえ」


 言葉通り、すぐに扉が内側に開いて屋敷の主、木偶が顔を出す。また何かわからない仕事で根を詰めていたのだろう、今すぐにでも倒れてしまいそうなほどに顔は青白く、瞳が充血している。しかし、その点に触れ心配でもしようものなら癇癪を起して怒鳴り出す木偶を、翠は良く知っていた。そこでいつも通り黙って一礼する。


「うん、ご苦労。食事を持ってきたのだね、頂くよ」


 いつにも増して誰に聞かせるでも無くつぶやくような小声で言うと、片腕でがしがしと目の下をこすりながら、木偶先生は乱暴に翠の持っていた盆を奪い取った。部屋にこもりっきりの引きこもりであっても妙齢の男性である、それなりに力はあるのだろう。軽々と盆を手にした先生は、一つあくびを漏らしてからのそのそと自室の中に籠り直そうとする。翠はその姿に何か違和感を感じて木偶のだらしなくシワの寄ったシャツの裾を掴んだ。


「あの…!」

「!! …なんだね、驚くから大声を出さないでくれないか」

「あ…すみません。その…どうかしたんですか? いつも割と変だけど、今日はいつにも増して様子がおかしいと思って」

「…失礼な小間使いだ」


 どちらが失礼なのか分からないような暴言を吐きながら、木偶はまたがしがしと目の下をこすると、小さく翠を手招きした。従うままに木偶の書斎の中に入って行くと、部屋の主は盆を適当に机の上に放ってから、どっかりと椅子に腰かけた。

 翠は少しどきりとする。初めてこの屋敷に来た時の彼との会話を思い出したのである。


 そんな彼女の様子も気にせず、木偶は自分の耳の辺りをまさぐると、小さな奇妙な形のものを取り外してこちらのほうへかざした。


「…これだよ」

「あ。…補聴器、ですか」

「そうだ。見てのとおりね」


 なるほど、この青年は補聴器を付けてその感度設定を通常より上げていたのだ。だから彼女が部屋の前までやって来ている事にも足跡で気付いたし、大声を出すと煩がったのだろう。


「でも、なんで…?」

「いや、五郎が…」


 五郎、というのは、この屋敷の住人の一人で、まだ小さな小学生程の男の子である。正確な年齢が分からないのは、五郎の患って居る病気がとても深刻なものであった為に、彼が幼少期の内に親から捨てられ、拾ったのが今の彼の両親だからであった。ちなみに、「五郎」というのもこの屋敷の者達が使う特有のあだ名である。「翠」という名もそうであった。


「五郎は五感が発達しすぎるタイプの障碍児だ。あいつの脳には、常に嗅覚、視覚、味覚、聴覚、触覚の情報が数十倍に拡張されて鳴り響く」

「…それで、その聴覚の部分だけでも体験してみよう、と思ったわけですね」

「体験する、か…」


 木偶はやけに自嘲気味に呟くと翠から視線を外した。


「実験だよ。とにかく君らのデータが欲しいからな、僕は」


 そんな様子の木偶を見て、つい吹き出す。じろり、と気まり悪げな目線を投げてくる屋敷の主に、翠はちょっと反省しながら笑い顔を元に戻した。


「まあ、それだけだ。自室に戻って就寝したまえ」

「分かりました。…あ、でも、先生」

「なんだ?」

「…いえ、その…」


 案外優しいですよね。そんな言葉が出掛ったが、相手が更に機嫌を悪くするのが分かっていたので黙っていた。全く素直じゃ無い。わざわざ自分を自室に入れて話したのだって、今の会話を他の人間に聞かれたくないからだろうに。


 またニヤニヤするのを抑えながら、翠は木偶の部屋を後にした。窓の外からの月明かりに、木偶から貰ったものかあくびが漏れる。今日も良い夢を見られそうだ。

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