Mr. Self Destruct

 どれほど時間が経っただろう。鉄の扉の向こうが騒がしい。


 階段を駆け上がる軽い足音が聞こえた。振り返ると真っ青な顔をしたダグが立っていた。

「全然戻らないから呼びに行ったら、炉心で何かあったみたいだって……エリヤ! 船長! 嘘だろ?」


 ダグは足元に転がるアハズヤの死体を見て悲鳴をあげる。ダグが何度揺さぶっても、アハズヤは動かない。


 俺は前髪を下ろし、引き攣れた凍傷を隠す。そして、ダグの元に屈み込んだ。

「何があったんだよ、イシュー……」

「エリヤが暴走したんだ」

「そんな!」

「奴は最近おかしかっただろ? 船長を殺して、人魚を助ける妄想に取り憑かれたんだ。俺とクイグリーで毎日説得したが無駄だった」

「エリヤが船長を殺したのか?」

「ああ、止めようとしたが遅かった」


 ダグは怒りに震え、アハズヤの冷たい手を握った。

「イシューが船長の仇を打ったんだな……」

「船員として当然だろ」

 俺は船長と同じ微笑を作って見せた。


「聞いてくれ、ダグ。エリヤのせいで炉心の人魚も死にかけている。このままじゃ船が止まる」

「船長もいないのに、どうしたら……」

「ああ、困ったな。だが、船長から聞いた話じゃ、人魚の代わりは人間でもできるらしい。人魚の肉を食わせれば同じように変異するとか」


 俺はダグの震える手を取った。

「ダグ、猿を捌いたことがあるんだってな?」

「そう、だけど……よく知ってるな」

「知ってるさ。お前は誰より経験豊富で、料理長に向いてる」

 ダグの目に場違いな喜びの色が映ったのがわかった。俺は手に力を込めた。

「やれるだろう、ダグ? 船長殺しの犯人は報いを受けるべきだ」



 ダグは想像以上に働いた。

 炉心から人魚を引き上げるのも率先して行い、肌身離さず持った包丁で、泣き叫ぶ人魚の尾を切り刻む間も躊躇いひとつ見せなかった。俺はただ手伝うだけでよかった。

 人魚の回復力は凄まじく、削られた身体はすぐに泡を纏って元通りになった。幸いエリヤもまだ息がある。人魚の肉を飲み込ませると、見る間に傷が回復した。


 深緑の海のような目が、壮絶な色を帯びて俺とダグを睨んだ。俺は微笑を返す。

「彼女と一緒にいられれば何でもいいんだろう?」



 俺とダグは慎重に事を運んだ。全てが上手くいった。俺はダグに囁いた。

「このことはふたりだけの秘密にしよう。アハズヤ船長の船を守るためだ」

「わかってるけど……」

「代わりに、お前が料理長になれるように努力する」

 ダグは頷きながら目を泳がせた。

「何だか、イシュー……アハズヤ船長みたいだ」

 俺は肩を竦め、足元に落ちていた帽子を拾った。


 俺とダグは階段を降りる。燃え盛る卵型の炉心の中には、二匹の人魚の影が蠢いていた。



 鉄の扉を押して出ると、船員の殆どが集まっていた。船長補佐のバーキン含めた皆は間抜けな面で怯え、困惑していた。クイグリーだけは最悪の事態を悟ったように褐色の顔を青く染めた。


 俺は船長帽を胸に押し当て、深く息を吸って吐いた。

「皆、聞いてくれ」

 自分でも驚くほど落ち着いた抑揚の声が出た。

「航海士エリヤは叛逆を企て、アハズヤ船長を殺害した」

 どよめきが巻き起こる。


 バーキンが口から泡を飛ばして俺に掴みかかった。

「ふざけるな! 船長が殺されただと!」

 いつもの俺なら殴り返していただろう。だが、俺は敢えて力なくバーキンの腕に触れ、視線を下げた。

「船員として気持ちはわかる。俺も信じられなかった」

「……エリヤはどうなった」

「俺が殺した。本来なら正当な裁きを受けさせるべきだったが、自分を抑えられなかった。悪い」

「そうか、いや、よくやった……」

 バーキンは面食らって身を退いた。俺を見る奴の目に友情を感じた。簡単なものだ。


 俺は駄目押しでバーキンに歩み寄る。

「俺と違ってお前は冷静だ。それに誰より船長の側で彼女のことを理解していた。代わりにお前がモカ・ディック号を収めてくれ」

「ああ、勿論だ。これから船内は混乱するだろうからな」

「とは言え、お前ひとりじゃ辛いだろう。お前とアハズヤ船長のように良い連携が取れる補佐が必要だ」


 俺は人混みの端で複雑な表情を浮かべていたピナを指す。

「ピナは適任だ。航海士として知識が豊富でお前とも相性がいい」

 ピナは弾かれたような顔を上げ、それから何度も頷いた。


 俺は船内全員の顔を見渡す。見知ったつまらない顔だ。俺は誰よりもこいつらを観測してきた。

「スターリング司祭、アハズヤ船長の亡骸を回収して弔ってくれ。流氷葬じゃない、司祭のカトリック式で送ってやってほしい」

 スターリングは恭しく頭を下げた。


「パース、エリヤが傷つけた炉心の修理を頼む。お前は誰にも賛辞を求めず粛々と仕事をこなしてくれる廃棄物処理係だ。やってくれるだろ」

「見てる人間がひとりでもいるとわかったら、やるさ」

 パースはこけた頰を震わせた。


「スタッブ、船長不在の間は船の整備長を務めてほしい。運搬係のフラーと連携すれば伝令係も要らないだろ。仕事をスムーズにするために、気送管の整備も頼んだ」

 スタッブとフラーは夫婦らしく同時に応えた。



 俺は船員ひとりずつに仕事を言い渡し、哀悼の念を込めて見えるよう船長帽を抱いた。

「哀しみに暮れるのは船長の望みじゃない。彼女の意思を継いでモカ・ディック号を全員で守ろう。次の船長は一週間後多数決で決める。それでいいか?」

 反対する者は誰もいなかった。アハズヤの魔術が未だ効いているように、船員たちは皆雄叫びに近い声を上げた。



 俺はごった返す船内を抜けて、階段を上がり、甲板に出た。

 白い吹雪と黒い海だけは何も変わらない。煙突から噴出されるメタンの緑の煙と、薄雲を食い破った月光が、洋上の海を明るく染めた。


 俺は船長帽に刺繍された名前を見ながら、煙草を咥えて火をつける。煙が細雪に解けたとき、俺を呼ぶ声が聞こえた。

 甲板にクイグリーが立っていた。いつだって俺の名前を呼ぶのはこいつだけだ。



 クイグリーは俺に歩み寄り、見開いた目で俺を見下ろした。大きな身体が月光と吹雪を遮り、心なしか暖かく思えた。

「何をしたんだ。まさか、お前……」

「エリヤと同じで、やりたいようにやっただけだ。誰かが犠牲にならなきゃいけないなら、適任は覚悟を決めた奴じゃない。罰を受けるべき罪人だろ」

「正気じゃない」

「「心配するなよ。俺はアハズヤよりずっとマシだ。それに、今度は人魚が二匹になったんだ。休憩だって入れてやれるし、飯も差し入れる。ずっと好待遇だろ。ようやく結ばれたふたりなんだからな」」


 クイグリーはたたらを踏んで、倒れないように甲板の手摺を握りしめる。こいつはこの船で唯一の善人だ。真実を知った上でも善人でいられる。

 失う訳にはいかない。航海には希望が必要だ。


 俺は懐から折り畳んだ紙を取り出し、クイグリーに押しつけた。

「これは返す。誰も犠牲にならない永久機関の研究を続けてくれ。俺も協力するし、今まで通り話を聞きに行っていいんだろう?」

「アハーブ……」

 アハズヤの父と同じ俺の名だ。これからはクイグリーだけじゃなく、皆が俺をそう呼ぶことになる。俺は咥え煙草で、船長帽を俺の額の上に翳した。醜い凍傷が隠せるように。先々代船長、Captainキャプテン Ahabエイハブの名が俺を見下ろしていた。


「もうイシュー問題児じゃいられないな。本名のアハーブで、いや、船員たちには発音し辛いか。これからはエイハブと呼んでもらおう」


 クイグリーが俺を見つめる。その目がアハズヤを見ていたときと同じだと気づいた。

 アハズヤの気持ちがよくわかる。凍てつく氷海で太陽のような存在は手元に置いておきたいものだ。



 俺は煙を吐き、暗い海面を見渡す。一週間後の結果はもうわかっている。


 人魚の慟哭に聞こえた、船を運ぶ吹雪が、歓声のように聞こえた。

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船を運ぶは人魚の慟哭 木古おうみ @kipplemaker

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