第10話

 自転車に飛び乗り、一気に漕ぎだす。思わず転げ落ちてしまいそうになっても、どうにかハンドルにしがみ付く。

 辺りはもうとっくに日暮れ、わずかに残った光が今か今かと闇に飲まれようとしていた。

 シャッシャッシャッシャッシャッシャッシャッシャッシャッシャッ……

 サッカーの練習の分のエネルギーをすべて使って、元来た道を辿る。

 目の前の視界が一気に二分割され、特急列車の車窓みたいに後方へ送られていく。

 不思議と、息は切れない。


 と、その時だった。


 心臓が、ふぁりと宙に浮いた。天と地が、ひっくり返った。次の瞬間には、私は地面に叩きつけられ、上から自転車が降ってきた。

「……急がないといけないっていうのに」

 立ち上がろうと地面に手を付くと、本能的に目がそちらを向いた。

 手を付いたのは、泥の上だった。

 トラクターやコンバインが持ってきたものではないことは、その泥の大きさから良く分かる。まるで水溜まりみたいに広がった真っ黒い泥。

 ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ

 耳をすませば、坂の上から、思わず顔をしかめてしまいそうな音が聞こえる。


 ――泥人間が、坂を上ってる。


 泥まみれの背中には、見覚えがあった。というよりは、知っていた。

 ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ、ぐちゅ

 泥人間は、両手を前に突き出し、フラフラと何かに引き寄せられるように歩いていく。その両手には、白地に赤い奇妙な模様の描かれた壺が。

――そうか。

 あの壺は、父の骨壺だったのか。

 そして、坂の向こうに待ち構えるのは、朽ち果てた鳥居――。

「……兄貴!」


 鳥居の前で自転車から飛び降りて、鳥居を走ってくぐる。止まる暇なんてありゃしない。

耳に、濁音ばかりのガラガラ声が聞こえる。人間の声とはとても思えない、醜い怪物の声と言われても通じるような声が、何かを一定のリズムで唱えていた。

「ドッカラオンネンジュゴンドッカラオンネンジュゴンドッカラオンネンジュゴン……」

 ドッカラ・怨念・呪言。

 私の感覚神経は、聞こえもしない電波を全身に受け止めていた。手のひらがピリピリと痺れる錯覚を味わう。

 ジャリ、ジャリ、ジャリ、ジャリ、ジャリ

 本殿の奥にある小さな鳥居の手前に、紅色の炎を確認することが出来た。

 その手前には、ひざまずく泥だらけの、白いタンクトップとパンツしか身に着けていない兄、そして、爆発した白髪とボロボロの布を重ね着した老婆……。

 ――あれが。


 私の、祖母なのか。


 なら、ついこの間、深夜に部屋の中に侵入してきたのも彼女なのだろう。骨壺の蓋が開いていたのは、“何か”を確認するためだったのではないか。

 私はひとまず、本殿に隠れて様子を窺う。

 兄の顔はここからは見えないが、江戸時代の武士のような、忠誠心に似たものが見て取れる土下座を実の祖母に向けてしていた。

 対する祖母は、例の紙垂しでを頭の上で振りながら、呪文を唱えている。

ピィュルルルルルル

 強い北風で砂や落ち葉がこちらに飛んでくる。

「ひゃっ!」

 その砂が、銃弾のような速さで目に襲い掛かって……。

――しまった。

 そっと、私は首を出してあちらの様子を窺う。が、すぐに首を引っ込めた。


――目が、合った。


 ぎょろりとした妖怪の眼が、こちらに焦点を当てたのが、はっきりと。

 じゃっ、じゃっ、じゃっ、じゃっ、じゃっ

 口の中が一気に乾燥していく。

 キキキキキキキキキキキッ

 蝙蝠が四匹ほど、夜闇を切り裂いていった。

 ――今だ。

 私は地面を蹴り、祖母が歩いてくる反対側へ走り出した。

 ――あわよくば、そのまま兄貴を助けて走って……。

 すぐに息が上がり、足が何度ももつれそうになる。

 だが、強い風が首辺りで二つに分かれていくことから、明らかに普段以上のスピードで進んでいる。

 ――はず、だったのに。

 目の前に、ギョロリと血走った眼球でこちらを睨む梅干し顔の老婆が仁王立ちしていて、私は何とか止まろうと足を止めた。

 が、しかし、体重は既に数メートル先へ向かっていて、顎から砂利の敷かれた地面へ激突した。

 顎の骨に激痛が走る。触ってみると、動かないはずの場所がグラグラと動いている。

「ったっ……」

 歯を食いしばりながら、のろのろと立ち上がろうとする。

 が、すぐに腕の力がヘナヘナと抜けていった。


「ぐぅぅふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ、ぐぅぅへへへへへへへへへへへへへへ、ぐぅぅひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ」


 ガタガタの黒っぽい歯を剥いて、普通ではありえないほど口角をグワッと上げて、嗤っている。

 じゃっ、じゃっ、じゃっ

 一歩ずつに嗤い声を大きくしながらこちらに迫ってくる。

 足が、腕が、歯が、ガコガコガコガコと揺れる。とんでもないスピードで、揺れる。

 目を包んでいたはずの涙は、いつの間にか涙腺に吸い込まれていったみたいだった。

「……やめて」

「いひひひひひひひひひひひひひひひ」

「来ないで……いや」

「うぅひぃひひひひひひひひひひひひひひひひ」

 後ずさる私に、祖母こと山姥が顔を近づけてくる。

 ぴきっ、ぴきっ

 眼球が、音もなく、カメレオンみたいに左右別々に動いている。

 山姥の爆発した白髪から、埃臭さと魚臭さがダブルで鼻の粘膜に襲い掛かる。その異臭で脳がドカンと爆発を起こし、ガクンと頭が後ろへ垂れた。

 そのまま、身体が、地の果てへ向かって堕ちてゆく。

 その途中で、山姥のしわしわの手が私の首根っこを掴み、グイッと引き上げた。

「ぐっ」

 ものすごい力で、気道が瞬く間に圧迫されていく。ヒィ、ヒィ、ヒィとか細い笛のような音が口からした。

「飛んで火にいる、夏の虫」

 山姥が耳元で嘯いた。

 全身の毛が逆立ったと思うと、意味を考えるまでもなく、そこで意識が絶えた。




 目が覚めた。

 目の前で、炎が踊っていた。

 まだ、生きているのかということ自体が私にとっては驚きだった。

 足を一歩踏み出そうとするが、動かない。

 どうやら、キリストのように十字に磔にされているらしかった。首筋は、木の樹皮を捉えている。

「ドッカラ沼の底にぃ沈んだぁ息子のぉ魂が再び騒ぎ始めでぇ、私はここに来だぁ」

 悪寒が脊柱を貫通した。

 耳元に、口からの息が吹き込まれていく。

「私はぁ、まざが息子が選ばれるとはぁ思いもせずぅ、大層驚いたが、教祖様のだめに息子を沼へ沈めた。だが、最近おがじな電波を住民が受け取り、頭痛などを訴えると聞いた。やはり、息子の発している電波だった。魂が、沼の底で暴れはじめだのだ」

 淡々と、ガラガラ声で話す山姥。その声の中には、いくら険悪だったとはいえ息子を失ったことへの悔いも少しばかり含まれているように思えた。

「魂の分身を収めた壺を見に行っでみりゃあ、既に脱出を果たじでいだ。暴れ始めた魂を鎮めるには、再び人身御供を行わねばぁならないのだ。そこで、必然的にぃ孫にぃ白羽の矢が立った。私には孫に思い入れは全くなく、迷いは、無かった」

 ぐふふ、と荒い息遣いを肌が感じ取る。

「私は生まれ育った九十九町に戻り、毎日呪言を唱えぇ続けた。効果は、すぅぐぅに現れた。孫は、父を抑止するためにぃ沼に沈むための操り人形と化したのだぁぁっ……」

 だが、と言うと同時に、山姥は顎の元にしゅろ縄を回した。

「おみゃぁがいきなり入ってきてなぁ、一人でいいというのにぃ、教祖様の教えにゃあ関係の無い人間の殺傷を禁ずるとあるのにぃ、おみゃぁが来たんだぁ。仕方ねぇんだ、これも何かの因果なんだぁ、おみゃぁも一緒に沈んでもらうしかねぇんだぁ……ぐふ、ぐふふふふふひひひひ」

 ごくりと唾を飲んだ。いや、正確に言えば唾は全く口内に湧かず、飲んだのは灰色の空気だけだった。


 山姥がこちらへ回り込んで、意味の分からない呪文を唱え始める。

 キッとこちらを向いて、彼女は腰から鉈を取り出した。

 ぎらりと、鋭利な反射光が私の網膜をジリジリ焼いた。

「兄に、何か言い残すことはねぇか」

「……」

 大好きだよ、愛してるよ、尊敬してるよ、また会おうね、伝えたい言葉は山ほど脳内に溢れかえるのに、飢えた老人のような「あぁ、あぁぁ」という声しか出なかった。


「ねぇか、なら、さらばだ」


 鉈の刃が、私の喉を一閃した。


 最後に見たものは、鉈でも山姥の眼球でもなく、真摯で温かい目でこちらをじっと見つめる兄の目だった。


 目が白濁し、瞼を開けていても勝手に視界が淀んでくる。

 耳からは意味の分からない呪文と紙の擦れる音、鈴の鳴る音、そして土を蹴る音が入ってきた。

 私は担がれて、山の中へ運ばれているらしい。

 湿った落ち葉の臭いが鼻腔に引っかかりながら通る。

 喉を切られておびただしい量の血が出たはずなのにまだ意識があるのは、本物なのか、それとも夢の中なのか、あるいは向こうの世界から俯瞰したものなのか……正解は、神のみぞ知る。


 びちゃっ


 刹那、身体が真っすぐ落下した。下半身が、何かの中へ入った。身動きをしようと思っても、ものすごい圧力で手足がピクリとも動かない。


 ずぶ、ずぶずぶずぶ、ずぶ、ずぶずぶずぶずぶ


 腹、胸、喉の順に圧力が掛かっていく。運命さだめと分かっていても、懸命に呼吸をしようと上を向くが、口の中に水っぽいヌルヌルヌチャヌチャした物体が入ってきて、ようやく踏ん切りがついた。


「……彩華!」


 誰かが、私のことを呼んでる。

 現実か、それとも幻かの区別もつかない。

 耳の中に、泥が侵入してきた。


「お前は、これまでもこれからも、俺の一番の妹だからな!」


 情熱的な声だった。

 そこからも何か叫び声が聞こえたが、泥に吸収されて何も聞こえなかった。

 ――向こうで、みんなで待ってるよ。

 地の果てまで、身体はゆっくりゆっくりと、無駄なスローモーションで落下を続けている。

 ずぶ。




(完)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ドッカラ・オンネン・ジュゴン・レディオ DITinoue(上楽竜文) @ditinoue555

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ