A Warm Place
白霧に藍色が混じり出し、やがて全てが黒に染まった。
夜までに見つかった淡水氷は十フィートほどの一塊だった。
俺は身体中に張りついた霜を払う。雫が足元の鉄板に水溜まりを作った頃、甲板にクイグリーが現れた。奴は俺に部屋の鍵を手渡した。
「助かった」
「エリヤの子守りは終わったかよ」
「ひとまず落ち着いたが、難しいな」
クイグリーは煙草を歯に挟んだ。俺も紙巻きを一本出して咥える。
船は喫煙者が多い。氷河期が訪れるまで、煙草は年々排斥されていたらしい。背骨が凍る氷の世界では、火が目の前にあると安心するのだろうか。熱など感じないとしても。
呼吸するたび氷の粒に反射する炎を眺めていると、クイグリーが言った。
「エリヤから人魚の話を聞いたか」
「妄想だろ。じきにいかれて死ぬ。氷葬される日も近いな」
「……俺も聞いたんだ」
「何を」
「人魚が人語を話すのを」
「嘘だろ」
「エリヤに炉心へ連れて行かれて、炉の中に人魚がいるだろう。エリヤが話しかけたら答えた。『最近来ないから心配していた』と。掠れて悲痛だったが、人間の女の声だった」
煙草の先端を見つめるクイグリーの目は正気そのものだった。盲信的なエリヤと違って、自分で自分を疑う理性がある。
俺は煙を吐いた。
「人魚は突然変異した魚類だろ。そんな知能も発声器官もない」
「俺もそう思っていた」
クイグリーは額に手を当てる。錨の刺青が覗いた。
「お前もエリヤに感化されたのかよ」
「苦痛を感じる知能があるなら、今の運用を続ける訳にはいかない」
俺の口の端が引き攣る。唇に罅が入った。
「炉心が止まれば船は沈むぜ。人魚を助けて人間を皆殺しにする気か」
「まさか。ただ俺は別の手段を編み出そうと、エリヤに言ってしまったんだ」
「別の手段?」
クイグリーが何を言いたいかはわかった。
「永久機関だ」
俺は目を伏せた。頭も体格もよく、海軍の出身で、実直なこの男が、船内で厄介者扱いされる唯一の理由だ。人類が諦めた夢を本気で抱えている。エリヤよりタチが悪い。
クイグリーは俺に言った。
「明日から仕事の合間にエリヤと研究を始める。お前も来るか」
無意識に頷いてしまった俺もタチが悪い。
翌朝未明、ボイラーの音に急き立てられて目覚めた。廊下の丸窓の向こうは、薄霧が深緑の海面を撫でている。巨大な眼球のようだと思う。
クイグリーの部屋に行くと、エリヤがいた。奴は何故俺がいると問いたげだったが、悶着を起こす前にクイグリーが割って入った。
「俺が海軍にいた頃、船舶型コロニーの燃料問題解決のために永久機関の開発に着手していた。計画は頓挫したが、資料が手元に残っている」
クイグリーはベッドのカーテンを開く。オーリブドラドの布鞄から古い紙束が溢れていた。
クイグリーは汗を吸って潮の匂いがする布団に資料を広げる。
「質量保存の法則を破らない、人魚に代わる動力として、第二種永久機関が有効だと考えている。炉心を船内に組み込んだ構造とも相性がいい。簡単に言えば、熱源そのものを動力に変換し、その際に発生した熱をまた熱源に戻す仕組みだ」
エリヤが口を挟んだ。
「具体的には?」
「水車を想像してくれ。海水塊から運動エネルギーを取り出すと水自体の温度は下がる。しかし、運動の際に摩擦熱が発生し、温度の上がった水が生まれる。その両方を機関に組み込むことで、温度が一定に保たれる。外部の熱を必要としないエンジンだ」
「それなら、彼女を炉心から解放できるという訳だな」
俺は無責任に目を輝かせるエリヤに苛ついて吐き捨てた。
「モカ・ディック号のデカさなら水車じゃ到底足りねえよ」
「その通りだ。先程の理論を元に別の熱源が要る」
クイグリーの錨が絡んだ黒い腕が、別の紙束を持ち上げた。黄ばんだ紙面には魚や猿の解剖図のようなものが書かれていた。
「それは?」
「変異鮎のような特別変異した動物の研究だ。あれらの異常発達には遺伝子のテロメアが関係しているらしい」
「テロメア?」
エリヤの問いに俺が答える。普段なら絶対にない場面だ。
「クイグリー、昔お前が言ってたな。人間が老化するのは、遺伝子に組み込まれたテロメアがすり減るからだって。使い古したエンジンがだんだん錆びて動かなくなるのと同じだ」
「よく覚えてるな」
クイグリーは微かに口角を上げた。
「生物の変異の原因は、テロメアの異常発達にあるらしい。一種のウィルスのようなものだ。テロメアがすり減ることなく再生能力を持ったまま巨大化するとか」
「それが永久機関と何の関係があるんだ」
クイグリーは真剣な眼差しでエリヤに返した。
「俺はテロメアが異常発達した生物の遺伝子を炉心に組み込めば、永久機関に近いものが生まれると思っている」
俺もエリヤも言葉を失った。本来なら相手にしない夢物語だ。だが、クイグリーの言葉にはそれを信じさせる力があった。
いや、原因は俺たちにあるのかもしれない。太陽すらも凍りついた無彩色の氷塊で船を進めるには、突拍子がないものでも希望が必要だ。
受け入れがたいが、俺もそう感じている。
あの魔女に与えられる慰めの希望じゃない。クイグリーが真剣に語るような希望が必要だと。
冷え切った船内が温かい熱で満ちる。廃棄物の焼却熱がパイプに行き渡っただけのことだが、いい風向きに思えた。クイグリーがいなければ、俺とエリヤが肩を並べてひとつのことをするなど有り得なかっただろう。
エリヤは黙り込んだ後、顔を上げた。
「これがあれば、彼女を救える。船長に打診すべきだ」
俺は舌打ちした。
「実現どころか試作品もねえのに気楽だな」
「今も苦しんでいるイザベルには今日一日を耐えるための希望が必要だ」
クイグリーが途端に青ざめた。
「イザベル?」
「人魚の名前だ。彼女が教えてくれた」
俺が「魚に誰が名前をつけるんだよ」と詰っても、エリヤは気にも留めなかった。
「早速イザベルに伝えてくる。船長への打診はお前たちがしてくれ」
奴は止める間もなく部屋を飛び出した。愚かさに呆れたが、それよりクイグリーの表情の方が気になった。
「どうしたんだよ」
「いや、何でもない。よくある名前だ」
そう言いつつ、クイグリーの唇は震えていた。甲板に出たときより血色が悪い。アハズヤならクイグリーの不安の元を守備よく聞き出す手練手管を持っているだろうが、俺にはなかった。
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