船を運ぶは人魚の慟哭
木古おうみ
Head like a hole
吹雪が女の泣き叫ぶ声に聞こえた。
良くない兆候だ。俺は何の生き物かわからない毛皮がついたコートの襟を締める。
視界は雪で烟って殆ど見えない。どうせ白い氷海と、吹雪でも塗り潰せない黒い夜闇があるだけだ。
今や世界中どこに行ってもそうだ。
だが、変わり映えのしない景色から、僅かに色の違う氷を見つけるのが俺の仕事だった。
船の先端は鮫の背鰭のように氷海を割って進む。
飲料になる淡水氷を見つける必要がある。その下に変異鮎の一匹でも隠れていると尚良い。
この前、上陸したコロニーの跡地ではトラック一台分の缶詰しか見つからなかった。
寒気が顔の皮膚を引き攣らせる。右眼の周りがひび割れるようだ。大昔に凍傷を負って以来、錯覚だとわかっていてもどうも右目蓋が開きにくい気がする。
考えるのはやめだ。視界が悪いのは睫毛についた雪のせいだと言い聞かせる。
無理に目を開くと、薄氷の下を青い魚影が擦り抜けた。吹雪が雑念を押し流す。俺は甲板から身を乗り出し、砲銛台に取り付く。
変異鮎だ。一塊の氷よりも大きい。外敵が少ないせいか、海の支配者の如く悠々と泳いでいる。
腹の底にわだかまった怒りを打ち出すように、俺は引鉄を引いた。
射出された鋼鉄の銛は氷を破って真下の海に突き刺さる。ガラスのような氷から青い血が噴き出した。俺はボタンを押して船員たちに報せる。これで今日の仕事は終わりだ。
銛から船へと繋がる鋼線は雪を絡めながら洋上を揺蕩っていた。じきに船員たちが変異鮎と淡水氷を引き上げに来るだろう。鉢合わせる前に戻りたい。
そう思った矢先、俺の名前を呼ぶ声がした。
顔を見なくても誰かわかる。俺を名前で呼ぶのはひとりだけだ。
案の定、鋼鉄の扉を押し開けてクイグリーが現れた。皆、蒼白な顔をしている乗組員の中で、この男だけは褐色の肌をしている。とうに雪に埋もれて消えた南国の大地の色だ。
太い腕には錨の刺青が絡み、短い黒髪に氷の粒が纏わりついている。昔ならこういう奴を海の男と呼んだんだろう。
クイグリーは吊り気味の目を更に鋭くした。
「銛打ちは俺の役目のはずだ」
「お前を呼んでる暇がなかった」
俺が短く答えると、クイグリーは呆れたように息を漏らした。
「そんなにひとと話すのが嫌いか?」
「だから、観測士をやってる」
「観測士が見るべきなのは海上だけじゃない。船内の人間の方がより重要だ」
俺は答えない。クイグリーは諦めたように踵を返した。
「来い、アハズヤ船長がお前に話があるらしい」
「あの魔女が何の用だか」
「そんな態度だから
甲板が騒がしくなり始めた。久しぶりの獲物に浮き立った船員たちが出てくる頃だ。
俺はクイグリーについて行き、鋼鉄の扉を潜る。夜の海が見えなくなる寸前、船の常夜燈が濃緑の炎を吹いた。
燃料の悪臭が目を突く。船内で出た廃棄物を焼いてメタンの灯りに変える時間だ。空の薄雲は緑に燃えた。
船内は蒸気で満ちて温かいが、悪臭も強くなった。
白く烟る靄には動物の脂や煮炊きの匂い、シャワー室から漏れる垢が溶けた湯気まで絡んでいる。収縮していた筋肉が急に緩んで裂けそうだと思う。
外よりも視界が悪いが、船内の構造なら目を瞑ってでも歩けるほどわかってる。
蒸気に透けて見える鋼鉄の手摺を辿れば、融解室と倉庫があり、その先には燃焼処理室、角を曲がればその熱を活かした炊事場がある。
モカ・ディック号は俺たちに残された生存圏だ。つまり、人類の生存圏だ。
未曾有の氷河期と、それに伴う脊髄生物の異常な突然変異によって、世界は終焉を迎えた。
全てが凍りつく前の温暖化のせいで海面が上昇していたため、人間は陸地を追われることになった。
今や洋上コロニーか船舶型コロニーでしか生きられない。
俺の乗る氷海探掘船モカ・ディック号は人類の先遣隊だ。
見分けのつかない真っ白な凍土から、淡水が流れていた箇所を見つけ出し、コロニーを建てられる場所を探す。船員の働きで人類の行末が決まる訳だ。俺はそんなことはどうでもいい。
湯気の中で蠢く人影が口々に騒いでいる。
ロシア語や日本語も聞こえる。氷河期到来と同時に、国連が各国の連携を図るため、共通言語としてエスペラント語を広めたが、この船に乗るような連中には覚えられなかったのだろう。
そこかしこに飽和した声が不快だ。
湯気を破って中国語訛りの英語が聞こえた。調理師のダグだ。
「イシュー、変異鮎を見つけたんだって? 船長に褒められるな」
俺の代わりにクイグリーが首を振る。
「呼び出しは鮎を見つける前の話だ」
「じゃあ、お叱りか。災難だな」
クイグリーがいると俺は喋らなくていいから楽だ。元海兵隊員で、エスペラント語も英語も話せる。船長は更に四カ国語を扱えるらしい。
人種と言語の坩堝をひとつに束ねる魔女は、この扉の先にいる。
クイグリーが励ますように俺の肩を叩き、扉を開けた。
どろりとした薄黄色の明かりと、オーク材を模した調度の船長室が広がる。大きな天鵞絨色の椅子には不釣り合いな細い肩が見えた。
「イシュー、待っていたぞ」
アハズヤ船長は氷海を映したような銀髪を掻き上げた。長い前髪が揺れ、隠した右目の傷が覗く。
アハズヤはよく俺と同じ箇所にある傷を見せつけた。隙のない船長が親しい者にだけ見せる特別感の演出だ。魔女の手法はわかっている。
アハズヤは勿体ぶって椅子を引いた。
「観測士の仕事は順調か? 聞くまでもないな。今さっき淡水氷と変異鮎を見つけた。これで四日は船員を食わせていける」
「質問の意図は?」
「船外じゃなく中の調子だ。お前は誰より船員たちを理解している。だから、観測士に選んだ。だが、知識は使わなければないのと同じ」
アハズヤは微笑を浮かべる。
「イシュー、お前が見て思ったことを活用してほしい。船員たちの関係を円滑にするために」
「だったら、俺は向いていません」
「無理にとは言わないさ。観測士を辞めたければ別の仕事がある。お前たちの道は無限にあるからな」
「行き着くのは地獄だけです」
俺の答えに、アハズヤは息を漏らし、鉄の箱から葉巻を抜き出した。
「私はお前を呼び出したのは聞きたいことがあったからだ。最近、人魚番の様子はどうだ?」
「エリヤですか」
「そうだ。何か変わったところは?」
「知りません。元からあいつとはソリが合わない」
アハズヤは葉巻を歯に挟んで笑う。他の船員だったら慌てて火をつけてやっただろう。俺はやらない。アハズヤは自分でマッチを擦った。
「エリヤが人魚番になってから二週間、どうも様子がおかしい。今日は自ら人魚のいる炉心に飛び込もうとした」
「自殺願望でしょう。世界中でよくあることです」
「そうは見えなくてな。今エリヤは養生させている。お前が代わりに人魚を見てきてくれるか?」
俺は首肯を返した。人魚は人間と違って喋らないからいい。調理場の手伝いの百倍マシだ。
アハズヤは氷の下の海のような薄青の目を細めた。
「では、頼んだ。受けてくれなければ、お前とゆっくり話をしようと思っていたが、今夜はクイグリーを呼ぼう」
「ご自由に……」
俺は踵を返し、後ろ手に扉を閉める。蒸気に混じって葉巻の甘い煙が追ってくるようだった。
船内の喧騒が遠のくにつれて、太いパイプの走る壁に機械的な駆動音が反響し始めた。巨大な鯨の食道に飲まれて胃の腑の蠢きを聞いているようだ。
騒がしいが、人間の声と違って不快じゃない。
炉心の近くは火の気がないのに、壁に触れると指先がひりつくほど熱を帯びていた。
俺は三重の錠にアハズヤから渡された鍵を差し込み、鉄の扉を押し開ける。
太陽が接近したような眩い赤光が広がった。
鼓膜を殴られるような駆動音が鳴り響く。絶え間なく蒸気孔から排出される熱い煙が肌を焼いた。
溶鉱炉じみた鉄の機材で囲まれた炉心は、卵型をしていた。
焼けた鉄に押し固めたような赤い楕円が脈動している。その中に細い影が蠢いていた。
ひとじゃない。上半身は人間の女に見えるが、下半身はイルカに似た長い尾を持っていた。
神話の生物のような"人魚"は、変異鮎と同じく、気候変動で突然変異した魚類の一種らしい。
人魚の血や脂を燭台に塗ると火が消えないというのは、中国の伝説だったか。この人魚は異常発達したテロメアと高品質の脂肪、高温の体熱を持つ。
モカ・ディック号を動かしているのは人魚から搾り取った油だ。
炉心の中で、人魚が悶え苦しむようにのたうち回る。いくら暴れても機器は壊れない。
俺は人魚を見上げながら、エリヤの馬鹿が何を思ったのか想像する。人魚を憐れんだのだろう。
身の程知らずな話だ。船の部品として一生を使い潰されるのは俺たちも皆同じだろうに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます