ペンギンよあれが巴里の灯だ

上原 友里@男装メガネっ子元帥

南アフリカ共和国・ポートエリザベスまで1,770km。

 ここはプリンス・エドワード島。


 人間ならば地理情報をChatGPTあたりに聞いていかにも知ったかぶりでしれっとコピペしたりするのであろうが、あいにくチャールズは一介のイワトビペンギンであった。自覚はないがたぶんペンギンとしてプリンス・エドワード島に生を受け、成長したのちは若きオスとして彼女に性的魅力をアッピールすべく一秒間に6回も! マッチョな翼を羽ばたかせ、短いが立派な尻羽を猛烈に振って、みごと愛するアンを口説き落とし、つがいとなった。

 だがいかんせんチャールズはまだ若く、完璧な巣作りのコツをマスターしていなかった。見晴らしの良い丘の中腹に赤い布と木の枝と石で作った愛の巣ラブネストは、残念なことに岩と岩の間をぴょんぴょん飛んでも波打ち際まで徒歩5分以上もかかってしまう。ぐぬぬ。いくらオサレハウスであろうとかくも最悪な立地では、妻アンの視線も墓場の土より冷たくそして痛い。


 このままでは激しい生存競争に敗れてしまう。


 チャールズはおのれのぺちぺち翼を恨んだ。海の中では無敵を誇るこのつばさ。なのに飛べない。空を見上げてがみする。もしこの翼で飛べたなら、こんな距離などひとっ飛びなのに。

 だが愛するアンはまごうことなき才女であった。彼女は美しい冠羽をなびかせてほほえんだ。


「飛べないなら走ればいいじゃない。ダチョウみたいに」

 イッツ青天のへきれき! チャールズの脳天に稲妻が走る。


 アンによると、ダチョウとは飛べない鳥の王であるという。

「ダチョウは世界で最も大きな鳥で飛ぶことはできませんが、速く走ることができます。アフリカのサバンナや砂漠に生息しています。走る速度は最高で時速70キロ、また持久力にも優れており、時速60キロで1時間も走り続けることが」

 まるでChatGPTをコピペしたかのようにすらすら説明してくれる。なるほどよく分かった。

 チャールズは決意した。


「俺はダチョウより早く走るためにアフリカへ行く」


 こうと決めたらペン突猛進のチャールズである。彼は妻ともふもふ灰色の息子を残し、はるか遠いアフリカへと旅立った。

 南アフリカ共和国・ポートエリザベスまで1,770km。

 夢を追いかけて上陸したチャールズが眼にしたのは、果てしない大地であった。


「これがアフリカ。音速の駝鳥王がおわす大地! ブオーブオウッブルンブルンブルンルルン、エウッ!」


 天を摩さんばかりに嘴を突き上げ、空を仰いで驚嘆のおたけびをあげる。ついに来ちゃいましたアフリカ! イエーイ!

 最速のダチョウに弟子入りするため、遠路はるばる1770キロメートルを泳ぎ渡ってきたチャールズの肉体は多難なる旅路によって鍛え抜かれ、ぬらめきはじけんばかりであった。鋼の翼、鋼の骨そして分厚い脂肪の鎧。まさに筋骨隆々。

 それでもなおチャールズは変わらず謙虚であった。彼ほど己のをよくわきまえた好青年ペンギンは他に居るまい。旅の目的はただひとつ。この広い大地におわす音速の駝鳥王を探し出し、伏して弟子入りを請う。そのためにはひたすら心技体を磨かねばならぬ。満願成就のその日まで決して故郷には帰らぬと誓ったのだ。


 チャールズは決意を新たにし、陽炎ゆらめく遥けきサバンナを目指した。最速を追い求める旅は己を追い込む究極の試練。インド洋を泳ぎ渡るがごとき些末事とは比べ物にならぬ苦難の連続だった。


 水がない。

 餌がない。

 登山つらいよう。


 氷雪降り積もるドラケンスバーグ山脈ことウカランバ槍の障壁を越えたチャールズを次は灼熱の太陽が焼き焦がした。ぴょこたんぴょこたんと歩く彼の足裏には、業火であぶられるかのような地獄が貼りついた。チャールズはオアシスの泥をすすり、オキアミの代わりに虫を食べ、ときに小動物を喰らって進んだ。ともすればくじけそうになるたびに愛する妻アンの顔が思い浮かんだ。彼女ならきっと微笑んでこういうだろう。足の裏が熱いなら走ればいいじゃない、ダチョウみたいに。


 チャールズは猛然と走り出す。

 そのときだった。走り出す寸前まで休んでいた藪を突き破り、けたたましい吠え声とともに躍り込んでくるものたちがあった。灰色の背毛を逆立てた目つきの悪いけもの、ジャッカルの群れだ。

 間一髪。

 チャールズは枯れはてた草原を弾丸のごとく駆け抜けた。オレンジのくちばしが炎と輝く。彼の走りはジャッカルの群れをみるみる引き離した。嗚呼、何と健康で文化的な闘競争であろうか。チャールズは風を切って先頭を走る喜びに満ち満ちて、勝利の雄たけびを上げた。このままずっと走り続けて憧れの音速の駝鳥王に逢いたい。そして彼の教えを請いたい。もっと速く。もっと、もっと速ゴブゥッ!


 なかば夢見心地でサバンナを突っ走るチャールズの横っ面を、巨大なネコパンチが襲った。チャールズの身体は破裂したサッカーボールになって地面にたたきつけられる。

 チャールズの頭よりデカい口。チャールズのくちばしより長い牙。鼓膜を破らんばかりの咆哮が、チャールズの夢をかみ砕いた。衝撃クラッシュ100連発。

 チャールズはピンボール状態であっちの岩、こっちの木にとはじかれ、もんどりうって坂道を顔面スライディングで跳ね転がる。


 哀れなチャールズを襲ったのは百獣の王ライオンの群れであった。群れプライドのリーダーたる雄ライオンがげっそりやせ細りながら子づくりをいたしている間、若い情欲をもてあますわがままボディの肉食女子メスライオンたちが暗き欲望食欲を満たさんとしてチャールズに襲い掛かったのである。

 欲情した雌ライオンのあられもなき舌なめずりが迫る。食っちゃいたい! あなた食っちゃいたい! 雌ライオンはチャールズの噴き散らす熱き血潮を想像してみだらな本能をむき出しにした。がぶり。


 誰もがむごたらしい最期を想像した、そのとき。

 あちちち! 雌ライオンどもは真っ赤にやけどした舌を苦悶に垂らし、はじかれたようにとびすさる。いったい何が起こったのか。


「俺に触ったらやけどするぜ?」


 最強の超合筋、鍛え抜かれた心臓から螺旋の動脈を通じて足先へと一気に真紅の血流が流れ込む。ドクン! 体温及びアドレナリンが急上昇する。分厚い脂肪の下に隠れていた血管が網目模様となってうかびあがる。

 肩にちっちゃいジープを載せてんのかい! 驚愕の合いの手とともにメスライオンどもは喉笛を狙って襲いかかった。チャールズは攻撃を八艘跳びにひらりとかわして加速。加速。走る。走る。大地に刻むは灼熱のビート! 幾多の苦難——1770キロメートルを泳ぎきり標高3482メートルの最高峰をヨチヨチ歩きで踏破した鋼鉄ペンギンチャールズの走り、たかが猫舌ごときに止められようか。否! 止められるはずもない。

 永遠のウンコ座りをしていた膝は今や激しく蒸気を吹き上げ、大胸筋を突き破らんばかりに屈伸していた。冥土の土産にとくと見よ、ペンギンの足は鉄をも溶かす。

 チャールズは全ライオンに100ペン身ぺんしんもの差をつけてターフの遥か後方へと置き去りにした。砂塵が一直線に伸びて、地平線の彼方と交わる。もはや点。ペンギンの゜の字も見えない。

 メスライオンたちは次々に脱落し、しょんぼりと肩を落として帰ってゆく。

 

 その様子を樹上からうかがうものがあった。

 しどけなく枝に身を横たえ、ゆらり、ゆらり、縞模様のしっぽを揺らしている。黒ぶち模様の美しい毛皮は木漏れ日の影に似て、あくまでも優美。


「にゃーん……? おもしれーペンギン」


 風がざわめいた。

 立ち枯れの草がまばらにそよぐ。乾いた陽ざしが照り付けた。

 樹上のけものはうにゃぁ……んと気だるい背伸びをし、頭よりおおきなあくびをしてから、金のはちみつをたらすかのように飛び降りた。あくまで自然にさりげなく、ほっそい足をクロスしてのモデルポーズ。視線は遠く、彼方にきえゆくペンギンのゆくえを見晴るかす。

 かすむ大地に砂塵のペン煙のろし


 誰あろう彼こそは世界最速の哺乳類。サバナの熱き疾風かぜ、チーターであった。ちなみに体高およそ70センチの彼から見れば地平に沈む砂塵の主までのおおまかな距離は約2.98㎞。さて問題です。チーターを原点として時速85キロで数直線上を移動する点Cがある。このとき、点CチャールズがT平線と交わる座標Pを求めよ。ふむ、実によい質問だね。世界最速のチーターは脳の回転もまた世界最速。答えをはじき出す。せんせいわかりません。早ッ。

 なぜならチーターはチャールズの後塵を拝するどころか視界に入れることすらできなかったからである。考えてみらるるがよい、樹上にいたときのチーターの目線は地上2メートルにあった。その時点でチャールズはすでに地平線の彼方へと走り去らんとしていたのである。それが地面へと飛び降りちゃったら影も形も見えなくなるのは至極当然言わずもがなで論を俟たない。だめぢゃん! てなわけでチャールズを追いかけるのを世界最速であきらめる。そして世界最速でぽかんと忘れた。彼の名はサバナの熱き疾風かぜ。吹けば飛ぶよな記憶力だ。


 チャールズは嘆いた。まったくサバンナの連中ときたらどいつもこいつもきゃくりょくの持ち腐ればかり。せっかくのカッコイイ厨二ふたつ名も無駄無駄無駄ァ。やはり伝説の王、ダチョウ様を探さねばならぬ。ダチョウ様、ああ、ダチョウ様はいずこにおわす!


 チャールズ自身は与り知らぬことなれど、いつの間にか都合よくティベスティ山地を越えてサハラ砂漠西部にまで到達していた。

 雄大な砂の風紋に彩られた岩山の頂上に屹立し、肩に載せたちっちゃいジープをぬんとそびやかせて周辺を見渡す。

 四方はまさに茫漠たる砂漠。昼は灼熱、夕暮れは真紅。そして夜は氷点下の闇。天空に銀河こぼるる月の砂。ヒュゥウしばれるゥ! 凍える息を吐くたび筋肉が躍動し白く激しい蒸気がゆらめき立つ。

 やがて夜が明ける。払暁の光に照らされ、白き光、白き煙、輝ける超合筋をまとい佇むチャールズの像はいまや神々しくすらあった。

 彼は渇望していた。ダチョウとの出会いを。


 ダチョウさんはいずこにおわす。ダッチョ=サン。ローマ字で書けばたぶんDATTYO=SAN。それらしき姿は鵜の目鷹の目ペンギンの目で見てもまったく見当たらない。

 行けども行けどもダチョウはいない。もしかしたらこのままずっと会えずじまいなのか。チャールズはふいに心折れそうになって肩を落とした。


 もう、あきらめるしかないのだろうか。


 嘆息して空を仰ぐ。塩からい風が頬を撫でた。懐かしいまぼろしがまぶたにかさなる。ああ、あの白い雲は微笑む妻の横顔か。その隣には小さな灰色の雲。おもわずつばさをさしのべる。愛する妻よ、愛する息子よ。ふたたび逢えるはいつの日か。チャールズははらはらと落涙した。

 風よ、もし願いがかなうなら愛する妻アンの言葉をとどけてはくれまいか。雪化粧した冠羽をなびかせて「会えないなら走ればいいじゃない。会えるまで」といつものように励ましてはくれまいか。

 神馬藻ほんだわらにもすがる思いで見上げるも、いつしか望郷の雲は風にちぎれて消えていた。

 風が語り掛ける。会えない、じゃない。会いたいなら走ればいいだろ、会えるまで。


 砂交じりのシロッコが漢の涙を乾かしてゆく。

 沈む夕日を追いかけてチャールズは再び走り始めた。ペンギンに涙は似合わない。


 そろそろ人間の住む都会にさしかかるころあいだった。人間は世界で最も危険な生物だ。迂回すべきなのだろうが、あいにくチャールズはもう立ち止まらないと決めていた。ひたすらに走る。

 そのとき砂丘のふもとからとどろくような地響きが近づいた。見えたのはサイのようなロングヘッド。パワフルでボクシーな鋼鉄の体躯。そして。


 DATTYO=SANと書かれた体!

 オオ! ダッチョ=サン! ハジメマシテ!!


 ダチョウピックアップトラック荷台ケツにでかでかと描かれたロゴ、実際にはちょっとだいぶんつづりが違うような気もするがきっとそれは激しい砂嵐に立ち向かったせいでTYOとかAとかの部分が消えたりさかさまになったりしただけに違いない。チャールズは一介のイワトビペンギンではあるがダチョウを追い求める熱意は誰にも負けぬ。すなわち本物のダチョウは見たことないけど本物のダチョウはとにかくダチョウなのだ! 誰が何といおうとダチョウ=サンと書いてある気がする!!


 ついに会えました音速の駝鳥王!


 チャールズは鋼鉄の巨躯めがけて突撃した。比類なき好敵手と並走しながら随喜の雄たけびを上げる。砂を巻き上げて走る四本のタイヤ! 氷河の崩れるがごとく耳をつんざく爆音エキゾーストノート! 砂に傷ついた歴戦のボディ! オフロード、倒木、落石、急坂すらものともせず駆け上がる勇ましき雄姿! これぞまさしく——DATTYO=SAN!!


 猛き走りの王者はいったいどこからきてどこへ向かおうというのか。窓が開いた。ダチョウの頭に似た手が振られる。さすがはDATTYO=SAN、好敵手に悠然と手を振る。


「やあ君! すごい走りじゃないか! 君ならきっとパリダカにも出場できるぜ!」


 サングラスをかけたヒゲまみれの人間そっくりなダチョウが身を乗り出して笑った。白い歯がきらりと光る。いい笑顔。そしていい走り。これぞ王者の品格。チャールズは熱烈なる尊敬と感動のまなざしをダチョウへと送った。最速を名乗るくせに走らない詐欺師チーターとか口ばっかりの百獣ハーレムの王とは走りのレベルも面構えも違う。


「パリダカとは何でしょうかブオーブオウブルンルルン、エウッ?!」


 チャールズはたずねた。知らぬは決して恥ではない。なぜなら彼は一介のイワトビペンギンであるからだ。世界は広く、そして知らぬことがたくさんある。それを喜びと言わずして何といおうか。


「パリをスタートしダカールめざして全車いっせいにレースするのさ! 今は青khj問rlrは@えっrhチョッhp何で青4ペン-入アギン@がpkしゃべkんッkてんrのおお8ッ!?」


 あいにく後半はほとんど聞き取れなかったが前半部分の最も大切なところだけははっきりと理解できた。パリダカなんだか知らないけれどそこへ行けば最速を競うレースができるという! 夢のようだった。もし何者かになれるのであれば、願わくば王者になりたい。なれるかどうか分からないからこそ走りたい。てっぺんを、先頭を、王者をめざして。それがチャールズの望みだった。ただ走る。ひたすら走る。なぜ走る? だってなりたい自分の姿がそこにあるから。


 チャールズの小さな灰色の脳みそはランナーズハイのエンドルフィンに満たされてさらにスパークした。レース! レース! レース! 鋼鉄の足は砂漠の砂を溶かしながら大地をさらに強く蹴った。ペンギンに追い越されたせいで砂にハンドルを取られスピンして砂丘を転がり落ちるピックアップトラックを一顧だにせず、チャールズは熱き渇望の風となって走る。

 レースに参加するのだ。全世界から最速を競って集まる猛者ライバルと出会うために。サハラ砂漠から地中海を抜けてパリを目指す風、シロッコとなって。


 チャールズが旅立って幾星霜。愛する夫を夢追いろまんの旅へと送り出した糟糠そうこうの妻アンは今、死の床にあった。母ひとり子ひとりで生き抜くに大自然はあまりに苛烈にすぎる。生きペンギンの目を抜くコロニーで羽毛も生えそろわぬ幼きわが子を温めるためにはアンがその命を削るほかなかったのである。


「母さん、僕をひとりにしないで。おねがいだから置いていかないで!」

 今際のきわに母へと取りすがるジュニアであったがアンはもう息も絶え絶え。眼を開けることもままならぬ身であった。かすれる息に血咳の微笑みを混じらせて、ただ、幼きわが子の頬をつばさでいつまでもやさしく撫で続ける。


「スフェン、わたしが死んだら、あなたも旅立ちなさい。チャールズのように」

「嫌だ、母さん!」

 いささか若鳥の産毛が残るものの凛々しい青年へと育ちつつある少年ペンギンのスフェンの頬には、塩類線からたれる白い跡が何本も残っていた。

「もうすぐ羽が生え変わる。そうしたら僕も海へ行ける! いっぱいお魚を取って来れる! だからお願いだ母さん、それまで待ってて。お願いだから!」

 絶海の孤島に打ち寄せる波は激しく荒く、幼ペンギンが飛び込んだとて引く波寄せる波に足をさらわれ、あたら若い命を散らすだけ。岸壁まで徒歩五分の巣に聞こえる波の音は遠く、陋巷のざわめきにしか聞こえなかった。


「ああ、スフェン……大人になったあなたが世界最速のハイドロジェット長魚雷のように海を駆け回る姿が眼に浮かぶわ……本当に楽しみね……あなたなら、きっとチャールズより速く……」


 瀕死のアンはくちばしをわずかにあけ、自身が横たわる木の枝の巣から、赤い布をついばんで引き出した。ふるえるくちばしをもたげ、受け取るようにとうながす。美しかった羽毛は艶をなくしてささくれ立ち、ぼさぼさに乱れていた。

 スフェンは眼をぎゅっとかたくつぶって拒否した。首を何度も横に振る。塩からい水が鼻腔を垂れてとまらない。受け取ってしまえばそれは母の遺言いごんにほかならなくなる。

「違うよ母さん、僕は世界最速なんて望んでない。母さんを捨てて出て行くようなペンギンは父親じゃない! 僕はただ、母さんと……」

 風が凪ぐ。赤い布が地にしおれた。波が音をかき消す。

 やがて一段と大きな波濤が岩礁に打ち寄せてくずれた。流れ込んだ潮が音を立てて引いてゆく。白い泡だけが波間に浮かび、小さな渦を巻いて、なぜかいつまでも消えなかった。


 やがてスフェンは立ち上がった。無言で目元をぬぐい、首に赤いマフラーを巻いた。彼が生まれ育った巣は今、母の墓となっている。

 葬送を終えるとスフェンは決意と恩讐入り混じるまなざしを爛と燃やして振り返った。

「僕はアフリカには行かない」

 低く声を押し殺して彼はつぶやいた。


「世界最速なんかに興味はない。僕は、絶対に、母さんを捨てた奴の背中を追いかけたりしない」

 沈む夕日に背を向ける。食い入るようなまなざしがはるか遠い東の空へと向けられた。くちばしをきっと結ぶ。


「母さん、僕は日いづる国、黄金の国ジパングへゆく」


 ヘイ! こいつを見ろよボーイ!

 ベリクールなマッチョペンギンガイだゼェーーー!

 世界最速めざしてパリダカにエントリーするんだってヨォーー!


 ペンギンに追突されたピックアップトラックがハンドル操作を誤り、笑い声からシームレスの絶叫になって砂丘を転がり落ちる衝撃映像がSNSに投稿されるとすぐさま一千万イイネがついた。大バズりした投稿は瞬く間に世界を駆けめぐり最速マッチョペンギンガイとしてミーム化。老若男女のハートに火をつける。

 投稿は当初、AI作成によるフェイク動画だと疑われ嘲笑の的になるところであった。しかしチャールズの存在は一瞬にして現実だと知れ渡る。砂塵を巻きたてて走るチャールズの姿がテレビ局によって空撮されたのである。OH、モーレツ!


 激走するチャールズに人々は心打たれ感動し熱狂し共鳴した。ただひたすらに前を見つめ、一心不乱にひた走るその崇高なまでにストイックな姿。

 彼はなぜパリに向かうのか? 理由を解明すべく命知らずなジャーナリストが水辺で休憩中の彼に突撃インタビューを試みた。恐れ入りますペンギンさん、なぜあなたはパリへ向かうのですか! 

 もちろんチャールズに人間の言葉は通じない。だが魂の叫びは人鳥共有。通じた。彼は熱望の雄たけびで答える。


「俺は強敵ともに逢うためパリへ行くブォレェーースッ!」


 荒ぶる英雄の叫びが全世界にとどろく。レース! レース! レース! 戦争なんかしている場合じゃない! 万国の脚力自慢よ立ち上がれ! 皆が心を一つにした。戦争を仕掛けた国は自らの愚行に打ちのめされる。戦争なんかしてたらレースを観戦できないではないか。独裁者は権力の座から引き倒され、代わりに栄光へ向かって走るペンギンの像がかかげられた。すべての生きとし生けるものがチャールズの崇高なる理念に賛同したのである。


 戦争なんかしないで走ればいいじゃない、ペンギンみたいに。


 今は亡きアンの微笑みが花吹雪の空に重なる。舞い散る花びらは水面に落ちて、やがて海へと流れゆくだろう。夢もロマンも海に帰る。チャールズを支えたのは妻アンの深く広い愛であった。もう誰も無茶しやがってなどと言わぬ。


 かくて人類は一羽のペンギンから平和の尊さを改めて教えられたのであった。くしくも今年はオリンピックの年。視聴率とブックメーカーの思惑に億兆単位の札束が飛び交うなか、チャールズVS全人類の激走バーリトゥード地球一周レース、《ペンギンボール》が開催されることに決定した。チッ、やはり人間は業が深い。 

 連日連夜、怒涛の続報が熱砂ゆらめくサハラの陽炎をともなって全世界を駆けめぐる。世界最速はペンギンかそれとも人間か。世界中がチャールズの噂でもちきりだ。やがて噂は風に乗って——


 枯山水の庭にひとつ。静寂しじまを破る鹿威しの音色。


 遠き極東の国ジパング——ニンジャ少林寺総本山、遍銀ぺんぎんにて鍛錬していた若き修行僧ペンギン、スフェンのもとへも届いたのであった。


 竹林さんざめく夜。白き修験者装束に身を包み、月下の泉に立つスフェンは眼を閉じ両のつばさを合わせ片足をあげて身を調えていた。

 足元の水面に同心円のさざ波が千々に広がる。

 スフェンにとってチャールズは我欲に負けて母を捨てた憎きペンギンであった。たとえ世界がチャールズに拍手喝采を送ろうとも硬く閉ざされたスフェンの心には何一つ響かぬ。ただ、ただ、許せぬ。そう思ってしまう己が何より愚かであった。恥であった。


「気が乱れておる。くつろげるがよい」


 師父ヤシマの声にスフェンは閉じていた眼をひらいて振り返った。拱手きょうしゅしてこうべをたれる。

「申し訳ありません、先生」

 己が未熟は重々承知。スフェンは目を伏せた。心の乱れは水に伝わる。師父の教え、明鏡止水の境地にはまるで到らぬ。水面に映る己の姿はひどく卑小であった。眼を合わせられないのがその証拠だ。

「ペン許皆伝のそなたに教えることはもうないと思うておったが」

 ヤシマは月を見上げた。あまりにも細く、折れそうな月面にたむけるがごとく、手にした赤房の白扇をゆらりと宙に添わす。


「月は満ちもし、欠けもする。じゃがどれほど異なって見えようともまことの形はついぞ変わらぬはず。そうは思わぬか、スフェン?」


 開・眼!

 何と大きな視野であろうか。スフェンの心は出航前の銅鑼のごとく打ちふるえた。

「私が間違っておりました。先生!」

「よくぞ言った弟子よ。わが教え、明鏡止水を極めるがよい!」

 ヤシマは扇を高く投げ上げる。くるり、くるり、木の葉落としの月下に白扇が舞う。スフェンは高らかに発止! と裂帛の気合。足元の水を翼ではじいて扇の要木を撃ち抜いた。赤い布が一枚、春風にひともみふたもみもまれて散り落つも、水面は幽玄の一枚絵のごとく澄み切って一縷の波すら拗らせてはおらぬ。

天晴アッパレ!」

多謝ドーモ!」

 ゆらぎひとつ、迷い一つなく水面に映り込む月の何たる凛々しさよ。月に落とすは地球の影。いずれは父を離れて輝こう。その成長をまぶしく思わぬ父がいようかいやいるまい! それもまた惜しみなくそそがれる愛であった。


 敬愛する師父に別れを告げ、スフェンは母の形見である赤マフラーをまとい旅立った。

 いざ行かん、麗しきメサ台地の眺望を後にして。はるかなる決戦の地、巴里へ。


 パーーーッパッパパッパパラララーーー! ララララーーー!


「さあ始まりました世紀の一瞬。世界最速ランナーを競う前代未聞の地球一周レース《ペンギンボール》! 頼るは己がはがねの肉体のみ! パリを出発し、モスクワ・ウラジオストク・東京・キャンベラ・南極点・サンディアゴ・ニューヨーク・ロンドン・そしてパリへと再び戻ってくる空前絶後の過酷なレース。どのようなルートを通ってもよい。ただし己の足で大地を走る、蹴る、ジャンプする。それ以外のどんな飛行もしてはならぬの絶対ルール!

 エントリーはもちろんこのペンギン、チャーールズ! そして——」


 後続集団の中にひときわ赤いマフラーがひるがえる。

 チャールズは振り返る。初めて見たはずなのに一目でそうと知れる若き顔がそこにあった。見かわす眼と眼。見ればわかる。アンにうりふたつの優しい口元。アンにうりふたつの強いまなざし。

 チャールズの頬に涙が流れ、同時に精悍な笑みがのぼった。そうだ。立ち止まっている時間はない。

 宇宙で最も早いのは光だそうだ。どこまで行っても先がある。だがあきらめずに走り続ければきっと星にだって追いつけるだろう。星の数ほど好敵手ライバルがいるのだから。


「ブオウッブルンブルンブルンルルンどちらが先にゴールするのか、競争だエウッ!」

 チャールズは高揚する思いのパトスをほとばしらせた。観客、そして赤いマフラーの好青年もまた歓呼の雄たけびで応える。

「父さん、あなたにだけは絶対に負けないッ!」

「望むところだエウッ!」


 世界最速の名をかけてどこまでも走れペンギンよ。誰よりも速く走れペンギンよ。夢は追い求めるだけじゃ届かない。追いつき追い越してこその世界最速だ。


 いざ刮目せよ! スタートの号砲が鳴る!

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