旋律のノイバラと夜の種
ナナシマイ
p.?? また来年、あなたにお花を贈ってもよいですか?
『また妙な場所に繋げられるのはごめんだからな、今年も花を寄越すつもりがあるならこの旋律を歌え』
そんな言葉とともにメッセージカードの端に書かれた短い旋律は、魔術の楽譜なのだろう。几帳面な夜の魔術師らしく繊細な装飾記号が使われており、それだけで芸術作品のような美しさがあった。
(切り取って家に飾ったら、魔術師さんは恥ずかしがるかしら)
彼にとってはなんでもないものかもしれないが、魔術に馴染みのない魔女にとっては違う。ましてや花贈りの日にその相手から送られてきた催促なのだから、浮き立ってしまうのもしかたないだろう。
ふふっと微笑みながら、森の魔女は当然用意してあった、花を包んだ布袋を手にする。
「では、花贈りに行ってくるわね」
「……気をつけるんだよ」
相変わらず心配性な家の言葉に頷いてから、口の中で軽やかに旋律を転がした。
暗転する視界のその向こう。
魔女は、不思議な薫りを見ていた。
*
いつの間にか、背丈の低い草原の中に立っていた。
家にいたときは真昼だったはずだが、この空間の陽は西の低い空をわずかに染めるだけで、光の主役は星に渡っている。ぼんやりと全体が明るく感じるのは、少し離れたところにある小さな森が放つ灯りか。
(惑いの間だわ。けれど……)
森よりの風は甘い花の香りと不思議な旋律を運んできていて、そこにはかけらの悪意も感じない。もちろんそうだからといって油断できる相手ではないが、少なくとも今日に限っては純粋に花贈りを楽しめそうだ。
ゆっくりと風に向かって歩いていけば、森の手前、夜色をした人間が佇んでいる。
「来たか」
「素敵なお誘いをありがとうございます。そしてここも、とても綺麗なところですね」
近くで見た森の灯りの正体に驚きながらも、話があるまでは触れずにおこうとする魔女に気づいただろうか。待ち合わせ相手である魔術師は磨いた黒檀のような瞳に愉悦を乗せた。
「気に入ったのか?」
「はい、とっても。魔術師さんが紡ぐ夜はいつも美しいですけれど、こんなふうに淡い色あいにもできるのですね」
大切な人に花を贈るというこの特別な日に、夜の魔術師が無粋な真似をするはずもあるまい。彼からの問いかけにはどうしても慎重になってしまうが、ここは素直に頷くことにした。
なんといっても目の前にあるのは、森の魔女ですらなかなか見ることのできない特別な森なのだ。そのような景色の中で花を贈りあうことができるなら、少しばかりの損失は見逃そう。
「森だけのつもりだったが、この場所ごとやってもいいぞ」
「……え? あ、あの……」
空いているほうの手を取られ、そのまま森へ入ろうとする魔術師に続いてしまう足を、ぐっと留める。
景色としてならともかく、この森に入るわけにはいかない。
「おい」
「魔術師さん。これは、旋律のノイバラの森ではありませんか?」
「そうだが」
旋律のノイバラの森。それは世界でも珍しい双子の魔女――旋律の森の魔女と、ノイバラの森の魔女のふたりが司る森だ。その名の通り音を奏でるノイバラだけが生えている森で、周囲に漂う香りと旋律の美しさに惹かれる者は多いが、彼女たちの許可なく立ち入ればたちまち呪い殺されてしまう。
森の系譜の頂点にある森の魔女も例外ではなく、旋律のノイバラの森には特別な自治権を与えているほど。
力の強さは関係しない、どうにもできない領域なのだ。そのようなところへ足を踏み入れることに魔女が恐れていると、しかし魔術師はふっと口の端を持ち上げる。
「正当な対価として得たものだ。ここに限れば呪いの心配はしなくていい」
「……対価として。で、では、魔術師さんが歌を……!」
今度はきらきらと目を輝かせた魔女を見て、しまったというふうに顔を顰める魔術師。
森の魔女がその双子の魔女に対して苦手意識を持っているのには、もうひとつ理由があった。旋律のノイバラは可憐な花だが、それを司るふたりの魔女はかなり歪んだ性癖の持ち主なのだ。
彼女らの許可を得るための最低条件は、同族を殺す力を持った歌を披露すること。
とくに親族同士での抗争を好み、複数人で歌いあわせて生き残った者に報酬を与えるといった楽しみかたをするという。
(魔術師さんの歌は、聴いてみたい……けれど、知り合いに聴かせるのは嫌がりそうだわ)
今の反応を見ても、夜の魔術師は、誰かを犠牲に歌を披露したに違いない。
魔術師なのだから、彼もまた音楽を嗜んでいるだろうことはわかっていたが、夜の魔術師が歌う場面はあまり想像できなかった。それだというのに、森への立ち入り許可のみならず森そのものを得たというのだから、双子の魔女を相当に喜ばせたことは明白。であれば今回ばかりは、残酷な曲を扱うことへの嫌悪感よりも、彼の演奏に対する興味が勝るというものだ。
しかし魔女は、その興味をふわりとした笑みで誤魔化しながら、特別な森へ足を踏み入れる。
ここで必要以上に追求せず興味もなさそうにしておけば、いつか歌ってくれるのでは、という打算が狡猾な魔女にはあった。
素朴な白い花びらが奏でるのは、慈しみ愛情を伝える音。
たおやかな旋律は森の要素を震わせ、その振動が淡い光となる。
歪んだ性癖を持つ魔女たちが司っているとは思えないほど、旋律のノイバラの森は清らかで美しい。
森の魔女は、ほうっと感嘆の息を吐いた。
やはり、自分の要素そのものである森が、なにより愛おしいのだ。
(そういえば、さっき魔術師さんは、この森ごとくれるという意味あいのことを言わなかったかしら……)
さすがに聞き間違いだろうと魔術師を見上げれば、彼はなにを思ったか、「ったく、相変わらず目ざといな」と呆れの表情を作る。
謎めいた勘違いに魔女がぽかんとしていると、魔術師はすぐ隣の木からノイバラの花を摘み始めた。
「その食い意地をどうにかしろ」
「え……――ひゃむ」
唇にいきなり押しあてられた花。ひやりと思わぬ冷たさがして、反射的に口を噤んだ。しかしこちらを見下ろす瞳は有無を言わせぬ鋭さで、魔女の口は切り開かれるようにそれを受け入れる。
(お花を、凍らせたのかしら)
そんな冷たさは舌の上ですぐに溶け、じゅわりと瑞々しい甘さが広がった。
「ふあ……まぁ。この甘さは、今年の初雪砂糖でしょうか」
「ああ。毎年、初雪を被せて熟成させるようにしてある。……いいか、外の雪に繋いでいるのはこの木だけだ。他の花は見るか摘むかにしておけよ」
「……お菓子なのはこの木だけ、他は見るか摘むか、ですか」
このような言いかたをするということはやはり、この森全体が贈り物なのだろう。まさかここまで大きな花を贈られるとは思わず、魔女はそっと俯いて自分が用意した花の入った袋を見やる。
中にあるのは、指先でつまめる程度の花なのだ。
「ほう、これだけでは不満か?」
魔女は慌ててぶんぶんと首を横に振った。
こっくりとした葡萄酒色の髪が、旋律のノイバラの光を受けて鮮やかになびく。
(花贈りは勝負ではないけれど、これ以上に増やされてしまったらたいへんだわ……!)
「つ、次はわたくしの番です! 今年は、このお花を贈りますね」
花を包んでいた布袋を渡すと、夜の魔術師はさっそく口を開いて中を確認した。そうして少しのあいだ固まったかと思えば、ふいに手袋を外し、中から一本の花を取り出す。
冬の星に似た青白い光があたりに滲んだ。
「……なんだ、これは」
「森の夜の種を咲かせたのです」
「…………は?」
釣鐘草に似たその花は茎頂付近で上品に連なり、揺れればしゃらしゃら夜の音を奏でる。
「とある森の夜が古くて枯れそうだったので、種ができるだろうとしばらく見張っていたのです。芽吹く直前に見つけられてほっとしました!」
種の生まれた森で芽吹けば森の夜そのものとして成長するが、外へ持ち出し、夜ごとにひと掬いの星灯りを含ませた水で育てれば、こうして美しい花が咲く。
もともとはひとつの夜となるはずだった花であるため、かなり濃い魔法の要素が含まれているものだ。
「夜の要素が強いでしょう? 魔術師さんにぴったりだと思ったのですよ」
混じりけのない人間でありながら、人間離れした深さで夜を扱うこの魔術師は、今も緻密な魔術を展開し続けているのだろう。直に触れているというのに侵食ひとつ許さない。
「その森で今、夜が枯れたらどうなる?」
「次の種が芽吹くまでは、夜のこない森になりますね」
「……お前な」
この人間が見せる表情の変化は、ほとんどが呆れで、残りは残忍な魔術師らしい愉悦か、長命な生き物が携えている途方もない歴史に対する無防備くらいだ。
(それでいて、とても素敵なものを用意してくれるのだもの……)
そのような相手に贈り物をするとき、魔女はいつも不安になる。
「気に入りませんでしたか?」
しかしそこで頭をくしゃっとされ、森の魔女は頬を膨らませた。また髪の毛を狙ったのかと目を向けると、夜の魔術師はどきりとするほどに鋭利な笑みを浮かべていた。
森の夜の花を丁寧に布袋へとしまってから、彼はまた魔女の手を引いて旋律のノイバラの木々が作るアーチの下を歩きだした。
やわらかな音階と光に、魔女の心はゆったりとほぐされていき、しかし時おり向けられる選定の気配が気になってしかたない。なにをするつもりなのか訊ねようにも、花々と魔女のあいだを行き来する視線は真剣そのもので、邪魔をしてはいけないという気分になるのだ。
そうしてしばらく続いた緊張感は、新たに摘まれたノイバラの花によってようやく破られた。魔女には細かな違いによる判別はできないが、目利きの選定を見事に勝ち抜いたのだから、たいそう美しいのだろう。
魔術師の手の中で編まれた魔術。
旋律を呟いていた花びらが、そっと硬化する。
「そのいつも着けている髪飾りとの相性もいいだろ」
耳の上に差し込まれたそれが自分によく似合っているだろうことは、見なくともわかった。毎日欠かさず着けている白い小花の髪飾りと、互いに引き立てあっているだろうことも。
髪に、頬に、それから顎先に触れた指が惜しむように離れていった。
心のあたりがぐぐっと締めつけられたようで、魔女は口をむずむずさせる。
(森そのものに、お菓子、それから髪飾りまで……お花ひとつで貰いすぎなのではないかしら)
たった一本の花を贈っただけの自分とは大違いだ。
喜びと同じくらい、不思議な痛みが押し寄せてくる。
この人間は森の魔女の物語に出てくる者として本当にふさわしいのかと、見極めていたあの頃はどこへいったのだろう。いつしか夜の魔術師と重ねる時間は当然のものとなり、それどころか、魔女にとっては近い未来に必ずやってくる命の期限を恐れてすらいた。
「魔術師さん」
「……なんだ」
「また来年、あなたにお花を贈ってもよいですか?」
あと何度、この言葉を言えるだろうか。
手を出すことは許されないはずだった旋律のノイバラの森の中。
寂しげにそう微笑んだ森の魔女は、ひとつ、夜の魔術師の新しい表情を知った。
旋律のノイバラと夜の種 ナナシマイ @nanashimai
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