Down in It

 内臓のように配管がうねる廊下を進み、炉心が近づいてきた。


「エリヤ、鍵は?」

「船長室から盗ってきた」

 エリヤは何度も腹に手汗を擦り付けながら三連の錠に鍵を差し込む。鉄の扉から熱風が漏れた。


 俺はクイグリーの横顔を見上げた。

「お前が人魚の代わりをするって、できるのかよ」

「変異生物のウィルスは経口で移せる。可能だ」

「本気かよ……」

「もう決めたことだ」


 奴は懐から折り畳んだ一枚の紙を出した。

「永久機関の研究だ。結局無駄になったが、何かのヒントにはなる。いつか誰も犠牲にならないエンジンを開発してくれ」

「俺にできると思うか」

「お前ならできる。行き詰まったら聞きに来い」

 クイグリーは褐色の頰に小さな笑みを浮かべ、俺の名を呼んだ。俺を本名で呼ぶのはこいつだけだ。


「開いた!」

 エリヤが声を張り上げたとき、向こうから靴音が響いた。刈り上げた髪と自信に満ちた顔つきの男、船長補佐のバーキンだ。

 バーキンは俺たちを睨みつける。

「アハズヤ船長に人魚番を見張れと言われて来てみたが、お前ら何をしてる」

 青ざめるエリヤとバーキンの間に、クイグリーが割り込んだ。

「俺が時間を稼ぐ。早く行け」

「逃すか!」

 バーキンの肩をクイグリーが掴んだ。錨の刺青の絡んだ腕は万力のように硬く、バーキンが突き飛ばそうとしても微動だにしない。

 俺はエリヤに急かされて、鉄の扉を潜った。



 重厚な駆動音が鼓膜を殴りつける。絶え間なく蒸気孔から排出される熱い煙が視界を染めた。

 溶鉱炉じみた鉄の機材で囲まれた卵型の赤い炉心の中で、人魚が蠢いていた。


「イザベル、今助けるぞ!」

 エリヤの声には緊張と歓喜の昂りが滲んでいた。こいつもアハズヤや馬鹿な船員と同じだ。自分や身内さえよければ誰を犠牲にしても構わないんだ。



 俺は奴の後ろについて錆びた鉄階段を上がる。

 登り切ると、炉心を真上から見下ろす形になった。熱波と火花が舞い上がり、皮膚がひりつく。


 炉心の中の人魚が先程より鮮明に見えた。髪を揺らして水中を揺蕩うように蠢き、時折思い出したように苦痛によって尾を跳ねさせる。

 沖に流された人間が全てを諦めて浮かび、呼吸のためだけに顔を出すのに似ていた。



 俺は熱から顔を庇いながら吐き捨てる。

「助けるつったってどうやるんだよ。ロープで引き上げる気か? 途中で焼き切れるぜ」

「クイグリーが銛を用意してくれた。この鋼線なら熱にも重みにも耐える」

 エリヤは階段の影に隠した鋼鉄の銛を出した。一トン近い変異鮎を突き刺し、甲板まで引き摺っても握れない銛と鋼線だ。確かに硬いだろう。


 エリヤは炉心の周りの手摺に鋼線をかけた。

「イシュー、手伝ってくれないか?」

 俺は動かなかった。エリヤの当然のような期待に満ちた目が苛ついた。

「わかったよ。お前はそういう奴だ」


 エリヤは諦めて、膝が焦げるのも構わず鉄板に膝をついた。鋼線の先が蛇のようにするりと炉心に呑まれる。

「イザベル、捕まってくれ!」

 灼熱の炉心から吹雪の音が聞こえた。違う、人魚の悲鳴だ。真紅の卵の中で、もがく人魚の影が徐々に上昇する。


「あともう少しだ、頑張れ!」

 エリヤが汗を流しながら鋼線を引く。炉心から渇き果てた銀色の髪が除いたとき、銃声が響いた。



 弾丸がエリヤの腕を掠め、迸った血が一瞬で蒸発する。エリヤが呻いて鋼線を手放した。次いで放たれた弾丸が、人魚の痩せた肩を穿った。


「囚われの人魚姫に王子が訪れたか。まるで童話だな。姉さん」

 蒸気の向こうで拳銃を構えたアハズヤが微笑を浮かべていた。


「エリヤ、私はお前の純粋さを買っていたんだよ。だが、純粋な者は何にでも染まる。愚かな義憤にも」

 エリヤが獣のように呻く。

「アハズヤ……!」

「ひとりのために船員を皆殺しにする気か。イザベルを救えば船が止まるぞ」

「止まらない……クイグリーが代わりになると自ら申し出た」


 魔女は溜息をつき、立ち尽くす俺に視線をやった。

「イシュー、お前はそれでいいのか?」

 俺は答えられなかった。アハズヤは拳銃を振り、炉心の縁にしがみつく姉の手に銃口を向けた。


 そのとき、エリヤが動いた。獣のように吠えたエリヤは何かを手にアハズヤに突進した。アハズヤの背から、鮫のヒレのような血塗れの鋭角が突き出した。

 アハズヤは不思議そうに自分を見下ろし、薄い唇から一筋の血を吐く。彼女の胸の双丘の間を、鋼鉄の銛が貫いていた。


 アハズヤは甲板に引き揚げられた変異鮎のように倒れた。手から零れた銃が鉄板を滑って炉心に落下する。エリヤは血にまみれた自分の手を呆然と見下ろしていたが、やがて我に返り、人魚の元へ駆け出した。



 俺は海を観測するように、ただ全てを眺めていた。

 アハズヤの血が見る間に鉄板に広がり、蒸発する。鉄錆色の蒸気が立ち昇る中、アハズヤが俺を呼んだ。


 俺は導かれるように進み、アハズヤの元に膝をついた。魔女の顔は青白く、呼吸のたびに胸の震えが断続的になる。船長帽がずり落ちて、右目の傷が露わになっていた。

 アハズヤは唇を震わせた。

「やるべきことをやれ……」


 古びた船長帽のつばに、金糸で刺繍された先代船長の名が見えた。俺と同じ、アハズヤの父の名だ。

 俺は頷き、アハズヤの胸から銛を引き抜いた。血肉が絡みつく重い感触が腕に下がる。

 アハズヤは微笑を浮かべて生き絶えた。



 俺は銛を低く構え、炉心へと踏み出した。

 エリヤは俺に背を向け、血に濡れた両手で人魚を引き上げている。炉心から人魚の姿が覗いた。


 顔立ちはアハズヤによく似ていたが、あらゆる苦痛と無力を味わった表情は似ても似つかなかった。銀髪は熱で乾き果て、顔中に俺の凍傷によく似た火傷痕がある。

 空想上の人魚によく似た、エリヤが船員を殺してでも助けたいと思った女にしては、存外つまらないと思った。


 人魚はエリヤの首に縋りついて身を持ち上げる。二股の魚尾が炉心から覗いたとき、俺はエリヤの真後ろにいた。人魚が叫ぶ。

「エリヤ!」

 俺はエリヤが振り向くより早く、奴の脇腹を銛で刺し貫いた。


 エリヤは大きく仰け反って倒れる。俺は奴の首に縋りついたままの人魚の額を、安全靴の爪先で蹴った。人魚が悲痛な声を上げて炉心に落下する。



 俺は駆動を続ける炉心と、昏倒したエリヤを見下ろしていた。

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