【KAC2024④】貝瀬学院大学学生食堂の7人のおばちゃん

宇部 松清

第1話

「首と手は年齢が出るのよねぇ……」


 そんなことをぽつりと呟きながら、店内を歩く。


 あらやだ! せっかくの出番なのに、あたしったら辛気臭い感じで始まっちゃったわね! あたしの名前は橋本はしもと郁恵いくえ、貝瀬学院大学学生食堂で働いている、いわゆる『学食のおばちゃん』よ。


 今日は家の洗剤が切れちゃったから、近所のドラッグストアに来たってわけ。それで、食器用洗剤と洗濯洗剤の詰め替え用を買い物かごに入れ、ついでに何か切れてるものはなかったかしらと、記憶を手繰り寄せながら店内をうろついていたの。そこでふと目に入ったのが、ショッピングカートを押す、あたしの手。明らかに水分量が足りていないのだろう、皮膚がピリリと突っ張ってるのを感じる。まじまじと見てみると、指先もささくれが出来ている。


 そう、手荒れと言えば、ウチの娘も大変なの。美容師だから、荒れ放題なのよね。それでもまだ若さである程度はカバー出来るんじゃない? なんて思ってんだけど、いやー、あたしも美容師舐めてたわ。若さでもカバーしきれないレベルでガッサガサなのよね。だからハンドクリームでも買ってあげようかしらねぇ。


 そんなことを考えて、ずらりと並んだクリーム達を吟味していると、壁面のシャンプーコーナーで知り合いを発見した。職場の同僚であるマチコちゃんと、その恋人の白南風しらはえ君だ。


「マチコさん、いま使ってるシャンプーどれ? ついでに買ってこ」

「でも今日は他にも色々買いますし。荷物が」

「だから、むしろ俺がいる時に買っちゃった方が良いじゃん」


 任せてよ、全部持つし。


 いつもよりも数倍優しい声に、ついつい頬がにやけてしまう。

 おうおう、あの俺様君がねぇ。こうなっちゃいますかぁ。ていうか何? あの二人ってもう同棲とかしてるのかしら?


「え――……っと、いまはこれですけど……。あっ、でもこっちでいいかな」

「えっ? いま使ってるのはこっちなんでしょ? 違うのにすんの?」

「そうですね。こっちのが安いので」

「えっ。でも、いま使ってるのはこっちなんだろ?」

「はい」

「こっち買えば良いじゃん。詰め替えなんだし」

「大丈夫です。いつもその時に安いやつを買っているので」


 えっ、マチコちゃん、そうなの?!


 いや、確かにあたしも安さで選んでたけど、さすがに若い頃はこだわってたわよ? それにいまは娘もうるさいし。


 だからあたしも、市販品ではあるけど、それでもそれなりにちょっと良いやつを使ってるんだけど。えっ、マチコちゃんまだ三十二よね? もうその「安いやつなら何でもいい」に到達するの早すぎない?!


「マチコさん、もしかしてあんまりそういうのこだわらない方?」

「そうですね。ちゃんと洗えていればいいかな、というか。染めたりしていないので、特に傷んだりもしてませんし」


 ははぁ成る程。確かにね。パーマかけたり染めたりしたら、ダメージヘア用とかカラーリング用とか色々あるものね。


 ええ、でもそれで良いの? マチコちゃん。

 ていうか、どう出るのかしら、白南風君。


 思わず棚の陰に隠れて様子を伺う。大丈夫、おばちゃんってね、耳が恐ろしく良いの。姑の声は聞こえないけど、お客さんの注文とか、こういう大事な話は何メートル離れてたってばっちり聞こえちゃうんだから!


「せっかくだし、俺にゆだねてみない?」

「!!?」


 マチコちゃんの髪を一房掬い取って、それに口をつける。


 いやいやいやいや! 白南風!! それはお前家でやれ! ここ、お店! お店だから! 迂闊にイケメンムーブかましてんじゃない!


「ちょ、ちょっと何するんですか、し、恭太さん!」


 そうよね。マチコちゃん。正しい反応だと思うわ。それはそうとマチコちゃん、いつになったら『恭太さん』って一発で呼べるようになるのかしら。


「さっき私、ニンニクマシマシの背脂爆盛りラーメン食べちゃったんです! に、匂いついてるかもしれませんから! それに汗もかいてますし!」


 気にするところそこ!?

 そこじゃなくない!?

 場所じゃない?

 普通場所を気にしない?!


「大丈夫、俺も同じの食べたし。全然気にしない。むしろマチコさんと同じ匂いなわけだし、これはもう実質セッ」

「何言ってるんですか」


 ほんとだよ白南風!

 マチコちゃん、ナイスツッコミよ!


「まぁそれは置いといて。ねぇマチコさん、もし良かったらだけどさぁ、俺のお勧めのにしない?」

「し、恭太さんのお勧めのですか? メンズの、ってことですか? あの、スースーするやつですか?」

「いや、メンズのじゃない。ていうか、俺あのスースーするやつ使ってないからね?」

「えっ?! 男の人ってみんなあのスースーするやつ使うんじゃないんですか?!」

「参考までに聞くけど、マチコさんが言う『スースーするやつ使ってる男の人』って――」


 アラッ、何?! 白南風君ったら、マチコちゃんの男性遍歴が気になっちゃった感じ?! 目がマジよ。こっわ。


義孝よしたかと父です」

「オッケ、それなら良し」


 良かった! 良かったわね、白南風君! 義孝君って、アレよね、弟君。とりあえずあたしは『スースーするやつ』がゲシュタルト崩壊しそう。


「せっかくボディクリームとハンドクリームは俺のお勧め使ってくれてるんだし、髪も俺好みにしたいんだけど」

「あの、そんなに高いやつは」

「大丈夫、マチコさんが気を遣わないように、高くないやつにするから」

「それなら、まぁ」

「それに何なら俺が出しても」

「自分のものは自分で買います」


 ヒューッ! 俺色に染めたい! 俺色に染めたいのね、白南風君! そしてマチコちゃん、頑なね!


「というわけで」


 と言って、これとこれ、あっ、せっかくだからボディソープも、と商品を次々とかごに入れていく。確かにどれもそう高いやつではない。かといって、めちゃくちゃ安いやつでもないけど。むしろ、無添加を売りにしていて香りが控えめのものだ。ちょっと意外だわね。俺好みの~、なんて言うからには、好きな香りがあるのかと思ったのに。


 というのは、マチコちゃんの方でも同感らしい。


「何か意外ですね。もっと香りの強いものを選ぶのかと思いました」


 と目を丸くしている。


「これならあのクリームの匂いと喧嘩しないだろうし」


 そうそう最近マチコちゃん、ふわっといい香りするのよぉ。っていっても、あたしらの職場って一応飲食だからね? 香水はアウトなんだけど、それでもシャンプーとか柔軟剤とかはさすがに制限されないから。そういやホワイトデーにハンドクリームやらボディクリームやらをプレゼントされたって言ってたものね。ていうかね、アドバイスしたの、あたしらだし!


「マチコさん自身の香りも邪魔しないだろうし」

「わ、私自身の、って。あの、汗もかきますし、そろそろ加齢臭とか」

「加齢臭はまだ早いでしょ。それに、マチコさんからだったらどんな香りでも俺は気にしないけど。むしろ多少匂」

「白南風さん!」


 おっ、さすがのマチコちゃんも声を荒らげたわね。思わず名字呼びになってる。


「久しぶりに名字で呼ばれたな。ちょっとドキッとしたわ」

「すみません、つい」

「いや、こっちもごめん。ちょっと調子に乗った。でも、あんまり強い匂いはない方が好きなのほんと。あのグリーンティー、ほんとに気に入ってるからさ、あれだけ纏っててほしくて」

「まぁ、そういうことなら」


 かごの中の商品に視線を落とし、ちょっと頬を赤らめる。んまー、マチコちゃん乙女ねぇ。


 全く可愛い二人ですこと。

 あの白南風君がこんなになっちゃうんだものねぇ。

 さ、あたしもそろそろ自分の買い物に、とUターンしかけたその時だ。


「マチコさんの手、きれいになったね。ささくれがなくなってる。指先もちょっと柔らかくなった?」


 マチコちゃんの手を取って、彼女を真正面から見つめる。やってることが完全に物語に出て来る王子様だ。


 何度も言うけど、ここ、お店よ?!


「え、と。あの」

「ちゃんと毎日保湿してくれてるんだ。まだクリーム残ってる?」

「まだ残ってます。あれはここぞって時にだけ使っているので。普段は別のやつを」

「またプレゼントするから使い切っちゃって良いのに」

「そんな簡単に言わないでください。あの香りが似合う手になるように、って目標にしながらお手入れしてるんです。だから、大事に使いたくて」


 あらっ、何よマチコちゃんったらそんな可愛いことしてるの?! これはもう白南風君も嬉しいんじゃないかしら?!


「くぅぅぅぅぅぅぅぅっ!」


 どこから発しているのかわからないけど、声にならない叫びを上げ、白南風君が片膝をつく。マチコちゃんの手を持ったままだ。かしゃん、とかごが床に落ちた。その姿を見て、絵本の中に描かれたお姫様と王子様を思い出す。


 絵本の中の王子様は片膝をつき、お姫様の手の甲に優しく口づけを落とすのだ。そうして求婚し、二人は末永く幸せに――。


「し、恭太さん、お店の中ですから!」


 そう、何度も言う。

 ここは店内なのだ。


 そういうのは家でやれ。

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