blink of an eye
千千
消える一秒
「わ。雨降ってんじゃん、傘ないのに。どうしよ」
「店どっか入っちゃおうよ。そのうちやむんじゃない?」
音もなく静かに降る小雨は、街に蜜をまとわせたかのような艶を出させ、行き交う傘と流れるタクシーのヘッドライトが、その中であやふやに浮かんでいる。
――23時59分48秒――
「ありがとうございました~」
「社長ォ~また来てねえぇ~」
「ん~、ちゅっちゅっ、ん~~ちゅっ」
「あー、疲れた。しつっこいのよ、あの
――03時14分21秒――
「そこでなあぁ、言ってやったんだよお、俺はあぁぁ、びしっと――」
「そうだー。そうだー。言ってやれー」
「もう帰りましょうよ、ね、飲みすぎですって」
「ん? おらぁ飲んでないぞお」
「そうだぞお、俺はなあぁ、世が世ならなぁ、殿様ぁだったんだぞお」
「はいはい、わかりましたから。あ、タクシー。タクシー!」
「き゛も゛ち゛わ゛る゛い゛……」
「うわあああ! ちょっと待ったぁぁ!」
――04時31分37秒――
ごぉ~。んごぉ~。かっ。……。すぅ。…ごぉ~~。
「お兄さん? ちょっと、お兄さんって。起きな。ほれ、ここで寝ないで。シャッター下ろせないから、ね。ちょっと。なぁって、お兄さん」
――04時59分12秒――
ぽつ。ぽつ。
ぽつ。
雨がやんでいくにつれ、ギラギラとした色鮮やかなネオンが、ひとつ、またひとつ、消えた。
ぽつん。
夜明けが近い。
街は、ひたひたと紫がかった藍色に煙る。
――04時59分55秒――
カランと空き缶の転がる音。猫がうなる小さな声。
新聞配達の自転車が通り、ゴミ収集車が置かれているゴミ袋を拾っていく。
ぴちゃん。
ぴちゃん。
ナーオ。
カア。カア。
カラスも鳴いている。
――04時59分59秒――
ぴちゃん。
ナー、ウウゥ。
――04時59分60秒――
ぴ―――――――――――――――――――――――――――――――
電線から落ちてくる一滴。
宙に浮かぶ水の玉。
その下の水たまりには、波紋が広がったまま。
すべてが止まった。
そして。
――05時00分00秒――
――ちゃん。ぴちゃん。
ニャシャーッ。
ガチャン。ガチャン。キッ。ゴトン。
ブロロロロ。
カアアアーーーッッッ。
玄関の郵便受けに入っていた新聞を取り、男が部屋に戻ってきたところで彼の妻が二階から下りてきた。
「あら、あなた。もう起きていたんですか?」
「ああ。目が覚めてしまったんでな」
「新聞は――あぁもう来ていましたか」
「うん」
「じゃあ、ごはんよりさきに、お茶を入れましょうか?」
「そうだな。頼むよ」
「はい」
男はソファーに座り新聞を広げるが、文字が見にくいことに気づく。もう還暦をとうに過ぎ、細かい文字を読むには老眼鏡が必須な男はまた立ち上がり、いつも置いているテレビ横の棚に向かった。
「あれ? あれ?」
どうしました? と、妻が急須から湯飲み茶わんに茶を注ぎながら声をかける。
「眼鏡がないんだよ。おかしいな、この辺りにあるはずなんだが。…ないなあ。どこへやったんだろう」
「………………」
盆に湯飲み茶わんを載せ、妻はゆっくり男のそばへとやって来た。そして、にっこり笑って言う。
「頭に載せていますよ」
ウーー。カア、カア。ウゥゥー、シャアーッッ! カアーッ。
野良猫とカラスの残飯争いは、今日は猫の勝ちのようだ。
ウニャウ、ウニャウ。
まるで、うまいうまいと言っているかのように鳴きながら、猫は一生懸命食べている。
………………。
ふと、猫は食べるのをやめて、斜め上を見た。
そこに浮かんでいるのは、忘れられたひと粒の雨。
フンフンと鼻を近づけるハチワレの顔が小さく映っている。
………………。
触ろうかと猫が丸い手をそっと伸ばすと、寸前で糸が切れたかのようにストンと落ちて新たな波紋を作った。
「フニャ?」
猫は小首をかしげたが、すぐに興味を失い、また食事を再開する。
だんだんと朝日が差し込み、街が明るくなってゆく。
空には虹が出ていた。
カア。
カラスが捨てゼリフのようにひと声鳴いたあと、何かを落とす。
びちゃっ。
猫に向けた復讐の一発(フン)なのかもしれない。
だがそれは、隣で大の字になり、口を開け、眠りこけている若い男の鼻の上に直撃していた。――あと数センチずれて口の中に落とされていたらと思うと、不幸中の幸い、運がいい。
んがっ。う…うぅ~ん。ううぅ~~ん。
鼻にツイている男はイヤイヤと首を振り、うなされだした。
やがてすっかり夜が明け、虹は青い空に溶けていく。
面影はもう薄く、ほとんどわからない。
食後の毛づくろいをしていた猫は、耳をピクピクと動かしたあと、どこかへ行った。
<おわり>
ありがとうございました。
うるう秒とは、時計と地球の自転のズレを調整する一秒のことで、実施するとなったら日本では午前九時に行います。
ちなみに、うるう年とは関係ありません。
二〇三五年に廃止することが決定いたしました。
blink of an eye 千千 @rinosensqou
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