はじまりの海で
「ねえ、弦くん。ねえ……弦くんってば」
桐の箱の中で静かに眠る彼は何百回呼びかけようとも、もう二度とその優しい眼差しを私に向けてくれることはなかった。
私がお腹の中に彼との愛の結晶を宿したことがわかった、その翌月の末のことだった。
取引先のもとへ向かっていた彼の車は、対向車線にはみ出してきたトラックによって数十メートルも跳ね飛ばされると、路外の
報せを受けて病院に駆けつけた時、彼はすでに絶望的な状態だった。
機械を介して辛うじて心臓が動いているだけだと、医師にはそう聞かされた。
翌朝になり、体中につけられていた様々な管や機械を取り外された彼は、これから親子三人で無限ともいえるような思い出を育むはずだった我が家へと帰ってきた。
「ねえ、弦くん。私、弦くんがいないとなにもできないよ」
テレビの配線だってうまく繋ぐことはできない。
アイロンだって弦くんのほうが上手に掛けてくれた。
車の運転もまかせっきりで、ハンドルだってもう何年も握っていない。
「……でもね。子育てはきっと、私のほうが上手にできると思うの」
左手を彼の手の上に置いたまま、右手で自分のお腹をそっとさする。
「雲の上から見てて。私、頑張るから」
だからどうか、安心して眠ってください。
それでいつか私がそっちに行ったら、その時はまたいっぱいいっぱい、いっぱい甘えさせてください。
やがて生まれてきた女の子には、ずっと以前に彼に宣言した通り弓と名付けた。
職務中の事故であったこと。
ドライブレコーダーに記録されていた映像で、相手側の全面的な過失が証明されたこと。
それに、彼が残してくれた生命保険のおかげで、私と娘が金銭的に困窮するようなことはなかった。
ただそれでもやはり私にとって、愛する人のいなくなってしまったこの世界を生きていくことは、これまでの人生で体験したことのない困難と悲しみの連続だった。
あの日から三年余りの月日が流れた今でも、一度も涙を流さずに過ごせた日などは一日たりともない。
もし私がひとりきりだったら、きっともうとっくにダメになってしまっていたことだろう。
「ありがとう、弓ちゃん」
積み木遊びに夢中になっていた娘は不思議そうな顔をして小さく首をかしげた。
「ままなあに?」
「ママとパパのところに生まれてきてくれて、本当にありがとう」
この世界には神様なんていやしなかったけれど、天使は間違いなく存在していた。
「うんいいよ!」
こうして今、私の目の前に。
◇
友人や実家の母、それに夫のご両親の助力を受けながら、私と娘は日々を精一杯に生きた。
幾つもの季節が訪れては過ぎ去り、そのたびにリビングの壁にはフォトフレームが増えていく。
私と夫が出会った日に撮った青色のフォトフレームの写真の近くには、桜が舞い散る小学校の校門の前で大きなランドセルを背負い、少しだけ緊張した面持ちの娘の写真が飾ってある。
その隣の桃色のフォトフレームの横には、夏の夜空に花開く打ち上げ花火を背にし、夜店で買った戦利品を両手に持ち得意げな娘の姿があった。
一番端の黄色のフォトフレームの下には、ふかふかのファーを首に巻いた晴れの日の娘が、頬をほんのりと赤く染めて写っている。
◇
さらに季節は幾度となく巡り、庭の木々がパステルカラーに染まり始めた、そんなある日の朝。
「お母さん。今まで本当にお世話になりました」
娘が頭を下げながら口にしたその言葉は、もう三十年も前に私自身が自分の母に言った台詞と寸分違わず全く同じだった。
まるで雲の上を歩いているようなふわふわとしたこの気持ちは、どうやら感慨というやつなのだろう。
「いってらっしゃい、弓」
随分とそっけのない返答をしてしまったのは、きっとその感慨とやらのせいだ。
本当はもっともっと、言いたいことが沢山あったのに。
「……うん。行ってきます」
若い時分の私にそっくりな、まるで素麺――もとい絹糸のような髪を、海から吹いてくる柔らかな風にはためかせて娘は去っていった。
彼女の旦那さんは彼女の父親にとてもよく似たタイプで、優しくて頼りがいのありそうな素敵な男性だった。
「まあ、弦くんよりいい
だから娘の旦那さんはきっと、世界で二番目にいい男なのだろう。
少しだけ建付けの悪くなってきた玄関を開けて家に入ると、リビングのフォトフレームの中にいる彼に語り掛ける。
「これからはまた二人きりだね。今後ともどうぞよろしくね、弦くん」
微笑みを浮かべたまま押し黙っている彼の代わりに、写真の傍らに置かれた時計から『クルッポ』と可愛らしい声が返ってきた。
◇
やがて黒塗りの高級外車は人里離れた山道へと入り込んでいく。
さらにしばらくして、周囲から人の営みの気配がほとんど感じられなくなった頃になり、ようやく旅の目的地である建物の駐車場へと到着した。
「着いたみたいだね。お疲れさま、流風ちゃん」
助手席のドアから外へと出たと同時に腰に両手を当てて伸びをする。
自然と空へと向けられた視線の先には、今の時期にしか見られない高く深い秋の青が広がっていた。
今に始まったことではないが、年々夏と冬との気温差が大きくなっているような気がする。
それゆえに、そのどちらでもなく過ごしやすい季節が尊い存在に感じられ、僕はとりわけ春よりも秋のほうが好きだった。
そうこうしているうちに車のリアゲートが大きく開かれると、黒装束の人たちの手により、シルクのカバーが掛けられた棺がうやうやしく運び出される。
少しだけ離れたところで直立し、その厳かでもの悲しい光景を見守った。
それにしてもこの施設は、僕が以前に利用させてもらったあの時よりも、随分と大きく立派になってしまったものだ。
仮に目隠しでもされて連れてこられたとしたら、ここが斎場であることなど誰も気づけないのではないだろうか?
白い大理石がふんだんに使用された内観などは、火葬場どころか結婚式場のようですらある。
もっともそのいずれの施設も、人生の大きな節目に利用するという点では同じであり、だとすれば意匠や雰囲気が似通っていることも当然なのかもしれない。
上京したての地方出身者よろしくキョロキョロと辺りを見回す僕を尻目に、いつの間にか愛する人が収められた白木の棺は、銀色の扉の奥へと送られ見えなくなってしまっていた。
もう少しだけここに居ようか?
いや、あとは娘夫婦や親戚一同にすべてをお願いして、一足先に我が家へと帰らせてもらうことにしよう。
それに待っていたところで、僕の分のビールや助六寿司は用意されてはいないだろうから。
◇
斎場から戻ってきてから、いったいどのくらいの時間が過ぎただろうか。
リビングのソファーにだらしなく寝転がり、彼女の帰りを今か今かと待ちわびていた僕だったが、どうやら気づかないうちに眠ってしまっていたようだ。
仰向けの体勢のままで大きく背伸びをしたあと、体操選手のように両足を宙に大きく振り上げ、その反動を利用して一気に起き上がる。
「よっ!」
もともと質量などは伴っていない存在だったが、今日はなんだかいつもよりもさらに身体が軽いような気がする。
レースのカーテンが引かれたリビングに、晩秋の柔らかな西日が低い角度から差し込む。
それはまるで舞台照明のハロゲン電球のように、壁に掛けられたいくつものフォトフレームの中の、僕たち家族三人の笑顔を鮮やかなオレンジ色に染めあげた。
そのどれもが幸せに満ちあふれており、それだけで自分のパートナーがどれだけ素晴らしい女性であったのかを、今こうして改めて思い知らされる。
その時だった。
廊下の奥の玄関からふいに人の気配がした。
人の気配というのは言葉的に少しおかしいかもしれないが、とにかく僕はそちらに慌てて顔を振る。
そこには出会ったばかりの頃の若かりし姿をした彼女が、ピンク色の頬をフグのように膨らませながら立っていた。
「もう! 大変だったんだからね!」
「ごめん」
雨の日の午後に捨てられた仔犬のようにしょぼくれてみせる。
不可抗力だったとはいえ、彼女と娘には本当に申し訳ないことをしてしまった。
「……でもね。わたし、弦くんと出会えたおかげで、本当にすごく幸せな人生だったよ」
そう言い終わるやいなや彼女は小走りで駆け寄ってくると、勢いをそのままに僕の胸に飛び込んできた。
「ただいま!」
「うん。おかえり流風ちゃん」
人の生というのは本当に不思議なものだ。
僕のように道半ばでそれを終える人もいれば、彼女のように天寿を全うしてその幕を閉じる人もいる。
そのどちらが良いとか悪いとか。
そういったことは、生きている人間が勝手に決めたものでしかない。
それがどんな形であれ、生という旅路を終えた当人たちからしてみれば取るに足らないことなのだ。
生まれること。死ぬこと。
それは砂浜に押し寄せた波が、やがては返していくことと全く同じでしかない。
僕の人生はといえば、僕という波が泡になって消えていくまでに彼女と出会い、そして愛し合うことが出来た。
それだけでもう、何もかもが十分だった。
テラス戸から射し込んでいた夕日のオレンジ色は、その照度を徐々に失いながらも尚、リビングに柔らかな光をもたらしてくれていた。
「流風ちゃん、そろそろ行こうよ。暗くなる前にさ」
「あ、ねえ弦くん。その前にちょっとだけ海によっていってもいい?」
「うん、そうしよっか。僕も久しぶりに行ってみたい」
凪いで鏡のようになった海に沈む太陽を一緒に見送ろう。
僕と君が出会った、あの春の日と同じように。
「あ、そうだ流風ちゃん。僕からもいっこだけ言いたいことがあったんだ」
「え? なあに?」
向日葵のような笑顔で振り返った彼女が、黒く大きく輝いた瞳で僕の顔を覗き込む。
「愛してる。これまでも、それにこれからもずっとね」
「知ってるよ。だってそれ、私も同じだから」
終
いつかあなたとまた、あのはじまりの海で 青空野光 @aozorano
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