Right Where It Belongs
永久機関の研究は続いた。
始業前の明け方と終業後の深夜に集まるせいで寝不足だった。頭に溜まった熱が、俺たちのうわついた希望を加速させ、六日後、クイグリーが永久機関の概要をまとめ上げるほどになった。
その日、俺は久しぶりに深夜観測の当番があった。
後頭部にわだかまった熱が吹雪で洗われるようで心地いい。
うねる黒い海の上を、咆哮じみた風が吹いていた。人魚を救出すれば、この妄想も止まるんだろうか。
煙草を吸っていると甲板に料理人のダグと、航海士のピナが現れた。ふたりは気まずそうに俺の元に寄ってきた。
最初に口を開いたのはダグだった。
「よう、イシュー」
俺が挨拶を返すと、ダグは目を丸くした。
「最近明るくなったよな? クイグリーとエリヤと何かしてるからか?」
「どうだか」
「隠すなよ。三人が仲良くなるなんて意外だと思っただけさ。イシューとクイグリーは元から良かったみたいだけど」
「俺のことはどうでもいいだろ。お前こそ飯の仕込みは終わったのか?」
「話はそれなんだよ!」
ダグは痩せぎすの肩を怒らせた。
「その前吊り上げた変異鮎が尽きるから貯蔵庫を開けてくれって言ってるのに、船長補佐のバーキンが聞かないんだ」
「バーキンは船長の信奉者だからな」
「本当だよ! アハズヤ船長に気に入られてるからって我が物顔で指図しやがって!料理長を任命したのだってあいつだ。俺の方が経験豊富なのに、自分の言うことを聞く呆け爺を選んだ!」
ダグの怒りはそれだけじゃない。こいつもアハズヤに惚れ込んでいるからだ。この船じゃ男は閨に呼ばれた同胞に嫉妬し、女は船長に嫉妬する。いい例が隣にいた。
それまで黙っていたピナが、小柄な身を震わせながら作り笑いを浮かべた。
「ねえ、イシュー。エリヤから聞いたよ。近々船長に何か打診するんだって?」
「あいつが勝手に暴走してるだけだ」
「何でもいいけどさ、ついでに言ってよ。バーキンにばっかり仕事を押しつけちゃ可哀想だから離してやれって」
ピナが惚れ込んでいるのは船長補佐のバーキンだ。奴を魔女から引き剥がしたくて仕方がない。俺はとうに知っていたが、黙っていた。
早速これだ。他人と関わるとろくなことがない。
俺の苛立ちを察したように、ふたりが手を振った。
「仕事の邪魔して悪かったな。そうだ、エリヤとクイグリーが船長室に向かったぜ。お前にも知らせておこうと思って」
「ふたりが?」
「うん、イシューも見て来れば? 少しの間当番を代わってあげるからさ」
俺は煙草を海に捨て、黒い海に呑まれる前に踵を返した。嫌な予感がした。
メタンアンモニウムの匂いの蒸気を早足で抜けると、船長室の鉄の扉からエリヤが飛び出してきた。
奴は唇を噛み締め、全身を震わせながら壁にもたれかかった。
半開きの扉からクイグリーの背と、椅子に座るアハズヤが見えた。俺は形だけのノックをして入室する。アハズヤは船長帽を傾け、銀の前髪を掻き上げて傷を覗かせた。
「待っていたぞ、イシュー」
アハズヤの机上には永久機関の概案が載っていた。魔女は細い指で資料を弄ぶ。
「面白い案を見せてもらった。自力でこれに辿り着く船員がいるとは」
最初から知っていたような口ぶりだ。クイグリーは死刑宣告を受けたような顔で立っていた。俺がふたりを見比べると、アハズヤが唇を開いた。
「変異生物のテロメアを使った永久機関か。イシュー、これは既に完成しているんだよ」
「どういうことですか」
「とっくにお前も見ているはずだ。人魚の炉心を」
「じゃあ、あの人魚が……?」
「その通り。お前たちの努力は既に実を結んでこの船を動かしている。素晴らしいだろう」
クイグリーが低い声で言った。
「船長、どこが素晴らしいんですか」
「人間の叡智の結晶だろう」
「人間を犠牲にしているんですよ!」
俺は息を呑んだ。アハズヤは唇の端を吊り上げる。
「魚如きではこの船を動かすのには足りない。炉心そのものに遺伝子を組み込むのは無理だ。しかし、変異鮎の遺伝子を寄生させた人間ならば、最適だ」
クイグリーが声を震わせる。
「御自分の姉でしょう……」
俺は呆然と立ち尽くした。
「人魚が、船長の姉?」
「愚かな姉だった。イザベルは無力な善意、一番無意味なものに取り憑かれ、真実を皆に知らしめた。結果、暴動が起き、先代の人魚と船長である父が死んだ。責任を取らなければ」
クイグリーはかぶりを振って船長室から去った。アハズヤは変わらない微笑を俺に向ける。
「お前はそんなことはしないだろう、イシュー? お前は私と同じだ」
無言を返す俺に魔女が囁く。
「私はお前を気に入っているんだよ。私に靡かないところが特に」
「お為ごかしは結構です」
「本心さ。私に靡かないのは私のやり口がわかるから。誰よりも私に近い」
冗談じゃない。俺は人間が嫌いで、関わりたくないだけだ。人間を生贄にして、船員を奴隷にしたい訳じゃない。
アハズヤは資料を下ろし、俺を見上げた。
「それに、名前も私の父と同じだ。いつか問題児ではなく、本当の名前でお前を呼びたいものだな」
「そんな日が来ればの話ですが」
「必ず来るさ。そのときは、私と同じように傷を隠すといい。お前はいい顔をしている。使えるぞ」
右目の凍傷が、負った瞬間のように痛んだ気がした。
アハズヤが吸い始めた葉巻の煙が絡みつく。俺は背を向けて、甘い香りを振り払いながら部屋を出た。
廊下に出ると、クイグリーとエリヤが死人のような顔で佇んでいた。俺は溜息を吐く。
「驚愕の真実だったな。俺たちの努力は無駄だ」
エリヤが掠れた声を出す。
「僕は……」
「明日からいつも通り業務に戻る。それだけだろ」
「ふざけるな!」
奴は壁を叩いて立ち上がった。
「船が動く限り彼女は苦しみ続けるんだぞ!」
「だったら、どうするんだよ」
「船長を倒して、イザベルを助けに行く」
「馬鹿だな。船を沈める気か」
「彼女と一緒にいられるなら構わない」
エリヤの目に苛つく光が戻っていた。こいつはガキだ。自分の世界しか見えていない。他の奴の世界を壊すことを何とも思ってやしない。それで善人のつもりか。
クイグリーが沈鬱に言った。
「個人を救うために大勢を犠牲にすることは許されない」
「イザベルが犠牲になればそれで済むとでも!」
エリヤの怒声にもクイグリーは冷静を保っていた。
「そうは言っていない。だが、誰かが犠牲になるしかない」
「だったら……」
「俺が代わる」
クイグリーの目は永久機関を語るときと同じ、真剣そのものだった。
「何言ってんだ……」
「俺たちは何も知らずに炉心の恩恵を受けてきたが、知ったなら罪を受け入れるときだ。嫌がる人間に強いるべきじゃないが、俺自身が望めば問題ない」
俺が絶句している間に、エリヤがクイグリーににじり寄った。
「いいんだな」
「ああ」
「じゃあ、今すぐ助けに行こう」
エリヤとクイグリーは頷き合い、炉心のある方へ進み出した。
俺は亡霊のようにふたりの後ろをついていく。自分がどうすべきかわからないまま、配管から響く慟哭のような駆動音に急かされるように。
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