Into The Void

 巨大な鯨が喉を蠢かせて海水ごと船を呑む夢を見て、俺は目を覚ました。


 身体が軋んだ。硬い寝台のせいだけじゃない。猛吹雪の吹き付ける甲板に立っていると、震え続けて全身の筋肉が引き締まる。数日も乗っていれば皆鍛え上げたような身体になる。


 壁の配管から絶えず駆動音が鳴り響いている。夢を見たのはそのせいだ。

 ボイラー室の真横の空間に寝台と鞄だけあるのが俺の部屋だ。本来、乗組員は二段ベッドの相部屋だが、俺は他人のそばにいたくないから自らこの最悪な部屋を引き受けた。

 お陰で観測士の仕事が終わればいつでも眠れる。



 部屋を出て食堂に向かうと、調理師のダグが包丁片手に顔を見せた。

「イシュー、今日のメニューはお前が獲った変異鮎だよ! 俺が捌いたんだ!」

 ダグは痩せっぽっちのガキだが、元いた中国では有名な料理店の下働きをしていたらしい。猿をひとりで捌いたこともある、この船の料理長より経験豊富だと嘯いていた。


 俺はホーローの器に盛られた薄灰色の汁を受け取る。船の全員に行き渡るよう煮崩した鮎が沈みかけの氷山のように浮かんでいた。厨房の熱源は、廃棄物を焼いたメタンだ。どんな飯もゴミ処理場の煙の味がする。


 俺は汁を啜りながら食堂の疎な人影を見渡した。

 廃棄物処理係のパースは誰にも顧みられずに焼却炉の掃除器具を磨いている。

 整備士のスタッブと運搬係のフラーは夫婦だが今日は目も合わせない。スタッブが気送管を直さないせいで、手紙の運搬に支障が出ているんだろう。


 アハズヤの言う通り、俺はこの船の人間を誰より見て知っている。

 昔、アハズヤに「お前は私と同じ目をしている」と言われた。それを活かせば次に船長の席に座るのはお前かもしれない、とも。あの魔女が誰にでも言う寝物語だ。冗談じゃないと思った。



 食堂を出て、階段を降りると、ふらつきながら登ってくるクイグリーが見えた。アハズヤが今まで離さなかったんだろう。


 あの女は気まぐれに船長室に船員を連れ込む。常に困窮した船の中で唯一与えても懐が痛まない報酬だ。男たちは皆、声がかかるのを待っている。

 クイグリーは逆だ。

 固辞するほどアハズヤは執着する。クイグリーの肌の色が気に入っているらしい。褐色の肌から何年も現れない灼熱の太陽の残滓を搾り取るように、アハズヤはクイグリーを夜で満たす。


 クイグリーは目の下にクマを作り、霜の降りた手摺りを握っていた。普段なら、他の船員を皮が張り付くから手袋をしろと叱り飛ばすだろうに。

 俺がわざと肩をぶつけると、分厚い身体が揺れた。

「悲惨な面だな。それで仕事に出る気かよ」

 クイグリーは無言でかぶりを振る。俺は奴に鍵を投げつけ、顎でボイラー室の真横の部屋を指した。

「寝てろよ」

「気持ちはありがたいが……」

「自分の心身を管理できない者が甲板に出ると全体に支障が及ぶ」

 俺は奴の口癖を返した。クイグリーは曖昧に頷き、鍵を受け取った。

「すまない、二時間だけ借りる」


 クイグリーは覚束ない足取りで俺の部屋に消えた。他の船員が見ていたら、問題児のイシューが他人を気遣うなんて、アラスカの氷河も溶ける奇跡だと言うだろう。知ったことじゃない。



 もうじき正午になる。霧が晴れて淡水氷が見分けやすい時間だ。

 甲板に出るまで時間を潰す場所を探していると、アハズヤの声が聞こえた。


 鉄の十字架をかけた隘路で魔女が跪いている。わざとらしい演出だ。牧師のスターリングは神聖なものを見たように、アハズヤの背を眺めていた。

 アハズヤが立ち上がって膝の埃を払うと、スターリングは鷹揚に頷いた。

「もう十年になりますか……」

「ああ、私がふたりのためにできることは船を守ることだけさ」

「父上も姉上も見守ってくださるでしょう」

 アハズヤは感傷を帯びた微笑を作る。その全てがわざとらしく、俺はその場を去った。



 甲板に出て、脳裏から船内の光景を押し出す。

 白い海と空の境は薄い線になり、昔、船員の日本人の葬送で見た、死装束の合わせ目のようだ。

 氷の粒がガラス片の絡んだ黒髪を纏める。アハズヤの横顔が頭から離れない。


 奴が船長の座に就いたのは十年前らしい。

 船員の暴動で、先代船長だったアハズヤの父と、姉が死に、齢十五歳の魔女が船をまとめ上げた。


 俺は当時モカ・ディック号に乗っていなかったが、そのときの光景は予想がつく。

 閉鎖空間で溜まった鬱屈が爆発するときはどこも同じだ。難民救助用のアーム式コロニーが爆破され、俺の料金が死に、俺が未だ消えない右目の凍傷を負ったときと同じだろう。



 記憶が現実に滲み出したような激音が響き、俺は背後を振り返った。

 爆発に近い音で鉄の扉を押した男が甲板に立っていた。エリヤだ。

 懲罰房から出たばかりなのか、防寒ジャケットも着ないで身体を震わせていた。金髪も細い面も、汚れて尚、絵本の中の王子のように優男然としている。

 人魚を助ける妄想に取り憑かれた航海士には似合いだろう。


 俺は船員の中でも特にエリヤが嫌いだ。俺と年は変わらないが、まるで少年じみた理想論を抱えている。

 生きるか死ぬかの船に同乗する仲間としては最悪だ。


 エリヤは血の気の失せた顔で俺を見るなり、一気に突進して俺の胸倉を掴んだ。

「彼女に会ったのか!」

 寒さと込めた力で指の骨が浮き出していた。俺はその内肘を捻り上げ、鳩尾に靴底を打ち込んだ。

「わかるように喋れないなら話しかけんな」


 エリヤの喉から廃水が蒸気管を逆流したときのような音が出た。だが、奴は手を離さなかった。

「彼女だ! 炉心の! 僕がいない間、船長が代わりにお前に行かせたと聞いたぞ!」

「人魚の話か?」

「そうだ!」

 怒りと寒さでガチガチ震えるエリヤを見て、俺は呆れの溜息を漏らした。


「あれを助けようとしたんだってな。馬鹿もいい加減にしろよ」

「イシュー、お前は心が痛まないのか?」

「別に。魚を取って食うのも、変異鼬を育てて毛皮をとるのも同じだろ」

「……彼女は人間だぞ!」

「人魚が人間の女に見えるくらい飢えてんのか。だったら、まともに働けよ。そのうち船長が呼んでくれるだろ」

「違う、彼女は人間だ! 話もできるし、痛みも苦しみも感じてる!」


 俺は思わずエリヤを見返した。メタン・アンモニウムの雲を移したような澄んだ瞳に、俺の顔が歪んで映る。普段気にもしていない右目周囲の凍傷がひどく引き攣れて嫌になるほどだ。


 もう一発蹴り飛ばしてやろうかと思ったとき、甲板にクイグリーの鋭い声が響いた。


「お前ら、何を揉めているんだ!」

 縦に振る氷雨が横に吹き飛ぶようなデカい声だった。たった数時間の仮眠ですっかり回復したらしい。俺はエリヤを突き飛ばした。


「こいつに絡まれてただけだ」

 エリヤがたたらを踏むのを横目に、俺は甲板を大きく周回して奴らの元から離れた。すぐに霧の風が渡り、クイグリーがエリヤに上着を被せるのが霞んで見える。


 俺は身を縮こませながら、煙草を咥え、火をつけた。煙が霧に溶ける。

 エリヤの妄言がやけに引っかかった。

 人魚が口を聞くなんて聞いたことがない。あれは変異鮎と同じ異常発達した魚類だ。

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